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「探検家、36歳の憂鬱」ー角幡唯介が語るノンフィクションの分岐点

今日はノンフィクション作家、探検家 角幡唯介氏の初のエッセイ「探検家、36歳の憂鬱」の感想。

「空白の5マイル」「アグルーカの行方」などの傑作ノンフィクションの舞台裏、そして探検とは何なのか、ノンフィクションとは何なのか。
色々考えさせられる1冊でした。

 

著者について 

 

探検家、36歳の憂鬱

 

角幡唯介(かくはたゆうすけ)、1976年生まれ、北海道出身。
早稲田大学の探検部に入部したことをきっかけに、卒業後入社した朝日新聞社を5年で退職、冒険家の道へ。

その後世界最後の空白部と呼ばれるチベット・ヤル・ツアンポー川峡谷の核心無人地区を完全踏査。

その探検を描いた『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』は第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫山と探検文学賞と数々の賞を総なめにする。

今一番勢いのある、探検ノンフィクション作家。

 

探検家の憂鬱とは? 

 角幡氏は現在40歳。

この本は2012年発行、ノンフィクション作家としてデビューした最初の数年間の文章と書きおろしをまとめた1冊です。

角幡氏がどんな気持ちで退職し、探検家を目指したのか、ツアンボー探検で餓死寸前まで陥ったあと過食が止まらなくなった話など、他の著作を読んでいる人にとってはたまらない内容。

これが初の角幡唯介、という人にも著者の人となりや探検について考えていることがよく分かる入門編となっています。

 

新聞記者として五年間経験を積み、三年は暮らしていける程度の貯蓄、やりたい探検や書きたい本のアイデアまでしっかりしたマスタープランをたててフリーランスになったのに、引っ越した最初の夜は布団にくるまってがたがたと震えた…という素晴らしい退職エントリ「スパイでも革命家でもなくて探検家になったわけ」や、震災時日本にいなかったことから(北極探検中)欠落感を感じる「震災ー存在しなかった記憶」も素晴らしいのだけれど、今回はブログについて考えさせられた一篇、「行為と表現ー実は冒険がノンフィクションに適さない理由」の話を。

 

冒険とノンフィクションの関係性

 

「行為と表現ー実は冒険がノンフィクションに適さない理由」というエッセイの中で、角幡氏は命を掛けた冒険となったツアンボー峡谷についての話に触れています。

詳しくは「空白の5マイル」に書かれているのだけれど、著者は一か八かの選択を迫られ、結果的には第三の策で無事生き残りました。

 

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

 

 

しかし、助かった後の複雑な気持ちを、著者はこう綴っています。

 

もし一か八かの解決策をとって生き残っていたとしたら、自分はもっとスリリングな物語を書くことができたんじゃないだろうか。この探検の物語を、人間の生と死にかかわる、より力強いレベルに押し上げることができたのではないだろうか。

 

ツアンボー峡谷の探検記は、著者の二冊目の本。

ライターとして生きていきたいという意思は既に固まっていたし、結果的には角幡の名を世に知らしめた一冊となりました。

旅の間、探検者の目線と表現者の目線、二つの視点で世界を見ていた著者。

最後の局面、彼は人間として躊躇なく生き残ることを優先するのだけれど、もし表現者としての至高を追い求めていたら危ない解決策を取る道もあったのだ、と後から振り返りゾッとしています。

こうした書くこと、表現することを前提とした行為について、その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい、と彼は書いています。

 

ノンフィクションとフィクションの分岐点 

 

ノンフィクションとはなんでしょう?

私は史実や事実に基づいた物語だと思っていましたが、角幡氏は書く前にもノンフィクションとフィクションの分岐点がある、と言うのです。

 

たとえば旅の途中で金品を巻き上げられたらそれは作品を盛り上げる要素となる。

ただし、それが「予期せぬ出来事」ではなく、ライター側があらかじめ危険を理解しながら、それでもネタになるとあえて呼び込む形で行動をとった場合、それは本当の意味でノンフィクションと呼べるのでしょうか?

 

文章に書くことを前提に旅をした場合、旅と言う行為が作為的に、作り物になってしまう可能性がある。

 

ささやかなブログを書いている私にも思い当たる言葉です。
ブログを書くようになってから、今まで読まなかった本や、絵になりそうな場所やイベントを訪れるようになりました。

そうした行為は、書くための小さな作為。

 

普通の人が、ブログやSNSを通じて簡単に表現者になれる時代。

 角幡が考え続けるノンフィクションとフィクションの境界線、は私達にとっても身近な問題なのかも知れないと思いました。

ブログやSNSがあったせいで、生まれてしまったノンフィクションもありますよね?

例えば、コンビニの冷凍庫や冷蔵庫で写真を撮る若者たちは、そもそもSNSが無かったらあんな面倒な行為をしなかったでしょう。

ああいった事件は或る意味フィクションなのかも知れません。

 

私自身も、書くために自分の生活を見失わないように、境界線を見極めないと。そんな風に思いました。

 

あなたのブログ、面白く書くために、いきすぎてませんか?

 

書くために、さらにスゴイ冒険をするために。
どんどん危険を冒してしまう探検家のジレンマを「探検家、36歳の憂鬱」で学びました。

ホントに色々考えさせられる1冊。オススメです。

 ちなみに文庫版「探検家の憂鬱」には文庫特典として「極地探検家の下半身事情」「イスラム国事件に対して思うこと」などが収録されているそうなので、これから購入するならそっちの方がいいかも。私も買っちゃおうかなぁ…。

 

探検家、36歳の憂鬱

探検家、36歳の憂鬱

 

 

探検家の憂鬱 (文春文庫)

探検家の憂鬱 (文春文庫)

 

 

 (今読んでる最新作。とにかく凄い本です)

漂流

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