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北村薫『ヴェネツィア便り』感想-時を越えて届く物語

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北村薫さんの『ヴェネツィア便り』を読み終えた。

タイトルから旅エッセイだと思い込んでいたので、読んでみて少し驚いた。
新刊の中身は短編小説集であったのだ。
それも少し仄暗い、不穏な気配のする物語が多かった。

心中をしよう、から始まる双子の兄弟の物語『誕生日-アニヴェルセール』、溢れだす「ナニカ」に祟られるホラー『開く』、不思議な力を持つ会社の同僚を描いた『岡本さん』。嫌な気持ちがもわっと立ち上がってくるような『黒い手帳』。

どれも短くて淡々とした話なのだけれど、物語の中に刻まれた時間が奥行きを感じさせてくれる。テーマは『時と人』だそうである。

書かれていない余白を、終わりのその先を想像したくなるような物語であった。

 

ヴェネツィア便り

 

北村薫といえば殺人が起きない、優しいミステリのイメージが強い作家さんである。
けれど傑作ミステリ『盤上の敵』のように、名前のない悪意や、どうしようもない残酷さを静かに描くような作品も素晴らしい。

『ヴェネツィア便り』はそんな風に北村薫の『暗い一面』を上手く切り取った短編集である。強く心を揺さぶったり、涙を誘う感動作はないけれど、なぜか心に引っかかる。
そんな風に記憶に爪を立てていくような物語もとてもいいな、と思う。

私はいつか思い出すのだろう。
夜のバスの行き先、朝の光のむこう。
ああこの景色はあの時読んだ物語によく似ていると。
そんな風に物語と現実の境目にいるような感覚に陥る瞬間がとても好きだ。

 

なお、北村薫さんが初めて暗い作風に挑んだ『盤上の敵』文庫版には異色の前書きがついている。

 

盤上の敵 (講談社文庫)

 

この物語は、心を休めたいという方には、不向きなものとなりました。読んで、傷ついたというお便りをいただきました。

 

前書きというより、いつもの北村ワールドに癒されに来た人のための、注意書きなのかもしれない。盤上の敵のハードカバ―版を読んだ読者から「(内容に)傷ついた」という言葉が寄せられたのだそうだ。

前書きには『 今、物語によって慰めを得たり、安らかな心を得たいという方には、このお話は不向きです』という警告文がついている。

初めてこの本を開いた時は少しギョッとした。
不向きです、なんて注意書きを目にしたら身構えてしまうではないか。

実際の本編はと言うと、確かに重く心に残るラストだった。
でもそれよりも緊迫した物語の先行きが気になって、次々ページを捲りたくなるミステリとしての味わいの方が強かったと思うのだけれど。

しかしこんな傑作ミステリに『傷ついた』という感想が寄せられるなんて、そして作家自身がその反応に対して本に注意書きを付けてしまうだなんて。

本の売り方としては注意書きなんぞをつけずに、いつも通りの北村ワールドとして売った方がどんでん返しミステリの面白さ、そして作品のインパクトは強まったと思う。

けれど読者のためにこうした前書きを付けてしまう「品の良さ」が、優しい話の中でも暗い話の中でも、北村薫作品に一本通った『筋』をつけているのでしょう。

 

そんな訳で少し暗いけれど澄んだ空気の流れる『ヴェネツィア便り』、ちょうど旅に出るあなたにはオススメなんじゃないのかな、と思ったのです。

 

ヴェネツィア便り

ヴェネツィア便り

 

 

追伸:いつも品ある北村薫作品、大好きなんですがチョコレートの後にポテチを食べたくなるように『対極にあるもの』を読みたくなってしまいます。

私が北村薫さんの真逆だと思う作家はしょうもない犯罪、腐れた田舎町、バカばっかりの物語に疾走感とゲロをまぶして描くのがめっぽう上手い戸梶圭太さん。
北村薫さんと戸梶圭太さんの作品を交互に読むと人生の拡張感を味わえるので、更にオススメですよ。

 

闇の楽園 (新潮文庫)

闇の楽園 (新潮文庫)