おのにち

おのにちはいつかみたにっち

ウサギの檻で死んだ子供と閉じていく家庭の闇

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昨日の夜つらいニュースを見た。

3歳の子どもをウサギのゲージに閉じ込めて、殺してしまった両親の話。

私は最初憤った。

大人でさえ数日寝ているだけで足が萎えてしまう。
こんな窮屈なオリに何ヵ月も閉じ込められた子供はどれだけ苦しかっただろう。
こんなことをする親は同じ目に合わせてやればいいのだ、と思った。

 

でもその後流れた母親の顔、ホストだという父親の姿、子だくさんだった家庭の小さなアパート、発育に遅れがあり上手く話せなかったという死んだ子供の話を聞いていたたまれなくなった。

 

虐待に至るまでの過程を思い浮かべてしまったから。

 

母親は暗い目をして、自分に自信がなさそうな、孤独そうな人だった。
友達がいなかった頃の私に似ていると思った。

そんな彼女がホストの彼と出会い恋に落ちる。

二人の生活は苦しそうに見える。
たくさんの子ども、貧困、生活苦。

異常なお金の使い方、指にタトゥーをいれてしまうこと。

ニュースを見ると貧困家庭の闇が見えてくる。

 

そんな中少し違う、手のかかる子どもが生まれる。

本当は誰よりも愛情をかけて育ててあげなくてはいけない子供は貧困によるストレスのスケープゴートになる。

しつけと称したストレス解消は閉じた家庭の中で当然のこととして見過ごされてしまう。

 

だってこぼすんだもの、ちらかすんだもの。

 

この子が悪いの、私たちは悪くない。

 

そうして罪のない子どもは死んで、母親は子を失った悲しみより夫への愛を語る。
彼女は子供に愛を注ぐより愛されたかったのかもしれない。


どうしたらあの子を救えたのだろう、と考える。

 

結局行政に、周囲に出来る手立てはなかったのかと思うだけだ。
狂ってしまった家庭のルールの歪さに、本人たちはきっと気がつかない。


家庭訪問は異常を察するためにある

 

家庭は一番小さな社会だ。
現代の核家族化で単位は更に小さくなって、外との関わりを持たなければ完全に閉じてしまう。

サークルの中にいる人たちはその歪さに気がつかない。
3DSを二つ折りにして炎上して、初めて気がついたりする。

 

子どものゲームを壊してしまう人に怒りながらも、私は背筋が寒くなった。
4人暮らしの私の家も、誰かにとってはおかしかったり歪な所があるのかもしれない。

我が家は平和で幸せな、ごく普通の家庭です。
本当にそう言い切れる?普通って何?


私の住む町では子どもが生まれて1ヶ月とか1年といった節目に保健師さんが家庭を訪れて成長を確認したり母親の相談に乗ってくれる。

一人目のときはわからない事だらけでありがたかったのだけれど、子育てに慣れた二人目の時には掃除や迎え入れる準備をすることが少し面倒に感じられた。

小学校の家庭訪問も、掃除やお茶の準備が手間である。

正直なぜ自宅なんだろう、学校や保健センターで済ませてくれたら楽なのにと思っていた。

 

今回の虐待や、様々な事件のニュースを見ていて気がついた。

 

何かが起きる家は、家が荒れていることが多い。
ベランダにゴミがおきっぱなしになっていたり、使われなくなった三輪車やおもちゃが外に投げ捨てられたままになっていたり。

もしかしたら心の荒廃や余裕のなさが表に現れるのかもしれない。

掃除が嫌いな人でも、家庭訪問といえば片付けるのが普通だ。

保健師や教師が来ても散らかったままで気にしない、招き入れる事を拒否する。
虐待につながるかも知れない、そうした心のSOSを知るために家庭訪問はあるんだろう。

 

小さな異変だけで介入していくことは難しい。
でも誰かが訪問することで世間の目を気にする。
それはささやかでも虐待のストッパーになるかも知れない。


ただ今回の事件では児童相談所の職員が何回も立ち入っていても、救うことは出来なかったのだけれど。
もう少しだけ権限を、強制力を増やすことは出来ないのだろうか?

異変に気がつきながらも救えなかった人達の気持ちを考えるともどかしい気持ちになる。


繋がる、許される子育て

 

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子どもをウサギのオリにいれてしまうような人は異常だ、自分とは違うと思いたい。

でも彼らは私と同じ人間だ。

私自身小さな子どもと向き合ううえで手を上げてしまいたい、叫び出したい、逃げ出したいと思ったことは何度もあった。

 

一人目の子どもが2歳になる頃、夫が半年ほど単身赴任になった。
私は小さなアパートで子どもと二人になった。

心配事の多かった乳児期は乗り越えたし、私一人でも大丈夫と思っていたら2歳児は天使で悪魔だった。
目が離せなくて道理が通用しなくてわがままで甘えん坊で泣き虫で。

一時期は風呂が大嫌いになって、毎晩お風呂の度に泣き叫ばれた。

私の救いはアパートの下の部屋に同じく2歳の子どもを持つお母さんがいたこと。
その子は夜眠るのが嫌いで毎晩9時になると泣き叫んでいた。

その泣き声を聞いて、泣かせてもいいのだ、子供は泣くものなのだと気が楽になった。

そうして下のお母さんと顔を合わせるたびに虐待じゃないのよ、と笑った。

 

今考えると他の住人には地獄のようなアパートだったかも知れない。
顔を合わせるたびにうるさくてすいません、と謝りどうしだったけれど皆優しかった。

怒らず、元気なことはいいことだと子供の頭を撫でてくれた。

私はあのアパートにいたから2歳児のイヤイヤ期を乗り切れたんだと思う。

 

もし周りが正しいヒトばかりで、あんなに泣かせるのはおかしい、うるさい、なんとかしろと責められたら?その状況で一人だったら?

 

私は泣き声をどうしたのだろう。

 

今子供が成長して、少し楽になって。

ようやく気がついたのは一人目の子どもを育てていた時の自分の必死さ、頑なさだ。

あの頃はとにかく先が分からなくて、育児書に書かれている通りにしないと死ぬ、くらいの勢いで子どもを育てていた。
今考えたら号泣するほど嫌がるなら毎日風呂に入れなくても良かったし、下のお母さんだって必ず9時に寝かせなくてもよかったのだ。

規則正しい生活栄養運動。
本に書いてあることはもちろん正しいけれど、健康のために心を病むほど必死になるのはおかしい。

私達はみんな、少しずつ育児ノイローゼだった。

 

楽になったのは育児サークルに入って、色んなお母さんや子どもたちを見てから。

育児書通りだと発育が遅れているように感じられる子どもは集団の中では普通だった。

子どもに絶対に甘いものを与えないお母さんもいたし、うちの子朝ご飯はチョコレートなの、なんてけろっと言うお母さんもいた。

そんな風に色んな子ども、色んなお母さんを見て育児書は絶対じゃないんだ、と肩の荷が下りた。

他の家庭を見て、自分の厳しすぎたところ、甘かったところに気がついた。

そんな風にみんながお互いの子ども、家庭を見て子育てをしていく。
近所の人達も優しく見守ってくれる。

地域ぐるみの子育て、というのはこういうことなのかも知れない。

私は完璧な母親じゃない。
40年生きたって完璧な人間には程遠いのに、10年やそこらで完璧なお母さんになれるもんか。

でもこうやって周りを見て、周囲の手を借りて育てていけば、夫婦二人だけで育てるよりきっといい子になってくれる。
そう信じている。

 

少子化が進む時代の中で、子育てはどんどん難しくなっていく。

どうか辛いときは閉じてしまわないで。
自分と子どもと。世界がそれだけだと周りが見えなくなる。

あなたの子どもはあなたのモノじゃなくて彼らの生を生きているのです。

行政や、外に世界に助けを求めて下さい。
それは親失格なんかじゃない、子どもを守る優しい親なんです。

 

長くなってしまいました。

伝えたい事が多すぎてまとまらないけど、続きはまたいつか書きたいです。

それではまた。