おのにち

おのにちはいつかみたにっち

 電子書籍『なないろ』無料キャンペーン中です!

本日は告知。

はてなブロガー鉄仙さんが主催するショートショート・アンソロジー『なないろ』に参加させて頂きました!

虹の七色をモチーフに自由テーマの作品も挟んで全14編、正になないろなアンソロジーです。
私は途中参加で、時間の都合もあり青テーマ一本しか書けなかったのですが...
出来上がった作品集がとっても素敵だったので、ここに載せて貰えて嬉しいぞー!とにやにやしています。

読んで貰えるなら媒体はなんでもいいと思ってた私ですが、例え電子でも書籍の感慨はやっぱり深い。新しい喜びを知りました。

これから小説をコツコツ書き貯めて、自分でもいつか出してみたいなぁ、なんて新たな野望が出来たりして。巻き込んでくれたカンドーさん、鉄仙さんありがとう!

 

さてさて、肝心の作品集『なないろ』のリンクはこちら。

 

なないろ: ショートショート・アンソロジー (堕楽堂)

なないろ: ショートショート・アンソロジー (堕楽堂)

 

 

Kindle Unlimited対象作品の上、7月21日~22日はレビューコンテスト開催中のため無料となっております!

 Amazonギフト券が貰えるイベントも開催中ですので(詳しくは下の記事をチェック!)是非是非読んで見てください。

 

www.tessenshortshort.com

 

『なないろ 』はタイトル通り本当にカラフルな作品集です。
私はリアルなご当地アイドル物語「その光をたよりに」、断片的な言葉と不思議な設定に眩暈がするような「夢中・夢遊」、シンプルだけど面白い「ぴよぴよ」が好き。思いがけないはじまりとオチの「ブドウ」も面白かった!

 

鉄仙さんとカンドーさんは、文学フリマでこのアンソロジー&個人誌を販売するそうなので、やっぱり紙が好き!という方はそちらもオススメですね。

私もできれば直接買いに行きたいです!距離があるので気軽には行けないのですが、まだまだ先なので日程調整頑張ります。
個人的にはカンドーさんのドス黒い裏ブログ的なコピー本買いたいなw

 

www.kandosaori.com

ではでは、今日は簡単な告知でした。
読んで、感想を頂けたら嬉しいです!それではまた。

感情を表に出さない人の顛末

 感情が表に出ない人っているよね?
怒りも焦りも、喜びすらもフルフラット。

感情を顔に出さない人は、普段であれば付き合いやすい。
ところがみんなが焦ったり、怒っている時にはその落ち着きが裏目に出ることも。

今日は私の職場にいる、感情を表に出さない人のお話である。

 

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諸事情により、業務内容は限りなくフィクションにさせて頂く。
まず、私はチャーリーのチョコレート工場で働く緑のツナギを着た平社員のウンパ・ルンパ。今回の主役、感情を表に出さない彼は緑のウンパ・ルンパA(エース)。

その他に私と同じ緑のウンパ・ルンパ平社員がたくさん、緑のウンパ・ルンパ上司がいる。

さて、私たち緑のウンパ・ルンパチームは普段キャンディ作成をメイン業務としている。
ところが年に一回、社長のワガママにより赤チームが作った特製チョコレートにプラチナ・チケットを封入する、という時間外業務を行わなくてはいけない。

ランダムにみせかけたチケットは実は精巧なヤラセで、何番の箱のシリアルナンバー○○のチョコに封入、と細かい規定があるからかなりめんどくさいのだ。
チケットはそれなりの枚数があり納期も厳しいから、緑チーム全員で協力して作業を行う。

この業務のリーダーはウンパ・ルンパAだが、あくまでも私たち全員に任された仕事である。 しかしAだけが期間中この業務のみに専念している、という事情もあり、Aを『手伝ってあげている』という意識を持つ者も多い。

ウンパ・ルンパは時間外業務を嫌う生き物なので、みんな早く帰りたい、とっとと終わらせたいと願っている。リーダーであるAに掛かるプレッシャーは激しい。

それなのに、必要なチョコレートを作り、納入するはずのウンパ・ルンパ赤チームが納期が予定より1週間ほど遅れる、と電話で連絡してきた。
ただでさえ忙しいスケジュールの中、1週間の遅れは大幅な予定変更を余儀なくされる。

しかし感情を表に出さないAは平静のまま電話を置き、赤チームからの連絡を上司に報告した。 

 

Aが席を外した後、上司は大げさにうめき声を上げながら赤チームの納期遅れを皆に報告する。まったく、人ごとみたいな顔しやがって、とAをディスることも忘れない。

赤チームの責任であるはずの遅れはAへのイライラにすり替わってしまう。

結果、Aは自分の仕事への責任を感じていないのではないか、巻き込まれる方はたまったものではない…と淀んだ空気が蔓延していく。

悪い事をした訳でもないのに、気がつけばAは針のむしろである。

 

『感情を表に出さない』のは悪いこと?

 

さて、Aはどう振る舞えば良かったのだろうか?
私だったら、と考えてみる。

まず電話を受けた時点で、「えっ!?」などと声を荒げ、オーバーリアクションでアタフタしながら困ります、なんとかなりませんか…などとゴネたであろう。

それで納期が戻るなら問題解決だし、無理でも『私が一番納得していない』というPRにはなる。

ゴネてもダメだった場合は、いかにもトボトボと意気消沈した様子で上司に報告に向かう。みんなにすいませーん、などとアッピールするのも忘れない。
そしてその後「すいませんだなんて逆に偉そうだよね、みんなの仕事だし大した責任者でもないのにー」などと自分を下げるように見せかけながらこの仕事はオマエラ全員のものなのだぞ、と全体責任を印象づけておくことも大切だ。

最後にまったく赤チームってば、と仮想敵を作り、上司になんとか言ってもらえませんか、と上に仕事を振っておく。これで悪いのは赤チームであり、使えない上司である…という意識が緑チームに共有される。

リーダーはあくまでも被害者であり、私たちは仲間なんだ、と全体に思わせることが出来れば仕事はやりやすくなる。

しかしながら、と更に私は考える。

ええええ!?なんてアタフタしたり、凹んだり焦ったり怒ったり。
それはいつも落ち着いたAらしからぬ行動だ。

分かりやすいリアクションは周囲の理解を深める効果がある。
でも私たち全員が、リアクション芸人になれるわけではない。

向き不向きと言うものが人にはあるのだ。

だいたい、顔に出ないから焦っていない、責任を感じていない...なんて思うのは余りにも浅慮な気がする。

リアクション芸人な私は、リアクションが強すぎる感情を紛らわせてくれることを知っている。表に出さない人の方が、よっぽどキツイのではないだろうか?

 

その後の結末

 

さて、感情を表に出さないAは本当はどう感じていたのだろうか?
その答えは三連休明けにもたらされた。

Aが胃を壊し、入院したのである…。

 

結果として私たち緑チームはリーダーのA抜き、という大幅な戦力減で時間外業務に挑む羽目になった。私たち全員の目標は『早くお家に帰りたい』だったのに。最悪な結末。

 

そんなわけでこれが感情を表に出さない人の顛末である。

私達はどこで間違ったのか?
誰が悪かったのか?

私はチーム内に敵を作り、Aを追いつめた上司の責任だと思う。

上司にはガチでAが責任を感じていないように見えた、のかも知れないけど。
たとえそれが真実だとしても、たった一人を責めたって自分の正義が充足するだけ。

私達の最終目標、とっととお家に帰りたいには何の役にも立ちはしない。
あの時上司としてやるべきだったのは赤チームへの督促か、最終的には社長への抗議である。残業代ちゃんと払えウンパルンパ!

 

余談として

 

私は個人的に、感情を表に出さない人が好きである。それは作為に満ちた私の真逆にあるのだけれど、私にとって彼らは非常に合理的で付き合い易い人種なのである。

最悪なのは自分の言いたい気持ちやら正義感やらを優先しすぎて、肝心の目標を忘れてしまう人達。

正しさだけを追及しすぎて、何の役にも立たない事で誰かを責めたり怒ったり。
得られるのは自分の心地良さだけ?素直って言えば聞こえが良いのかも知れないけどさ。

自分に正直になるために周りからドン引きされるんじゃ意味ねーだろ、と思う。
そうして周囲から得られなくなる承認欲求のために、どんどん謎の正義やら自分に正直ィ!な気持ちはエスカレートしていくんだろうし。

 

ではでは、今日のドス黒い寓話はこんな感じです!

アドバイス貰って話の繋がりを意識して書いてみましたが...結局意識が混濁していくんだよなウンパ・ルンパw結局私は感情が表に出ない人に憧れているのかも知れません、その方が冷静な文章を書けそうだもんね!

 

ぐるぐる怪談に最適な夜

そういえばさ、なんて私は話しはじめる。

場所は昼休みのオフィス。
私はトマトサンド、隣の彼はカップ焼きそばを食べている。

今日からクールビズが始まって、涼しげなアイスブルーのシャツを褒めたら今年は夏らしい事をまだやっていない、なんて話に繋がった。

夏らしい事って何だろう?

海、バカンス、冷やし中華にかき氷。
そういえば怪談もあった、と私が話し始めたのはちょっと不思議な話である。

 

私は自動車通勤をしている。

職場の駐車場は職員ごとに止める場所を指定されていて、私の番号はD43。

自動車通勤、と言っても今時自分でハンドルを握ることは滅多にない。
自動運転で、座標を入れれば音楽を楽しんでいる間に職場につく算段である。

ところが、時折駐車場でエラーが起きる。
D43に空きスペースがありません、別の場所を指定してください。

仕方ないので手動で、駐車場の隅に設けられた一台分の空きスペースに止めているのだが、その度になぜ私の場所が空いていないのか?とモヤモヤしてしまう。

「誰かが間違ってD43に止めただけでは?」

ブル―のシャツの彼はこう言った。
よく見ると7分丈のグレーのパンツは麻のような素材感で、シルバーのメッシュベルトとは色あいもピッタリ、凝っている。

「私も最初はそう思った、でも…」

自動運転が当たり前の世の中だ、誰かが目的地の番号を私のものと間違えて設定しているのなら、スペースが埋まっている理由も分かる。

でもその場合、毎回ではないことが気に掛かる。
それに私の出勤時間がいつもギリギリだから気が付いたのだが、駐車場はいつも1台分の空きスペースを残して満車になっているのだ。誰かがスペースを間違えたのなら、今度はその人の場所が空いているはずである。

「じゃあ客とか業者とか、外部の人間が時々そこに止めている?」

「でも職員駐車場は非公開になっているはずでしょう?それに外部の人間なら、会社の前に止めるスペースがちゃんと設けられてる訳だし」

私たちの駐車場は目立たない裏手にあり、職場まで少し歩く。
会社の前にはお客様用の駐車スペースが広々と取られている。車で訪れたいのならそっちを使えばいい話だ。

「ううむ、ホントにちょっと不思議な話だね。とりあえず総務に相談してみたら?」

彼にそう言われて、私はメールを送ってみることにした。
駐車スペース、D43の怪について。

 

後日返ってきたのはあっけないほど短文のメッセージと、パッチアップデータだった。

何らかの手違いで、私の駐車場に関するデータだけが更新されていなかったらしい。
そのせいで空いているはずの場所が満車と表示されてしまい、車を止めることが出来なかったのだと。

指示通りバージョンアップすると、エラーが出ることは無くなった。

 

人間全体の総数は減っているはずだった。
なのに人類は一部の都市に集まり続け、過密度は増すばかり。

その混雑を改善するために政府が編み出したのは在宅ワークで、それは進化を続け家に居ながら限りなくヴァーチャルに、私たちは『会社に行った気分』で仕事が出来るようになった。

もうメイクも着替えも要らないし、暑さ寒さに煩わされる必要もない。
それでも私たちはやっぱり気分を愛するらしく、クールビズもオシャレもメイクも、イメージの中では無くならないのだった。

ヴァーチャル通勤も、そんな『気分』の一つだ。
曰く、会社と家の行き来だけではつまらない。町を歩いたり乗り物を利用したり。出勤、帰宅という気分を盛り上げるアイコンが必要だ、というのである。

私も流行りに乗って自動車通勤を選択してみた一人だ。
自動運転とはいえフロントガラスの景色が変わる様子や、好きな音楽を流しながらのドライブは楽しい。私の実体はいつも変わらず家にいるのだけれど。

 

さて、パッチアップ・データで悩みは解決して、でも新しい怪談が増えた気がする。

駐車場に並ぶたくさんの車。
あれは本当に私以外の誰かがログインした、生きた人間が更新したデータなのだろうか?もしかしたら全てが虚像に過ぎないのでは?

私の職場の隣の席の、おしゃれな彼は本当に人間?
答えはきっとこのモニタの外に拡がっているのだろう。

そういえば私は怖い話が嫌いだった。
もう寝よう。私は私の本体電源を落とした。

 

1752文字

森博嗣『ψの悲劇』感想-長く続く物語と付き合う喜び

森博嗣Gシリーズ11冊目、『ψ(プサイ)の悲劇』読了。

前作「χ(カイ)の悲劇」に続き、『すべてがFになる』のキャラクタが活躍する賑やかな物語である。かなり派手なアクションシーンもあり、なにより第一作から登場しているお馴染みのキャラ、島田文子さんが今までで一番楽しそうに輝いている。

その賑やかさがくるっと反転し、怖いくらいの鋭さを見せるラストもまた、相変わらずの切れ味で素晴らしい。

 

突然の失踪を遂げた博士、残されたその執事、主のいなくなった館で開かれる彼の思い出を語るためのパーティ、そこで発見された奇妙な小説、その夜から始まる新たな悲劇...

物語の展開は非常にオーソドックスなのだけれど、最初から軽い違和感があり、その仕掛けは更に思いがけない場所へと着地する。安定の森節である。

 

ψの悲劇 The Tragedy of ψ (講談社ノベルス)

ψの悲劇 The Tragedy of ψ (講談社ノベルス)

 

 

時系列としては前作「χ(カイ)の悲劇」の未来の話になるのだと思われ。
ただ物語としては完全に独立しているのでGシリーズ未読でも楽しめるはず。

 

とはいえこの『悲劇』シリーズは後期三部作、なんて表記がなされている。
「χの悲劇」「ψの悲劇」そして最終巻「ωの悲劇」(読めるのは2年後?)。

クイーン三部作へのオマージュだと思われるので、せめてこの三部は全部読んだ方が更に楽しめる。そして第一作「χ」を楽しむためにはGシリーズから登場した新たなキャラクタを知っておく必要が。更にGシリーズは短編集「レタスフライ」収録の「刀之津診療所の怪」を読むと更に楽しめたりして。そして「刀之津診療所の怪」のラストを理解するためには「今夜はパラシュート博物館へ」収録の『ぶるぶる人形にうってつけの夜』を読んでおく必要が。更にS&Mシリーズの「今はもうない」を読んでおくとラストをもっと楽しんで…

 

えーい、Gシリーズ完結まではあと2年、全部読んどけ!
森作品は全てが複雑に絡み合っているのである。

今から全部一気読みできる幸福な読者が、私はちょっぴり羨ましい。

  

すべてがFになる【S&Mシリーズ全10冊合本版】 S&M

すべてがFになる【S&Mシリーズ全10冊合本版】 S&M

 

 (なにこの恐ろしい合本...5082KBだと...⁉)

 

すべてがFになる (講談社文庫)

 

森博嗣氏の1996年のデビュー作、『すべてがFになる』から既に22年。
その年に生まれた子どもが大学を卒業するような歳月である。

それでも未だに真賀田四季は作中世界に影響を及ぼし続けている。
S&Mシリーズから森作品に侵食され続けている私もまた、影響を受ける世界の一部だ。

もはや心のどこかに犀川と萌絵が存在するスペースが開けられているような気がする。
こんな物語と出逢えることは稀であり、最高である。

 

あと2年、たった1冊で本当にGシリーズは幕を閉じてしまうんだろうか?
それが最後の物語になってしまうのだろうか?

 

どうかゆっくり、長く引き伸ばして、引きずりまわしてね…と今は願うばかりである。だって萌絵と共に大人になったんだもの。

そういう作品があることは、やっぱり幸せで。
ただし恐ろしいほど時間が吸い取られていくな、と大人になった萌絵が活躍するGシリーズを再度読み返しながら震えたのでした…

 

捩れ屋敷の利鈍 (講談社文庫)

捩れ屋敷の利鈍 (講談社文庫)

 

いまいち不人気なVシリーズだけど、萌絵好きなら「捩れ屋敷」は是非読んどいてほしい!更に「黒猫の三角」「恋恋蓮歩の演習」はミステリとして最高、その上恰好いい。そしてラストの驚きはネタバレ禁止で付き合ってきた読者だけが得られるもの。
やっぱり全部読んでおきましょう、恐怖の合本もあるよ!読んでも読んでも終わらないぜ...

 

Vシリーズ全10冊合本版 (講談社文庫)

Vシリーズ全10冊合本版 (講談社文庫)

 

 

美魔女とシッティング・ション

昭和50年代前半、私がまだ小学校に入学する前の話。

母の実家近くで、忘れられない光景を見た。
美しい山並み、緑の田んぼ。

あぜ道で尻を出し、堂々と放尿するもんぺ姿のおばあちゃん...。

 

車窓からその光景を見た私は尻!尿!いいの!!!と大困惑だったのだが、同乗していた大人たちはあらあら(苦笑)という軽い扱いだった。

その反応から私は、おばあちゃんになれば道端でおしっこをしても許されるのだ、と激しいカルチャーショックを受けた。

 

当時私が住んでいたのは東京の郊外。
男性の立ちション姿はごく稀に見かけたものの、みんな嫌ねぇ…と眉根を潜めていたのでマナー違反なのは分かっていた。

それでも時折小さな弟だけが間に合わないから、と茂みで済ませることを許され、私は汚い公園のトイレに大行列を余儀なくされることに不公平を感じていたのは確かだ。

そしてその不公平感が、田舎のあぜ道で希望と共に解消された訳である。
おばあちゃんになったら!道端でおしっこしてもいいんだ!

 

あれから40年(きみまろライクに)。

私は最近ようやく気付いた。
あれは昭和の田舎限定の光景だった、ということに。

 

会津の外れでも、座りションをするおばあちゃんはさすがに絶滅。
そもそもウォシュレット付き洋式トイレに甘やかされた私たちはシッティング・ションという過酷な体勢にもはや耐えられない。

いつか頻尿に悩む未来が来ても、紙おむつで済ませるだろう。
私があの日あぜ道で見たのは、きっと最後のヤツメウナギだったのだ。

 

世の中はどんどん清潔に、そして美に厳しくなっている。

ダイエットに励んでいた20代の頃、早く4~50代になって体型を気にせず好きに食べたい、なんて願っていた。実際には40代の今もダイエットに悩まされている、なんて言ったらあの頃の私は絶望するだろうか?

職場の先輩たちも日々運動や食事に気をつけ、引き締まった体を保っている。
20代と50代が同じようにヨガに励み、美容にいいサプリをシェアする時代が来たのである。

先日友達と美容トークをしている時も、話題がなんだかおかしくて笑ってしまった。
美白にメイク、出産と命の母が同じテーブルに上がっている。

リアルでも、小さな子どものいる40代の友達と、生理がたまに遅れるので命の母を飲み始めようかと迷う私が一緒に相談し合っている。

産む時期と閉じる時期が交差する、それが現代なんだろう。

 

私が結婚したばかりの頃(当時25歳)、マニキュアを塗っていることを父に咎められたことがある。 結婚したのだから華美な装飾はいらない、というのである。

どうにも理解しがたかった。
マニキュアが男性受けが悪いのは知っている(特に父は嫌いだったのだろう、爪を塗ったり派手な化粧をすることがふしだらだと思う人は未だに多い)。
私が好きで、私が綺麗だと思うから塗っているのだ。
共働きで家事もきちんとやっている。空き時間で美容を楽しむことの何が悪い、と無視していた。

 

結婚したから、子どもがいるから、もう年だから落ち着け、みたいな意識がかつて私たちの根底にあった。

でも社会が自由になって情報も溢れていく中で、今度は既婚でもママでもアラフォーでも綺麗でいるのが当たり前、という時代の流れがやってきた。

それは良い事なんだと思う。
既婚だから、子持ちだから地味にしていろ、はブルカを被れと同じ意味だ。

それでも物には限度があって、メイクもファッションも楽しいけれど老化を否認しつづけるのは結構キツイ。

 

座りションを夢見たはずが、美魔女が当たり前、もはや魔女とは呼ばれない時代に私は辿りついてしまった。

私の中庸はどこにあるんだろう?ほどほどぐらいがいいのにな。
消費の波に揉まれながら、そんなことを考えています。

  

Forever Girl

Forever Girl

 

 

 

会議は踊るそして沈む

職場の会議も、PTAの総会も。
なんだか最近無駄に長引くことが多くてちょっと疲れている。

 例えばちょっと前の職場の会議。

新しい制度が導入されるので、具体的な運用方法を説明するよ、分からないことがあったらドシドシ質問してね!みたいな内容だった。

導入は来月からで、本当は講習会を設けたいけれどあまり時間がない。
なのでマニュアルで分からないことはなるべく解決しておきましょう…というのがメインの議題であった。

 ところがそういう忙しい時に限って現れるのである、会議クラッシャーが。

 

なぜ新しい制度を導入しなくてはいけないのか?その制度は旧来のものと比べて欠点が多くてなんとかかんとか。そこを改善しない限り承服できないなんちゃらかんちゃら。

 

えーと、だからその議論数年前に終わってますよね?
事前説明会いっぱいあったじゃん。上の方からそういう提案があって、説明があって意見交換会が終わって、導入準備もとっくに済んで来月から運用なんですってば。
あなたの意見は分からなくもないけど、そういう反論はみんな既に事前の意見書やら討論会で発表済みですよ。その上で新しい制度を導入します、と発表されたのは去年の話っすよ?

もうポスターも掲示されてるのに、それはないわ…とげんなりした。

 

PTAの総会でも、過ぎた話をもち返す人がいて、やっぱりげんなりさせられる。

もう終わった会合の報告について、なぜ去年と人数・予算が違うのか?事前報告が無かった、しっかりきっちり納得いくように説明せよとか言い出す人のもんにょり感ったら!

 

だから最初に、今年は○○周年につき盛大に行われましたと言いましたよね?書いてありますよね? 更に言えば前年度の総会で、次年度は○○周年なので盛大にやります人数予算等仮案通りでよろしいでしょうか、と全会一致で可決頂いてますけど???

ある程度人数のいる組織の中で、事前アナウンスのない急な改変は滅多に無い(ワンマン企業除く)。もしあったとしたらみんながザワザワするし、説明を求めるであろう。

勿論前回の総会や職場の説明会に『出ていなかった・聞いていなかった』なら理解はできる。

でもPTAの問題も、職場の話も、なぜ『もしかしたらみんなは知っている?知らないのは自分だけかも?』という思考に至らないのだ?

そしてなぜ自分の見落としは棚上げして『私が/俺が』納得できるように時間を割いて説明せよ、なんてお客様然とした顔が出来るのか。

 

窓口にいると怒りっぽい人、思ったことは全て口に出さずにいられない人、説明への理解に時間がかかる人など、様々な人に遭遇する。だからすべての人が一律に理解できる説明、なんてのは幻想であることは理解している。

それでも本当のお客様ならともかく、同じ組織の一員にそういう態度を取られるとちょっともやっとしてしまう。せめて私たちは対等である、あなたにも自発的に理解しようと努める姿勢は必要である、ということだけは分かってもらいたいなぁ。
あなたに理解させることは私たちに課せられた義務ではない。あなた自身の課題ですよね?

 

でも上司も教頭先生も、会議なんてそんなもんです、と言う。
思わぬ無駄はつきものだから、それを計算して長めに見積もっておくしかないと。

そう言われてみると、今は自分が発表しなくちゃいけない側になったからキリキリしてしまうだけのことなのかも。

若かりし頃、半分寝ていた会議の大半はそうした『なぜ今その話を持ち返す?』的議題で埋め尽くされてた気もします。そういう無駄も、意見0よりはもしかしたらマシで、会議の花とみなさなくちゃいけないのかなぁ。 それでもあと10年はもんにょりカリカリしてしまいそうな私です。結構気が短いし、血の気も多すぎるんだよな。とっとと泰然自若になりたい。運動瞑想野菜だけじゃムリ...献血してくっか…

 

會議は踊る [DVD]

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もうすぐ最終回『ダーリン・イン・ザ・フランキス』考察

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』をGYAO!で全話一気見(むろん最終回は除く)してしまった。

gyao.yahoo.co.jp

 

実は最初の頃に一話だけチェックして、切っていた作品である。
空から角の生えた女の子がやってきてダーリン♡と呼んでくれる。
ラムちゃんかっ⁉と思ったのだがそこはあまり突っ込まれていなかった。
昭和は遠くなりにけり…と悲しくなったのが敗因である(?)男性向けっぽかったし。

 

観てみようかな、と興味が湧いたきっかけは、けちょんけちょんに貶されていたこの記事。

blog.kaoriha.org

 

一話で切った私にとって、ダリフラとはどろどろ恋愛ロボットアニメだった。
ところがこの記事では地球規模で子どもたちが活躍する内容でありながら黒人が出てこない人種差別アニメになっていて、あまりの視点の違いに驚いた。

そんなに壮大なアニメだったのかよ⁉
そう思ってイッキ見したらなかなか面白かったので、今日はむちゃくちゃネタバレな感想を綴っていきたいと思います。

まだ観ていない人はここでリターンだ!

 

ダリフラは人種差別アニメ?

 

KISS OF DEATH(Produced by HYDE)(初回生産限定盤A)(アニメ盤)(DVD付)

 

さて、まずは冒頭で紹介した記事の話から。
ダリフラは黒人が出てこないから人種差別だという論説は、やはりあまりにも強引な気が。

けれども地球規模の物語で、色んな人種が出て来て当たり前な設定なのに日本人しか出てこないアニメは差別だ、って話なら理解出来る。

例えばハリウッド映画で、世界中の各都市で人々が危機に襲われるシーンの群衆が全部白人だったらさすがに違和感を覚えると思う。
最近の海外ドラマは作中に様々な人種、ジェンダーを意識的に登場させるという話を聞いたことがあるし、日本のアニメも世界を意識して作っていかなくちゃいけない時代が来たのだろう。

『制作陣全員の頭の中から黒人なる存在が消えていた』という言葉は多分正しい。
ただ正確に言えばそれは『日本人の頭の中から多人種なる存在が消えていた』のでは?(黒人だけで拘ってしまうのはまた新たな差別であると思う)

閉じた自文化中心主義から、もっとグローバルな目線を。
中里さんが言いたかったのはそういうことだと思うし、その辺は理解できる。

 

ただしダリフラという作品がそこら辺にひとつも考慮していない、人種差別アニメだとは思えない。

まずコメントでも言われていたように、この作品は日本を舞台にしている。
子どもたちの名前が日本語、居住地に咲く桜、コロニーの番号が霞が関の郵便番号(さすがにそれは気が付かなかった、考察班すげぇ)。

 

もし博士が人種差別によってコドモに黒人を選ばなかったのだとしたら、博士が知り得ていたコドモの意味や、生物学者という立場からして、他の悪行とは桁違いの行為。その悪を暴かれ報いを受けることがない筋書きは異様

 

それから博士が知り得ていたコドモの意味や生物学者という立場からして悪行、というのも違う。フランクス博士は若い頃から倫理を踏みにじる研究をすると糾弾されている。もともと悪人(自己中心的な人物)だったのだ。だからこそ叫竜の姫に差し出した手を食いちぎられている。

博士にとっては地球や人類の未来よりも叫竜の姫にもう一度会う事、それから自分の作ったストレリチアの最終形態を見ることが大切だった。コドモたちをコールドスリープしたり、ナナやハチに後を託した(役割を与えた)のは周囲の人間たちに影響されて情が目覚めてきたから(なんとなくナナは博士の奥さんの遺伝子を継いでそう。娘の役割?)。瓦礫に押しつぶされ命を落とすラストは充分な因果応報だと思う。

 

叫竜が現れる前、かりそめの平穏を手に入れた地球ではそもそも繁殖が忌避されていた。
卵子や精子、遺伝子のストックも足りていなかったのではないか?
博士の妻が実験に参加し、命を落とした描写からもそのことが推測できる。
夫の役に立ちたいという気持ちは理解できるが、彼女は優秀な科学者でもある。自分よりも実験に適した被験者が多数いたなら、身を引いたはずだ。

多分、彼女が先陣を切るより他に道が無かったのだ。

 

またコドモの意味、と言っても前述のとおり永遠の命を得たオトナにとっては繁殖など無意味な行為で、単に叫竜を倒すためだけの便利な奴隷でしかなかったのではないか。

都市に迷い込んだゾロメに優しくするオトナも登場するが、彼女でさえコドモとオトナは別の生き物だと認識している(まるでペット扱い)。

 

あくまで実験対象である第13都市部隊を除いては、多様性を持たない従順な奴隷である方がオトナとしては使い勝手がいい訳だ。

 コスパや管理しやすさを考えたら、一番相性のいい男女ペアのクローンを作って量産していくのが一番だと思うので、他都市の部隊は多様性どころかみんな同じ顔でもおかしくなかったと思う。

 

本当のダーリンは誰?

 

結局ダリフラとは何だったのか?

私はこの物語をフランクス博士の人生のやり直しだと感じた。
大人はいつも自分が果たし得なかった夢を勝手に子どもに押しつける。

フランクス博士は自分のことを愛してくれた妻(ヒロにとってのイチゴ)を殺し、一目で恋に落ちた叫竜の姫(ヒロにとってのゼロツー)からは拒絶される。

だからこそゼロツ―を作り、ヒロを作ったのではないか。
ゼロツ―は叫竜の姫のクローン、ではヒロは?

博士の遺伝子を継いでいたなら、相当気持ち悪くてエゴイスティックで最高だ。

 

 さてさて、そんな訳で私は人種差別はさすがにこじつけだと感じました。
ただしこのダリフラという作品、ジェンダー的にはかなりやっべぇんじゃないかと思うんだ…差別で突っ込むんならむしろそこだろ…!

フランクスに乗れるのは生殖機能を持つ男女だけとか(ただし後に両性具有のナインズが登場する)、明らかに後背位な乗り方とか。

8話でケンカした際の、女子は色々大変なんだから俺たちが分かってやらないと的な結論もなかなかキレイごとでヤバかった。

 

でもそれでも、ヒロから見たゼロツーがいつもキラキラしているのが楽しかったです。 
赤いアイラインめっちゃ可愛いし、OPも素敵。

アニメってそれだけで充分愛おしいと思うんですよ。七夕最終回むっちゃ楽しみ。
帰っておいで二人で、って祈ってしまう。

 

作品としてのテーマはやたらシンプルな気がしました。

ラブ最強!子ども産もうぜ、そして仲間を大切にィ!
ヤンキー最強伝説みたいな(笑)

でも少子化が進む現代で一度ヤンキーに立ち返る(原始に帰る)って大事なのかも知れませんよね。

ではでは、そんな訳で今日は私の勝手なダリフラ考察でした。
あなたは何を考えたのかな?聞かせて貰えたら嬉しいです。

 

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