おのにち

おのにちはいつかみたにっち

激励のつもりが罵倒になってしまう人の心理

スポンサーリンク

しんざきさんの、こんな記事を読みました。

blog.tinect.jp

 発端はゆうきまさみ先生の

これから駆け出しの漫画家さんを応援しようと思っている方にお願い。応援したいと思うなら激励だけしてあげてください。叱咤はいりません。

 というツイート。  

togetter.com

 

しんざきさんは「激励のつもりで罵倒しか出来ていないファン」が多いんじゃないか、そしてそれはパワハラ上司的な人の言葉と同じ要素が含まれてるんじゃないか…というような事を書いておられました。

 

というのは、世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか、と私は感じているんですよ。

つまり、それこそ「悪評が漫画家を育てる」的な信念の元、いわば愛の鞭のようなつもりで罵倒を投げてきている人もいるんだ、と。

ただ、もし「応援したい」と思っているのならば、特にその対象がまだ走り出したばかりの人であれば、「愛の鞭」的なことを指向するよりは単純に励ましてあげた方がいい場合が多いんじゃないか、とは強く思います。

 

しんざきさんにも、ゆうきまさみ先生にも、はてしなく同意します。
 自分が好きな作品の続きを読みたいなら、もっと面白くなってほしいと願うなら、ここが面白かった!このキャラが好きでした!とダメな所より良い処を伝えるほうが、近道だと思う。

ところがゆうき先生のツイートにも、こんな意見をぶつける人がいる訳で。

世に作品を出すなら叱咤激励を受けるのは仕方ない。聞き入れるどうかは別の話。取捨選択すればいいだけ。

「ムチはいらない、飴だけ欲しい」という意味なら、それは違うと思う。 人間、飴ちゃんばかりもらっていては病気になる。 いい漫画家が育たない。

 

ただ、こういう事を言う人の話、私はほんの少し理解出来るんですよね。
特に飴ばかり貰っていては病気になる、の下り。

私も子育ての時に甘くしてばかりでは駄目なのではないか、時に厳しく突き放すのも親の愛ではないのか…と感じてしまう時があります。

その意識はどこから来たのか?
源流を辿っていったら、いい人間が育たない、と思ってしまう人の気持ちがほんの少し分かるような気がしました。

 

自分でやらせる前に、出来るまで教える

 

ある時、小二の息子のことで思い悩んでいました。
準備が遅く、忘れ物の多い息子。
一年生の時から明日の準備、宿題の確認は一緒にやっていました。
親子で確認すれば、忘れ物は0、宿題もバッチリです。
でも、いい加減一人でやらせた方がいいのではないか?と思いました。
宿題を忘れて残されたり、忘れ物をして困ったり。
そういう『嫌な経験』をしないといつまでも自分で出来るようにならないのではないか、自立のためには手出ししない方がいいのではないか、と思ったのです。

旦那の答は明快。手伝える時間があるなら手を貸してやればいいし、忙しい時は放っておくしかない。心配しなくてもそのうち一人でやるからいいと言われる日が来るよ、と。

他にも99点を取った息子に私はつい惜しかったね、見直しをちゃんとやっておけば…!なんて言葉を掛けたくなってしまいます。
旦那は明快。スゴイ!と褒めまくる。-1点には触れません。一番悔しいのは自分だから、黙っていても次回は気をつけるよ、と。

苦労や逆境なんて、彼らがこれから生きていく社会に満ち溢れている。
過剰に甘やかすのは確かにいけないけれど、親があえて厳しさを教えたり、冷たく当たる必要は無いのかも知れない。夫を見ていて、ようやく自分の中の氷が溶けたような気がしました。

 

私の母は娘を褒めない人でした。
容姿はコテンパン、気が利かない、運動神経が鈍い、とにかくどんくさい…等々。

思春期には何度も本気で訴えました。
容姿をけなさないで欲しい、どうせ出来ないとか、お前には無理と言わないで欲しいと。そう言われると、本気で出来ないような気分になって、萎縮してしまうのです。

私の訴えは一度も理解されませんでした。
親子なんだから本音で話すのが当たり前。 外では謙遜して、家では思いあがらないように褒めないようにしてやっている。 嫌なことを言ってやるのが親の務めだ。

どうやら母は私の鏡として、感じたマイナス点を全部ぶつけるのが親の務めだと思っているようでした。

でもその鏡は歪んでいて、実際の私よりも卑小で愚かに見えてしまうのです。
成績優秀賞、絵画や作文の金賞。色んな賞状を持ち帰っても褒められることも飾られることもありませんでした。 女の子だから要らないよね、で終わり。

母に認められるにはもっと運動神経が良く、美人で気の利く女性にならなくてはいけないのです。それがかつての母で、当時の私に求められているものでした。

結局そんな実家の居心地が悪くて、私は早くに自立しました。
初めて出た社会で、私はたくさん褒めて貰えました。
周りよりしっかりしている、自立している、頼りになる。

女の子は自分のことは自分で、という家庭方針だったので、中学生の時からアルバイトをしてお小遣いを稼ぎ、通信簿の親のコメントや学校に提出するプリント関係もすべて私が代筆していました。勉強よりも家の手伝いと言われていたので祖母の食堂の帳簿つけや申告用の書類作成も私の仕事でした。

結果社会で褒められた、認められた時、私はこう思ってしまいました。
ああ、お母さんが『何もしてくれなかったおかげで』私はこんなにしっかり者に育ったのだ、『厳しく当たられたから』きちんと自立できたのだ、と。

子どもはどうしても親に感謝を捧げたい生き物なんでしょう。

 

でも何もしないのは『あえて』なんかじゃないし、『厳しい言葉』は心を鬼にして吐き出されたものじゃない。自分が子育てをする中でようやく気が付きました。
しっかりと身に付くまで教える前から自分で考えなさい、と放置するのはものすごく楽です。みんなの前で勢いで飛び出してくる叱咤はただの怒りです。

結局本当に『子どものためになること』って勉強でもスポーツでも、時間を掛けて、頭を冷静にしてきちんと向き合ってあげる事なんじゃないでしょうか?
仕事だってそう。ろくに教えもしないで好きにやってみろ、それで出来なかったら怒る人はただの手抜き野郎です。

厳しい言葉が必要な時も勿論あります。
ただその時は怒る側も冷静になって、きちんと言葉を選んで、別室でちゃんとした『話し合い』をしなくちゃいけない。それは親子だって会社だって同じこと。

未だに、厳しくされた『おかげで』自分はこうなれた、という思い込みは消えません。
それは今の自分を肯定するために必要なことかもしれない。

でもそれは私の話だから、と一旦意識を打ち切って、子どもにも部下にも『あえての厳しさ』や『あえての激励』なんて必要ない、と今は思えるようになりました。

 

飴ばかりもらっていては病気になる、いい漫画家が育たないと言った人は、もしかしたら私と同じように、鞭がお前のためだ、それが愛だと教わって育ったのかも。
ちょっとそんな風に思います。

 

でもそれはきっと呪い。
自分でちゃんとやりなさい、とかなんでお前はそうなんだ、って口で言うのはすごく楽なんですよね。そのくせ『何かをしてやってる』気分にだけはなれる。

本当に誰かを育てるって、注意深く観察して違いに気が付いたり、時間を使ったり実際隣で手取り足取り教えたり、面倒くさいことなんじゃないのかなぁ。
本当に作家を育ててやりたい、なんて思ってるんだとしたらまずはお金を掛けて本を買って、細やかな違いに気がつけるくらい何度も作品を読み返す必要がある。

当たり前ですよね、人を育てるってとても大変なことなんですから。
その大変さを味わわずに、お手軽に悪口言って育てたい!とか言ってる人は自分のやってる事がただのストレス解消だと早く気づけバーカバーカ!

 

はい、そんな訳で今日は激励のつもりが罵倒になる私、のお話でした…。