おのにち

おのにちはいつかみたにっち

生きる意味を探して

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良く晴れた初冬の午後、日のひかりを浴びながら少し速足で歩いた。

同じリズムで歩いたり、フラフープを回したりするのが好きだ。
始める前はおっくうだったり、面倒くさい気持ちもあるのだけれど、5分もすると楽しい気持ちになってくる。

こうした運動のことをリズム運動というらしい。
そしてリズム運動にはセロトニンの活性を高める効果があるそうだ。
セロトニンは私たちの精神面に大きな影響を与え、心身の安定や心の安らぎにも関与してくるホルモン。

日差しが弱まり、外に出る機会も少なくなる冬は、どうしても陰鬱な気分に陥りがちである。心がアンニュイ気味だわ、と思ったときは歩く、フラフープをブン回す。同じテンポを刻んでいくうちに気持ちが前向きになってくる。

いろんなことを思いついたり、新しい答えが降ってくる時もある。
今日考えたのは、Twitterで見かけた小さな嘆きへの、私なりの答えだ。

 

「生きる意味が見つからない。」

中学生の頃、私も同じことを考えていた。
私の13歳は暗黒だった。

北の国から会津の片隅に引っ越してきたけれど、言葉が通じない。
標準語が変だと笑われ、いつもよそ者扱いだった。

あの頃彼らの世界は狭く、そして私の世界も同じだった。
友達と、本を読むことだけが生きがいだった子どもは、小さな人生の7割を占めていた友達を失い、本の世界へ逃げ込んだ。

ファンタジーだけが私の生きがいだった。そうしてずっと生きる意味を探していた。 RPGの主人公の、果たすべき使命みたいなもの。

人生への目的が、目標が欲しい。
生きることに意味さえあればどんな辛い目にあっても、一人きりでも生きていけると思っていた。

 

大人になった私は今死ぬわけにいかない、と思っている。
それは家族に対して果たすべき義務があるからだ。

家の中を暮らしやすく整えること、衣類や寝具を洗ってやること、栄養バランスの整った食事を準備してやること。

全て完璧にはこなせないけれど、とにかく今放り出してしまうのは無責任だと思っている。他にも仕事、趣味、友人と今の私は生きる意味や目的を分散化して、失った時のリスクを軽減することに成功している。

 

でもきっと何かが違う。これでは行き詰まってしまう。
家族も仕事も友人も、万物は流れ去ってしまうものだ。

全てを失っても、たった一人になっても生きていける、小さくても強固な芯が欲しい。
ダイヤモンドみたいに色褪せない『生きる意味』が。

 

中学生の頃の私は使命というものに憧れていた。
引き継ぐ家業や、ロトの子孫や。
生まれた時から生きる意味が定まっていたなら、どんなに楽だろうと。

この世界に自分が必要な意味をきちんと知っていたなら、いじめられようがハブられようが変わらずに生きていける、と信じていた。

大人になった今は分かる。
この世にたった一人の、かけがえのない人間なんてそうはいないものだ。

私が王様なら、ロトの子孫だけに世界の命運を賭けたりなんかしない。
救世主が旅立った後も冒険者を募集し続けるだろうし、早い者勝ちで魔王の首に懸賞金を与えるポスターを酒場に掲示する。

滅びかけた町には一発逆転を狙う自称冒険者が溢れることだろう。
けれど真の勇者の称号を貰えるのはたった一つのパーティーだけだ。

村中の応援を受けて旅立った多くの戦士たちは、何も貰えないまま生まれた家に戻り、ごく潰しの称号を手にする。

 

大層な理想や希望は要らない。
もっと最小単位の、全てを失っても傍らにあるものを芯に据えておかないと、私の生はふらふらと風に飛ばされてしまうことだろう。

何もかもを無くしたなら死ねばいい、と言う人もいる。
自分でもなぜこんなに生にしがみつくのか分からない。

でも、嫌なのだ。本能的に。

13歳の私は、小さな世界から私なんか要らない、と弾き出されても生きたかった。
生きる意味を探すことで、ファンタジーの世界に逃げることで弱弱しい生を繋いでいた。本の続きを読みたい。日のひかりを浴びたい。明日も明後日も歩きたい。
そんなこと全てが出来なくなっても、意識が曖昧になったって、ごはんが食べられるうちは生き続けていたい。

そしてそうやって強く生きる意志を奮い立たせるためには、やっぱり『理由』が必要なのだ。

 

私は、最後に残る自分の持ち物はこの身一つだ、と信じていた。
でも小さな手術をして、生まれて初めて全身麻酔をして意識が変わった。

ほんの小さな穴が開くだけで、麻酔から醒める途中だというだけで、自分の身体は思い通りに動かなくなる。

動かない体はまるで他人のようで、私は私の体の何を知っていたのだろうと思い知らされた。私は私の神経の繋がり方も、はらわたの中身も知らない。

子どもを産んだときも同じことを思った。
私が知らない間に小さな胚が繋がり、人の姿が出来上がる。
産んでやった、命を与えてあげたなんて思えなかった。
彼らは何も出来ないままに育ち、気がつけば産まれていた。

プラモの方がよっぽど、自分で作った感があると思えた。


私の身体はきっと、何処かからのギフトだ。借り物だ。
レンタカーに、魂だけを乗せているようなモノ。

結局私の持ち物なんて、魂一つなのかも知れない。
体すら借り物で、誰かがくれたものだと思えたら、大事にするしかないではないか。
そんな風に思えたら自然と、生きることへの最小限の意味が見つかるような気がした。

 

 

借りた私を大切にすること。長持ちさせること。

ちゃんとお風呂に入れてやったり、必要な休息を取らせて、運動や食事も気をつけよう。運瞑菜が大切らしいけど、時には力尽きることもあるだろう。
そんな時には寝る前に歯を磨いただけでも使命は果たした、と納得して眠りにつこう。

何にもしたくない、全てが面倒になることもある。
でも出来る範囲で掃除して、ゴハンを作って、運動も出来た休日はとても心地いい。
それはきっと、私の出来る最小限度の生きる意味を果たせたからだろう。

 

そんな訳で、これが今の私が思うとても小さな『生きる意味』です。

仕事をして、家事をして、バランスを取れた生活を送り趣味のこともこなせた日は最高に生きてるぜ!と思えますが正直それどころじゃない日もあります。

でも最低限、自分にお茶を飲ませてあげたぜ、ぐらいでもホントにマクロの生きる理由にはなるんじゃないか、そう信じたいのです。

あなたの生きる理由は見つかりましたか?いつか時が過ぎたら教えてください。

見つかるまで、投げ出しちゃダメだよ。