今年も3月11日がやって来ました。
あの日の私はたわむ家から飛び出して、赤子と抱き合って蹲っていました。
7年経っても未だに生々しくて、あまり詳細な話は書けないのですが、ほんの少しだけ、私があの日から学んだことを書いていきたいと思います。
最近都心部に住む人から電車が止まって帰宅するのに苦労した話、その後の計画停電の大変さを聞きました。
会津の山あいに住む私の震災は、身に迫ったものではないけれどそこはかとなく怖い、という難しいものでした。
私の家は無事で、停電も無く、流通が一時期不便になったというくらいの浅い被害でしたが、あの頃散々語られていた『目には見えないもの』が怖かったのです。
震災直後、福島県は様々なうわさで覆われました。
雨にあたることは厳禁だと言われていましたし、保育所や学校ではしばらくの間、外遊びや換気を控えていました。
比較的安全だと言われていた会津地方でも、幼い子供を連れて実家へ帰った人の噂を聞きました。家や仕事、お金のことは全て後回しにして、子どもの健康のために避難することが本当の親の愛であり美徳である、みたいな考え方が幅を利かせていた頃でした。
あの頃夫を残して実家に帰り、そのまま戻る戻らないで揉めた末に離婚した夫婦の話もよく聞きました。7年が過ぎて、彼女たちは今何を思っているのでしょうか?
あの頃避難をした人の話を聞いてみたいのだけれど、ネット越しでもあまり見かけません。浜の方から避難してきた人と友達になりましたが、避難の話や残してきた家の話、面倒な手続きの愚痴は同じ立場の人間か、信頼出来る人にしかしない、と言っていました。
避難を特権だと受け止めて、やっかみのような言葉をかける人も一定数いるのだそうです。県内は少しはマシだけれど、他県に行った人からはカミングアウトなんてするもんじゃないという言葉ばかりが聞こえてくると。
避難した人達の言葉があまり聞こえてこないのは、未だにそういう怖さが残っているからでしょうか。
いつか全てが落ち着いて、何もかも過去の話として語れる明日が来たらいい。
廃炉はまだまだ先になりそうですが、そんな風に感じています。
私自身も、震災直後はほんの少しだけ『ここから逃げ出すこと』を想像しました。
当時私の夫は都心部に単身赴任中で、私は保育園児の長男と乳児の次男との3人暮らしの身の上でした。
震災直後は一時的にメールが繋がり、互いの生存確認だけは出来ました。
しかしその後は電話もメールも繋がらないため夫に相談することも出来ず、本当にここにいて大丈夫なのか?と思い悩んだこともありました。こんな時だからこそ、家族は一緒にいなくてはいけないのではないか、とも。
とはいえ現実的にはガソリンが不足していて、電車もどこまで行けるか分かりませんでした。3月のまだ肌寒い時期に、幼児を二人抱えて旅に出るのは現実的ではありません。
流通が落ち着くまで...と数日待っているうちに具体的な情報が出てきて、夫とも無事連絡がつき、話し合った末に私は会津で待つことを決めました。
私は専業主婦で、子どもたちも未就学児でしたから、夫の寮に行くことも出来ました。
それをためらったのは、福島ナンバーの車が宿泊を拒否された、というニュースを見たからです。
もしも本当に誰かから避けられたなら耐えられない、と私はあの頃県外に出ることを恐れてしまいました。
あの当時、私自身にも目には見えないものが付着しているかもしれないという恐怖があったのだと思います。それが誰かに迷惑をかけてしまうのかも知れない、という思い込みも。
だからこそ私はネットで見かけただけの迫害を恐れた。
きちんとした知識を持たず、迫害する側にも正しさがあるのかも知れない、と思ってしまったから。
差別はされる側の方にも自分を責める壁を作ってしまう物なのですね。
あの時初めて知りました。
放射性物質、人種、ジェンダー。
当たり前のように、あまりにも声高に差別されているとほんの一瞬だけ、自分が悪いのではないかと折れてしまう事があります。
きっと全てを救ってくれるのはただ真実を知ることです。
他者の声は止められないけれど、私自身に咎も、汚染も、違いもないのだと、そう本心から信じることが出来れば誰かの声は怖くなくなります。
私は私の中の恐怖を打ち消すために食品の放射能基準値を測るアルバイトをやりました。
グルグルグルグル、様々な食品を遠心分離器にかけて、全国(とはいえ京都どまりでしたが)のデータと見比べて、ようやく私の中の安心安全は確立されていきました。
そうやって検査した食品でも『福島産しかないの?福島にお金を落としたいけどこれじゃ無理よ、気をつかいなさい…』と良心的な顔で語る人もいましたが。
知らない言葉を語る人は愚かに見える、と学べて良かったです。
3月11日が来るたびに、色んな人のあの日の思い出を聞く機会が増えました。
現在の職場で、みんなが必死に棚を押さえたり、安否確認をした話を聞いて、こういう時仲間がいるというのは安心できるものなのだな、と羨ましく思えました。
私はあの頃そうしたコミュニティに属していなかったので、余計寂しくて心許なかったのでしょう。
いわきから、深い森の奥の小さなコテージに避難した話も聞きました。
最初は夢のような別荘暮らしだと感じたそうです。
買い物など少しは不便もあったけれど、仕事も学校も休んでいて、時間なら無限にある。
人気のない静かな夏の山荘で過ごす、ひと時のバカンス。
けれども秋が深まるにつれて、寒さと共に寂しさが押し寄せて来たのだそうです。
結局避難所代わりのコテージ暮らしを辞め、市内にアパートを借り、みんなで仕事を始め、子どもを高校に通わせて。そうやって慌ただしい普通の暮らしを取り戻したら寂しさが一気に消えたから、普通の人間には隠居暮らしなんて無理なんだわ、と彼女は明るく笑っていました。
津波のことを、ほんの一瞬だけ救いだと思った、という人もいました。
絶対に怒られるし、ひどい話だと分かっているから地元の人間には言えないけれど、その頃死にたくてたまらなかったその人は高い波を見てこれでみんなと一緒に死ねる、と安堵を覚えてしまったのだそうです。
波は自分の失敗だらけの人生を打ち消してくれる救い。
パソコンも、見られたくない様々なものも、自分自身の身体でさえも、すべて遠い所へ持ち去ってくれる…と思ったのにただ無性に怖くて、とにかく高いところへ逃げてしまった、と言っていました。
全てを打ち消してほしい気持ち。
それはほんの少しだけ私にも理解出来て、理解出来ることが怖かったです。
そうやって色んな人の3月11日の話を聞くことは、あの日のうずくまっていた私を薄れさせてくれる気がします。
私は私であるけれど、けして一人ではない。
色んな人の話を聞くたびに、私個人の記憶は薄まって、様々な物語と混じりあっていきます。
そうやっていつか、もっとちゃんと昇華した「3月11日の話」が書き残せたらいいな、と思います。
今日はまだごちゃごちゃだし長いのですが、最後まで読んで頂けたなら幸いです。
あなたの今日の話も、いつか聞かせて下さいね、それではまた。