おのにち

おのにちはいつかみたにっち

暗い夜道と物語の目線

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お風呂上がりにコートを羽織って家から5分の自販機まで歩いた。

明日の遠足用に、水筒に入れるはずだったアクエリアスを先に風呂から上がった子どもが見事に飲み干してしまったからである。
普段はお風呂上りには牛乳かお茶派なのに。

これは遠足用、と言っておかなかった私も悪いのだが、1週間も冷蔵庫に放置してあったペットボトル。まさか使いたい日の前日に飲まれるとは思わなかった。

 

暗い夜道をジュースを買いに歩いていると、同じように物語の中で歩いていた女の子を思い出した。

小学生の頃読んだ佐々木丸美さんの「雪の断章」。
確か斉藤由貴主演で、映画化されていたはず。

主人公はお金持ちの家に引き取られた孤児の女の子。
彼女は養い親の実の娘たちから嫌がらせを受けている。
その日も、お風呂上がりに彼女が飲んだぶどうジュースが最後の一杯だったから新しいものを買ってこい、と姉に言いつけられ北海道の冬の夜道を凍えながら歩く羽目になる。

お風呂上がりの一杯のジュースは子どもたち皆に与えられる小さな楽しみで、いつも冷蔵庫に2種類入っている。姉はぶとうジュースが嫌いだったから、これを飲んでも平気だろう、と彼女は最後のジュースを飲んでしまう。
しかし意地悪な姉はそれを見逃さず、今日はどうしてもぶどうジュースが飲みたかった、今すぐ買ってこい、と小学生の義理の妹を北の寒空の下に放りだしてしまうのだ。


冬が近づく夜道は空気が澄んで心地よかった。
もう少ししたら息が白くなるだろう。新月の夜だから星が綺麗に見える。

暗い夜道が怖かったのはいくつの頃だっけ、と余裕をかましていたら草やぶで音がして震えた。痴漢より獣が怖い会津道。

街頭の下の児童公園のベンチには、物語の中の女の子がうなだれているような気がした。

たかが小説、たかが漫画と笑われるかもしれないけれど、ときおり物語の中の登場人物を色鮮やかに思い出す時がある。会ったこともないのに、親友や家族のように姿が目に浮かぶ。物語が血肉になる、とはこういうことを言うのだろうか。

子どもの頃は辛いこと、くじけそうなことがあるとその時好きだったコバルト文庫のキャラクターを思い浮かべた。

こんな時マリナだったら、あゆみちゃんだったら、ミッキーだったらどうする?
特に中学の頃は本気で友達がいなかったから、くよくよしたり行き詰るたびに彼女たちならどうするだろう、を考えた。

もちろん小説のようには振る舞えないのだけれど、彼女たちなら?を思い浮かべるだけで自分の悩みがちっぽけに見えたり、気が楽になった。

今考えると別の視点で世界を見る、ということを物語のキャラクターを通してやっていたのだと思う。

閉鎖的な田舎で逃げ場がなかったあの頃の私にとって、本を読むと言う事はたくさんの視点を手に入れる、多様性を知って生きやすくなるための旅だったのだなぁ、と今は思う。

 

お店が閉まっていてジュースが買えず、ベンチで泣いていた女の子は救い主と出会い冬の季節から春を迎える。そこから物語がどうなるかは是非本を読んで欲しい。
乙女チックだけれど印象的な物語だ。

  

雪の断章 (創元推理文庫)

雪の断章 (創元推理文庫)

 

 

ちなみに家から5分の自販機にはアクエリもポカリもなく、私はGREEN DA・KA・RAを買って帰った。帰って「えーダカラまずいよ。お茶でいい!」などとのたまう子どもたちを前に、私は熱弁を振った。もう少しGREEN DA・KA・RAの目線に立って世界を見ようと。せっかく名前に・を2つも入れたのに、まずいと言われる作った人の気持ちも慮れ、と。

残念なことにGREEN DA・KA・RAのペットボトルは冷蔵庫で眠っている。
子どもたちにダカラからの視点はちょっと早かったのかもしれない。

 

考えてもどうしようもないようなことばかり頭に浮かぶ夜には、視点を変えてみてほしい。こんな時、憧れの主人公ならどうするだろうって。

世界はなにも変わらないけれど、少しは気が楽になるかも知れない。
大好きな物語を思い浮かべながら、おやすみなさい、いい夢を。