おのにち

おのにちはいつかみたにっち

社会の「息苦しさ」を変えていくのは誰?

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最近立て続けに辛い話を見かけた。

一つは消防団の方達が大会帰りにうどん店に立ち寄ったらメールで咎められた、という話。
もう一つは教職課程雑誌に載せられた座談会の話が酷すぎる、という訴え。

 

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消防に関する話は、私の街でも聞いたことがある。
救急隊員が遠くの病院に救急搬送した帰り道、長時間休息なし、食事も取っていないので救急車でコンビニに立ち寄ったら、勤務中にコンビニなどけしからん!と言う正義のお叱りがあり、買い物できなくなってしまったという。
今は病院でこっそり買い物するけれど、時間によっては購買が空いていないから辛い…と言う話だった。

24時間休みなしで頑張ってくれてるんだから、コンビニでコーヒーぐらい飲ませてあげてよ、と思うけれど、それが仕事!勤務時間中!と正論を言われると悲しい。

雑誌の保護者座談会の話は更に酷い。
こんなふうに若い先生に滅私奉公を求める親は、話題作りのための創作だと信じたい。
もしこんな親が実在するんだとしたら、あなたのお子さんがそんな風に我が身を投げ打って指導してくれる先生に憧れて、教師を目指したらどうするの?と聞きたい。

プライベートを投げ打ってでも仕事をなさい、それが教師の使命です、と我が子にも言えるんだろうな?と問いたい。

大学を出たばかりの先生たちは、私より息子の年齢に近い。
皆等しく、誰かの子どもなのだ。
自分の子に、早く帰りなさい、たまには休んで、疲れたときには休憩するんだよ、って願うような優しい気持ちを、なぜ教師には、消防士には持てないのだろう?

教師らしくあるべき、公務員らしきあるべき。
そんなべきべき、まっぴらだと思う。

確かにどんな職種においても理想はあると思う。
なかでも教師は指導者として『理想の大人』像が求められてしまう。

でも教職免許を取っても教師の魂はついてこない。
そういうのは仕事をしながら、他の先生方を見て学んでいくもんじゃないだろうか。
それには周りを見回す余裕が必要で、座談会のお母さんが言うような滅私奉公の日々を詰め込んだら実務に振り回されて消耗しきってしまう。
そこに『心』が育つ余裕はあると思う?

べきべきべき!を追求して、自分が心地良い正しさを他人に押し付けて。
「おもてなし」を受ける側でいられるときには、確かに心地いいもんでしょうね。
でもあなたの求める『正しさ』を演じるのは、いずれあなたの子供の、甥の、孫の役割になるかもしれない。そんなふうに少し先のことを考えたら、他人に優しくできるのかも。


消防士さんだって、人間には交感神経と副交感神経があるんだから、勤務時間中ずっと気を張ってなさい、いついかなる時も完璧でいなさい…はさすがに無理じゃない?
ロボコップやターミネーターみたいな理想を求める気持ちもわかるけれど、中の人は私たちと同じ人間ですからね。いくら鍛えたって機械にはなれない。

いざ!に備える人たちはみんな休めるときにしっかりおいしいご飯を食べて、体力を蓄えておいてほしい。
そうしないと実際に『いざ!』が来たとき交感神経バリバリで活躍できないじゃないですか。

私はちゃんとご飯を食べて、適切な力を出せる人に助けて欲しい。
子供を教える先生にも、休日はしっかり休んで、ストレスのないクリアな頭で教壇に立って欲しい。

人に優しくすることは、甘やかしたり社会の秩序を乱すことじゃない。
最高のサービスを受けたいんだったら、厳しさより優しさが必要なこともあると思うのよね。

 

社会には、北風よりも太陽を。

 

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冷たい言葉も温かい言葉も、循環するものだと私は思います。
私が人に優しい言葉をかけるのは、そういう言葉が好きだからです。
暖かいこと、誰かを褒める言葉を呟くと同じように優しい言葉が返ってきます。
そうすると嬉しくて、また誰かの素敵なところを探したくなる。
誰かのすごい!が素直に認められる人のところには、すごい!頑張ってるね!がちゃんと帰ってくると思うのです。


消防団がポンプ車で食事をとっているところをわざわざ写メして送った人は、ただ正しくないことが許せなかっただけなのでしょうか?

イライラカリカリ、ちくしょう仕事中にサボりやがって…と思う前に、せっかくの日曜日、午前中は消防団の行事、午後は地域行事お疲れ様です、地域のためにありがとう!という気持ちは微塵もわかなかったのかなぁ。

あなたの住む地域だよ?初期消火に来てくれるのは消防団だよ?

好きでやってる…人はいまどき少ないと思う。
みんな休日はちゃんと休みたいけど、なり手がいないから仕方なく引き受けてくれてるんじゃないかと。

PTAとかでも、総会で書類の小さなてにをはのミスを逐一追求する人がいる。
どうしても気になる…とか、そういうの得意だから参加して直したい、ならいい。
一緒にやっていこう、という意識があるなら全然問題ない。

敵対意識で向かってくる人、お客様意識の人はなんでなの。

あなたは外部にいるんじゃねーんだよ、お客様じゃねーんだよ。
あなたの地域、私たちのPTA。
わたしたちはみんな同じ社会という輪の中にいるんだよ。


そう考えたら糾弾の言葉の前に「ありがとう」の一言が出てくるはずなのに。
そしてその言葉は巡り巡って、あなたを生きやすくしてくれるんだよ。

 

『あるべき』世界を変えるのは

 

世界は正しくあるべきで、正しいことを正しいと言って何が悪い?と思う人たちはいつの時代も、一定数存在するのだと思う。

彼らの言葉を止めることは出来ない。
道徳の線引きは時代によって曖昧だから、意見を寄せること、議論を交わすことは大切だと思う。

もう少し自由でいいんじゃない?とは思うものの、さすがに昭和の、消防団がお昼に車でビールを飲むような時代を認めるのはどうなの…と躊躇してしまう思いはあるし。
こうした『行き過ぎた自由』へのストッパーとして、時には厳しい意見も必要なのかも知れない。

だからと言ってコメント欄にあったように、こうした意見に屈してしまう側が悪い、という意見にも同意できない。
正論だとは思うんだけど、悪いと責めるのはちょっと酷すぎる。

誰かに正論で責められて、謝罪すれば今度は謝ったことを責められて。
八方ふさがりじゃない?味方はどこにいるの?

そして誰も悪くないんだとすれば、どうやって社会を変えていけばいいの?

 

私はその答えがみんなのコメントやツイートなんじゃないか?と思った。

先生も休んでよ。消防車でうどん、別にいいのでは。
そんな声がたくさんあった。

市井の私たちの小さな声も、まとまれば『世論』になる。

えー⁉と思うことがあったならコメントしてみる、リツイートしてみる。
そういう小さな意思表示が世論になり、当たり前になれば、コンビニに救急車が停まっていても誰も気にしない明日が来るのかもしれないよね。

 

誰かにちゃんと休んでね、と言うことは、あなたの首を絞めることではない。
あなたの未来を自由にするための行為だと、私は思う。

先生がちゃんと休めて、ポンプ車でうどんを食べても怒られない社会になったら。
お昼休みに社名入りの車で昼寝していても、タクシーの運転手さんが休憩中ハンドルに足を乗っけていても。何一つ、おかしくないよね?

そしてそういう社会はきっと、働けない人にも優しい。

昭和の雑多さと、平成の几帳面さを生き抜いてきた私たちなら、議論の中でちょうど良い『生きやすさ』を見つけられるんじゃないのかな、と思うのです。
そしてそれは誰もが簡単に意見を述べられる、今なんじゃないのかな、と。