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はあちゅうさんの言葉と、ブログで反論を書く意味

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はあちゅうさんの話題の記事を読んだ。

旅で人生観が変わったという人は薄っぺらい。はあちゅうさん自身は何も変わらなかった。そういうことが書いてあった、と思う。

 

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旅で人は変わるのか?

 

とても素敵なノンフィクションがある。
中村安希さんの「インパラの朝」。

 

インパラの朝―ユーラシア・アフリカ大陸684日 (集英社文庫)

インパラの朝―ユーラシア・アフリカ大陸684日 (集英社文庫)

 

 

20代の女性が、たった一人で二年間、ユーラシア・アフリカ大陸を旅する。
異郷で知らない価値観に出会い、時には怖い思いをして、拡がっていく心の変化が瑞々しく描かれた、素晴らしい旅の記録だった。

沢木耕太郎さんの「深夜特急」を初めて読んだ時も強い衝撃を受けた。
私はもう社会人だったので、なぜこの本を学生時代に読まなかったのか、と後悔した。

私はバックパッカーになれなかったし、無謀な一人旅もしなかった。
海外なんて新婚旅行のハワイくらい。

でもインパラの朝や深夜特急を読んだことで、私の心の中に小さなバックパッカーが住み着いた。色々な人が書く旅のブログも、私に新しい世界の空気を運んできてくれる。

 

私は旅が人を変えると信じている。

でも『旅だけ』が人の心を変えるわけではない、とも思う。
違う物を、知らない物を受け入れるしなやかさが、人の心を変えるのかもしれない。

はあちゅうさん自身は何も変わらなかったかもしれない。

でも旅で変わったと思うことが薄っぺらいだなんて、沢木耕太郎に、中村安希さんに、胸を張って言えるのだろうか?

何より、自分の本を読んで旅を夢見た読者を、傷つける言葉だとは思わなかったのだろうか?

 

心を傷つける言葉と抗うこと

 

ネットには時々怖い言葉が落ちていて、胸を刺されることもある。

先日は、TOKIOが宣伝する福島の食品への酷い言葉を見かけた。この言葉を呟いたのが、私の好きなミステリの作家さんだ、という事が一番悲しかった。

この方の本は読んだことが無かったけれど、これがもし好きな作家さんの発言だったら、と思うだけで背筋が凍った。
現実の発言と、創作の世界は分けて考えなくてはいけない、と分かってはいるけれど。

 

こんな風に胸を刺す言葉と出会った時、どうしたらいいのだろう?

 

東北大震災から数年が過ぎたころ、私は福島県内の道の駅でアルバイトをしていた。
売っているものは県内産ばかりだった。

ある人は私に、福島県産と書かれた表示のタグを「取って下さる?」と言った。
「ほら、おみやげにするには、ちょっとアレでしょう?」
上品に話すその人は、そう言って微笑んだ。

ある人は「福島県産じゃない商品はないの?」と言った。
「他県産も置かないと。福島にお金を落としたいと思ってもこれじゃ無理だよ。もっと勉強しなさい」

店員だった私には何も言えなかった。黙って、薄く笑っていた。

震災直後は、放射能の影響が過剰に心配されていた。子どものために、自分自身のために、大げさであろうと自主避難すること、食べ物や水に気をつけることが良識である、という扱いだった。

私自身、一時期は子どもを外で遊ばせていいのか、と悩んだし避難も頭をよぎった。

震災後、福島の米は全て検査を受けるようになった。
国、県、JAと生産者の努力で、出荷しない、家で食べる分の米まで全てが検査されている。全品検査、は大げさじゃない。福島の農家さんの努力の成果だ。

何となく不安、という形のない意識に、数字で、データで本当のことを証明していこう、という福島県の表明でもある。

そうやって、道の駅で野菜を売る私も、福島の農家さんも、みんな信じて待っていたのだ。正しいことはいつかきっと届くと。
風評は風評でしかない。時が解決してくれると。

 

だからネットで痛い言葉に出会ったとき、私がしたことは見過ごすことだった。

こういう考えを口に出す人は未だに存在する。
でも時が経てばきっと分かってくれる。こうした意識はきっと風化する。

だからTwitterでも、こんな風に呟いた。

  

 

でも帰ってきた言葉に、もう一度考えさせられた。

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(4日も前の話なのではてなのTwitterでは読み込めなくて写真になってしまった)


最近、炎上を狙う文章には反応しない方がいい、という話を読んだ。
そうするのが大人だと。
反応しないことが、自分の良識である。そんな内容だった。

それは私が信じていた「伝わる日を待つ」ことに似ている、と思った。

でもゆきぼう氏の言葉に、「待つだけでいいの?」と考えさせられた。
大人ぶって、諦めて。
そのまま停滞してしまったら、自分の真実だけを信じて、議論することを恐れたら。
それは知らない事を受け入れるしなやかさを失うことだ。
はあちゅうさんと同じ穴のムジナになってしまう。

 

発信する術を持たない頃、私に出来ることは「時を待つこと」だけだった。

田舎で過ごす人生には様々な不条理があった。
女の子には学問はいらない、と言われた日もあったし、好きなことじゃ食べていけない、と夢を諦めた日もあった。
何もできない私に抗う術はない、でもこうした価値観は絶対におかしいから時を待とう、もっと自由に生きられる時代を待とう、と思っていた。

今は少しずつ変わってきた時代の最中にいる。

でももしかしたら、「日本死ね」みたいに、小さな言葉でも何かを変えることが出来るかもしれない。

私達が変えなくても、いつかは時が満ちるのだろう。
でも書くことで一分一秒でも、変化を早めることが出来るのかも知れない。

議論も反論も、どうせ届かない、と思うこともある。

でも沢山の人が旅について思うことを書けば。
それは炎上狙いの人の思うツボ、なのかも知れないけど。
誰かの書いた「そんなことない!」という叫びは、はあちゅうさんの本を読んで夢を見た、裏切られた、と思った誰かを救うかもしれない。

 

違う意識を知るということ

 

私が思うことと、はあちゅうさんが思うことは違う。
でもそれはどっちが正しい、という問題ではない。

ミステリ作家さんも、自分にとっては真実だと思うことを呟いたんだろう。
誰かに何かを言わないで、なんて強要することは出来ない。

私の言葉だって、上から目線のくそったれのポエムだ、なんて叩かれる。
それでも私は書くんだから、誰かに「傷つくから書くな」なんて言えない。

でも違う!と感じたときに、私はこう考えている、と書くことは出来る。
異なる考えとぶつかり、自分の思いを綴ること。

それはきっと旅で得られる何かに似ている。

私には、はあちゅうさんやイケハヤさんみたいな確固たる自信は持てない。
四十になっても、よく間違うしバカだし失敗ばかりだ。

だからこそ言及や反論に意味がある。

そうやって書くことで、ぶつかることで、あの頃夢見たボンベイ行きの夜行バスの旅をしているのだ…と言ったらまた、過剰なポエムだと笑われるだろうけど。

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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