読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

おのにち

おのにちはいつかみたにっち

検索狂時代とggrksの呪い、高額療養費の話

社会

先日父が入院した。
去年退職し、国民健康保険に加入したばかり。

本当は入院前に限度額認定証というものを取得しておけば医療費の支払いが限度額で抑えられたらしいのだが、急な入院で間に合わなかった。

病院の会計で、領収書を役所の窓口に出せば限度額を超えた分が戻ってきますよ、と言われ、書類を書くのが苦手な父に代わり私が手続きに行ってきた。

国保には高額療養費、という制度があり1ヶ月の医療費が自己負担額を超えるとオーバーした分が戻ってくるらしい。

ただ医療費の自己負担額は前年度の所得で決まるらしく、去年まで仕事をしていた父の場合予想より基準が高かった。

そういう訳で、今回は残念ながら該当しなかったのだけれど大変いい勉強になった。
対応してくれた窓口の職員さんのおかげである。

入院の領収書だけでは足りないけれど、同居の国保家族がいる場合その人の領収書も足し合わせできる(ただし70歳未満の場合同じ医療機関で21,000円以上)とか、4回医療費が限度額を超えたら多数該当と言う制度が適用されて限度額が下がるんだよ、なんて色んなことを教えてもらった。

この高額療養費と言う制度、所得によって限度額が違うので自分の額を勘違いしていたり、多数該当と言う制度を知らなかったりして該当しているのに申請に来ない人がまだまだ多いらしい。もったいないですよね…と職員さんは言っていた。

家に帰って、高額療養費制度って面白い、請求していない人も多いのなら役に立つ記事になるんじゃないか?とブログに書くことにした。

ところが。
この制度、実際に書いてみるとなかなか難しい。

所得に報じて違う限度額(非課税は月35,400円、210万円以上600万以下の世帯だと80,100円など、5段階に分かれている)、請求できる期間は診療日から2年間、同じ世帯で同じ月、1つの医療機関で2万1000円以上支払ったら合算できる、病院から処方箋を出してもらって薬を購入した場合、病院と薬局の支払額を足し合わせても良い…などなどなど。

最初真面目に書いていて、そのうちあ゛ー!と発狂した。
付け焼き刃の私じゃ、無理無理無理!
書けば書くほど、分からないことがどんどん湧いてくる。

多数該当の4回というのは、いつからいつまでの話?一年間なら基準は4月?同じ病院に入院と通院したら足し合わせできるの?

でもちゃんと調べて丁寧に書けば、わかりやすい記事にまとまるはず。
私レベルじゃ2日はかかかりそうだけど。
それでもがんばって書けばきっと検索は応えてくれる…。

そこまで考えて?と頭をひねった。

あれ?私は検索に引っかかるためだけに、ブログを書いてるんだっけ?

 

検索という神様

 

f:id:yutoma233:20160929230824j:plain

 

PVという数字を増やしてくれるのは検索流入という神様である。
私の小さなブログも、読み手の半分以上は検索からの訪問者。
細やかに、丁寧に書けば拾ってくれる神様仏様。

私自身、分からないことがあるとちょこちょこ検索しています。
断片的なワードでも答えが見つかる、一億総検索時代凄い。

 

ただ、今日高額療養費について書こうと思った時はちょっと引っかかったのです。

私、本当に理解出来てるかな?
腑に落ちてない、付け焼き刃の情報をネットで調べたことで嵩増しして、それ本当に人に役立つ記事になるかな?

それから、窓口の人の言葉が浮かんできたんです。

「高額療養費って職員でも難しいんですよ。もしかしたら該当したかも、と思った時は気兼ねなく窓口に来て下さいね。いつでも確認しますから」

その言葉を思い出したら、私が本当に書きたかったことが浮かんで来ました。

 

なんかよーわからんけど、高額療養費っちゅう制度があるらしいで。
損しないように病院代高かったら行ってきんしゃい。
役場のお姉さんが教えてくれるけんね。保険証と印鑑通帳は忘れたらいかんで。

 

私はこんな、茶飲み話が書きたかっただけなんです。
領収書と保険証、通帳印鑑あればなんとかなるから。
とりあえず行ってみっせ、と。

もちろんこれじゃ検索には引っかからないんだけど。
でも付け焼き刃じゃどうせ1ページ目なんて狙えないし、なんでも全部書くんじゃなくて、人に頼ることを書く、と言うのもそれはそれで意味のあることなのかなぁ、と。

 

ggrksの呪い 

 

f:id:yutoma233:20160929231212j:plain

 

検索って本当に便利。

電車の時間が知りたい時、美味しいランチが食べたい時。
もうスマホなしでは出掛けられない。

新しいことを始める前にはなんでも検索してしまいます。
どんなことを聞いても、大体の答えは返ってくる検索凄い。

 

でも今日、役場の窓口で高額療養費担当の方の話を聞いて思ったのです。

「プロでも難しいんですよ。一般の方が分からないのは当たり前。疑問に思ったらなんでも聞いて下さいね」

 

ggrks、ググレカスというネット用語があって。
それはちょっと検索すれば分かるようなことを聞いてくる人に答える時のスラングで、グーグルで検索しろよ、カス、ってこと。

今や検索は常識になって、みんな情報通になって、ググレカスなんて言われる人は絶滅危惧種です。

小学生の息子たちだって、ゲームの攻略情報や動画に出てくるネットスラングの意味を自分たちで検索して調べています。


ただ自分も含めて思うんですけど、検索が普及したせいで、自分で調べないといけない呪い、が掛かってるような気がしませんか?
いつも自分で自分にググレカス、とつぶやいてるような。

高額療養費の時に思ったのだけれど、分からないからお任せする、というのも一つの手段ではないのかな、と。

なんにでもニワカ専門家になろうとしない。
本当の専門家にお任せする、というのもアリじゃない?って。

 

それから検索だけじゃない、リアルな人の声も大切だよね、ってヨッピーさんのスマホを持たない旅記事を読んで思いました。

 

haken.inte.co.jp


検索0の生活はいまや考えられないんだけど、せめて旅に出た時くらいは検索力よりオバ力(誰にでも話しかけられる中年女性の鋼のメンタル)をフル稼働させて観光名所や美味しいお店を地元の人に聞きまくってみる、というのも楽しいかなぁ、と思っています。

食べログも、Amazonレビューもステマが多すぎてだんだん役に立たなくなってきた気がしません?
検索がいつか当てにならなくなったら、どうしたらいいんでしょう?

結局、身の回りの人のリアルな声が一番大事なのかも。
そしてそんな時こそ、検索に引っかからない中小ブログに出来ることがあるのでは、と。

この人がオススメするレストランはいつも美味しい、とかこの人の読んでる本はいつも面白そう、とか。

書いている人と気が合えば、個人ブログは最高の情報源になるかも知れないよね。

私にも、あなたに伝えられる何かはあるのでしょうか?
今はまだ分からないけど、(金欲しい…)と思いながらも誠実に書いていきたいです。

過去記事修正するけど。たまにはキーワードも気にするけど。ランキングだって書くし。タイトルに数字だって入れちゃうんだからね?

それでも検索に負けない「ナニカ」を探して日々模索中です。

ではでは、今日はそんな感じで。

二村ヒトシと恋愛工学の違い~恋愛の基本はコミュニケーションにあり?

社会 恋愛

今日、こんな記事を読んだ。(cakesなのでそのうち有料記事になるかも。読むならお早くどうぞ)

 

cakes.mu


「モテたい」が人をオトナにしてしまう、というコミュニケーションに関わるお話。

 

記事の中で二村ヒトシと恋愛工学の違い、と言う話があって面白かった。

恋愛工学は一時期流行していたから大筋は知っている。恋愛論と言うよりナンパテクニックみたいだなぁ、としか思えなかった。

二村ヒトシさんの文章はよくネットで読んでいる。
「すべてはモテるためである」も読んだ。

こちらは恋愛工学と対極で、哲学みたいだと思った。

結局恋愛はコミュニケーションであり、誰かに愛されるためにはまず自分を肯定するしかないんだ、という自己肯定力、人間としての根底の話が何度も出てくる。

 

下の、二村ヒトシさんと藤沢数希さんの対談を読むと二人の違いが分かりやすい。

cakes.mu

 

二村にとっての恋愛は「自分とはなにか」「愛とはなにか」考えるものである、ということ。対して藤沢は「お腹が空いたら食べ物を探しに行くようなもの」だと語る。

藤沢にとっての恋愛は、いい女とセックスできたらうれしい。
それだけのことだ、と彼は言う。

 最初の「モテたい教」の記事の中で、「たくさんのレベルの高い女性とセックスできる」ようになる、という恋愛工学について、

 

それが男性の「モテ」ですよね。女性の多くは「一人の素敵な男性に深く愛されたい」が「モテ」なんですよ。 

 

という意見があってなるほどな、と思った。
そして女性はだいたい二村派だと思う、という言葉にも納得。

誰だってゴハン扱いされるより、人間扱いしてほしいじゃないか。

 

二つの恋愛論を男性向けのマーケティング論として考えるなら、顧客(つまり女性)の好む手法を取り入れたほうが顧客満足度は上がると思うけれど、恋愛は商売じゃない。

 

恋愛工学は口説かれ慣れてない女性には効く、という話もあったので、効果が出た人もいたのかも知れない。

 

gendai.ismedia.jp


ただどっちの本の内容も、恋愛工学の手法も、既に女性に知れ渡ってしまった。

今本に書いてあることをそのまま取り入れると女性に(恋愛工学野郎…)とか(お前は二村ヒトシか?)と突っ込まれるので注意してほしい。

 

 ぼくのかんがえた恋愛必勝法?

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)


さて、いろいろな人が語っている恋愛論だけど、正直私が論じるには経験が足りなすぎる。つか、一般の人が語る恋愛術なんて、結局みんな個人の話なんじゃない?


そんな前提の上で、あくまでも「自分の場合の話」を少しだけ語ってみたい。

 

若い頃の私は(今もだけど)地味で大人しそうな外見だった。
そうすると「こいつなら俺にも何とかなりそう」と侮った感情を口や態度に出す男ばかりが寄ってきた。

私個人が好きなのではなく、「こいつなら何でも言うこと聞きそう」とか「自分好みに染められそう」なんて、女性の何かのパーツか付属品のように思っている輩。

当時は友人達から、性格に合わせて髪を真っ赤に染めろ!と言われた。
(結構本気で。昔は激辛カレーみたいな性格でした。今はリンゴとハチミツ入ってます)

でも私は目立たない格好が好きだし、落ち着くし、男性にどう思われるかで見た目を変えるなんてアホらしい、と思うくらいには頑固だった。

結果合コンに行くたびに『お前俺のこと好きなんだろ?目を見りゃわかるぜ男の歌』、『初対面で明日俺んち弁当もってこい男の歌』など数々のヒットチャートをゲットした。大ヒットナンバーを女子会で公開した後、私は虚無感に襲われた。


このままではやばい。
ネタリリックには事欠かず、女子会ヒットチャートの女王の名を我がものにしていたがそもそもそんな称号はいらない。

 

ちなみに初対面で明日俺んちに弁当持ってこい、と真顔で言った男には、弁当発言が出るまでは好感を持っていた。

古典SF好きらしく、現代アニメの元ネタはこのSF!論なんて話が面白かったのだ。


彼の男友達いわく、悪気があって「俺んち弁当」発言が出てきたのではない、ということだった。

デートで奢りたくない、男だけが出すのはアンフェア=俺んち、料理上手な彼女が理想=弁当、だったらしい。

相手の何に重きを置くかは人それぞれで、彼は「料理の上手い女性」が理想だったんだろう。デートで男性だけが金を払うのはアンフェアだと私も思う。

だけど初対面、居酒屋で1, 2時間しゃべっただけの間柄で「明日俺んちに弁当持ってこい!」は得を取りすぎと言うか、相手への配慮に欠ける発言では無いだろうか?

 

恋愛論、なんて言うとハードルが高く感じるけれど、基本は人と人のコミュ二ケーションなんだと思う。

俺弁発言は相手が自分より年下の女の子だから(3つくらい年上の人だった)、と侮っているように聞こえる。
自分と対等な立場にある人間、嫌われたくない相手(例えば親友とか)に同じ言葉を言えるか、を基準にしてみたらわかりやすいかと。

まぁ向こうは向こうで、お前ごときをなぜ対等に口説かなきゃいけないんだブサイク、自分の手法で釣れないなら次へ行くぜ、と思ってたのかもしれませんが。

そういう人を侮る気持ち、バカにした空気は上手く隠したつもりでも伝わってきちゃうものだよ、とだけ言っとく。

 

さて、女子会ヒットチャート女王からの脱却はどうしたのか、というと。

ファッションも性格も変えることなく、自分が好きだな、付き合いたいなと思う人には自分からアタックするようにしました。

脱・やまとなでしこ。
それだけで変な誘いは少なくなり、好きな人とうまく行くようになりましたとさ。


考えてみたら、女子会ヒットチャートを飛ばしてた頃は控えめ女子がモテる、みたいな恋愛理論を信じてたのかも。
もちろん本当に大人しい人が素でやるならアリだけど、欺瞞じゃ上手くいく訳ないし、地味容姿で控えめ演じてたらマウント男が寄ってくるのも当然。(ただ地味で大人しそうな年下女子だから何を言っても良い、という考え方は絶対におかしいと思いますけど)

そもそもの戦略が間違ってたんですね。

結局二村ヒトシさんも、恋愛工学も、あまたの雑誌に載ってる恋愛テクも一般論でしかない。

自分はどんな人間で、どんな人と付き合いたいか。
なにより誰が好きなのか?


そこを見極めていけば、自分だけの恋愛工学が見つかる気がします。

 

肉食系女子が当たり前になった現代、いつか王子様が、なんて夢見ている人はさすがに絶滅危惧種だと思う。

王子様の誘いを待つよりも、王子の首はワイが討ち取ったる!くらいの勢いがある人の方が私は好きです。プロゴルファー猿系女子…?ウッキー。

 

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

 

 

「エスカルゴ兄弟」に学ぶ、おいしいごはんの作り方

読書 読書-小説

こんにちは、みどりの小野です。
今日は津原泰水さんの「エスカルゴ兄弟」の感想を。

ミステリ、ホラー、ラノベにSFと幅広いジャンルで書き続ける津原さんの最新作はなんと料理小説!

主人公は出版社の新人編集者、柳楽尚登。
実家はうどん屋、調理師免許を持ち、将来の夢は飲食業。
しかし思い通りの職種に就けず、なぜか出版業界へ。

それでもこれも天職と、確固たる充実感を覚えていたのだけれど…?

 

タイトル通りエスカルゴのようにぐるぐる目まぐるしくて楽しい、そしてなにより美味しそう!な一冊でした。

 

 「エスカルゴ兄弟」あらすじ

 

エスカルゴ兄弟

 

主人公柳楽尚登は新人編集者。
香川では有名なうどん屋の次男坊。

将来はうどんのように親しみのある食品業界で働きたい、と思っていたものの有名大学の仏文科卒、という気難しそうな学歴が災いし、就活にはことごとく失敗。

やっと受かった出版社で慌ただしいながらも充実した毎日を送っていた矢先、社長から思わぬ指示を受ける。

なんと会社は倒産。
会社と付き合いのある、若手写真家の店でコックをするのが彼の新たな職場だという。

店は吉祥寺の元立ち飲み屋。

店主はグルグルしたものが大好きで、独特な美意識を持つ写真家、雨野秋彦。

彼が新たに始めるお店は、三重で養殖されたエスカルゴをメインにしたフレンチレストラン、スパイラル。


秋彦を中心にした不思議な店主一家と三重のエスカルゴ、それからソフィーマルソー似の伊勢うどん屋の娘への恋心。
色んなものに魅せられた尚登は、「スパイラル」で料理人への道を歩き出すことになるのだが…。

 

「食べること」の大切さ 

 

「エスカルゴ兄弟」は食べること、飲むことへのこだわりがとても楽しい本。

実は昔は「食べる」より「飲む」が好きだった私、結構偏った食生活をしてました。
冷ややっこに塩辛だけ、とかレバーパテだけ、とかなかなかのクソ栄養っぷり。
お腹が一杯になると、お酒が入らなくなるので、それが嫌だったのです。

子どもが生まれてからはさすがに三食米を炊き、みそ汁を作り、栄養バランスを考えた食事を取るようになったんですが。

しかし、食べることってこだわりだすときりがないよね。

体にいい水、いい米、いい野菜。
さんざん産直パルシステム、もう!

正直貧乏人にはそこまでこだわれない。
エンゲル指数も考えなくちゃ。
そこで我が家は美味しんぼ以下、オーマイコンブ以上のごはんを目指してます。

たとえばクッキングパパに出てくるような、簡単にできて美味しそうなゴハンが理想。

クックドゥは使わないけど、ほんだしは使うくらいのゆるさ。

毎日作るごはん、突き詰め過ぎても苦しいし、ジャンクすぎても体に悪い。
はてなブログだと、はらぺこグリズリーさんちのごはんも理想です。

簡単な工程で、ちょっとこだわりを入れつつ、何より楽しそう。

cheap-delicious.hatenablog.com


「エスカルゴ兄弟」に登場するスパイラルもちょうどそんな感じのお店。
こだわりすぎず、ジャンクすぎず。

エスカルゴもあるけど油揚げもある。
フレンチレストランなのに、ビールもワインも日本酒もある。

冷凍うどんの上にエスカルゴを乗っけたり、不思議な合わせ技メニューも面白い。
こんなメニューが食べたいなぁ、とリクエストしたらちゃんと次回想像以上のものを出してくれそうな楽しいお店。

エスカルゴって冷凍で、ガーリックバターが載ってるものしか食べたことなかった(あれもうまいよね)。
この本を読んだらエスカルゴづくしが食べたくなりました。
新鮮な国産養殖エスカルゴの煮付けとか、さっと湯がいて軍艦巻きとか、そんなの食べたいねに決まってるでしょう⁉

卑怯だわー(?)、この本。

 

とりあえず今夜はこの本を読んだら絶対に作りたくなること請け合いの、チーズキツネを作ってみました。

油揚げの間にとろけるチーズを入れて、トースターで焼くだけ。
おろし生姜と刻みネギを添えて、お好みで醤油をひとたらし。

ちょっと焦がしちゃいましたけど、間違いない味でした。うみゃー!

 

f:id:yutoma233:20160925172950j:image

本には他にもおいしいメニューがたくさん。
お酒とのマリアージュ感もたまりません。

料理店が開店するまでのあれやこれ、讃岐うどん屋の息子と伊勢うどん屋の娘の禁断の恋、不思議な一家の家族劇も面白い。


物語はこの1冊で完結してますが、続きがありそうな雰囲気なので次巻を期待しております。
ドラマ化も期待!映像で見たら2倍楽しいよ、この話。

と言うわけで今日は読むだけでお腹が減ってくる一冊、「エスカルゴ兄弟」の紹介でした。

読むべし、食べるべし!

  

エスカルゴ兄弟

エスカルゴ兄弟

 

 

近鉄奈良線、東花園駅の車掌さんについて考えたこと

社会 社会-新入社員

今日のお昼休みにこんなツイートを見て、何が起きたんだろうと思いました。

 

 

辿って行ったら、近鉄奈良線で人身事故があったようで。

Twitterの断片的な情報しかないのですが、事故による電車の遅滞について乗客に詰め寄られた車掌さんが制服を脱ぎ捨て、線路に飛び降りた、とのことでした。

夕方のニュースを見たら、車掌さんはその後死にたいと叫びながら高架下に飛び降り、腰や胸の骨を折る重傷とのこと。

命に別状はなし、とのことでしたがかなり追い詰められていたのではないかと思い、心配になりました。

 

matome.naver.jp

 

最初は車掌さん(第一報では駅員さんだった)のケガを知らず、こんな風に感じました。

 

twitter.com

 

田舎の感覚だと、人身事故なんて滅多に無い事だし、それでもし電車が遅れるとしても仕事先や約束の相手にその旨を連絡すれば「大変だ!亡くなった方は?」って聞かれると思うし、悼む感情がまず先に湧いてくると思うんですよ。

でももしそれが月1、週1の日常になってしまう、新聞に名前が出ていてもまるで縁もゆかりもない人だったら(田舎だとどっかで繋がってる人ばかりですからね)苛立ちが湧いてしまうのかなぁ、と。

車掌さんにはどうしようもないことだし、早急に電車が復旧できるように会社側で対応もしているはずです。

でも怒りが抑えられない人はいつの時代もいるし、その人にはその人なりの「ものすごく急ぐ理由」(親の死に目に会えないだとか)があったのかも知れないし。
勿論Twitterだけじゃキレた人も、車掌さんも、本当の事情は汲み取れないんですけど。

 

…しかしまぁ、正直どうしろっつーんだ、って感じもします。
電車が1分1秒でも遅れたら困る人は、ご遺体の回収より電車の運行を優先してほしいんでしょうか?

最悪、遺体を線路からよければ電車は走れるかも知れませんけど。

血塗られたレール、飛び散る遺体。
ホントにそこまでして遅れない電車に乗りたいですか?
そんな非人道的な未来、私は迎えたくないですけど。

 

接客業に詳しい某女社長さんからは、

キレてる人は心をなくして対応しないと、まともにやってられません。待ってるのはみんな同じ。騒いでも優先しません。

という意見をもらいました。

ホントにその通り。
些細なことで怒り狂う人、キレる人は昔からいるんです。

 

キレる人への対処法

 

f:id:yutoma233:20160921223105j:plain

 

人の感情は伝播します。

東北大震災で沢山の人が亡くなった後、災害時に効果的な屋外放送、というマニュアルが出来ました。

落ち着いて、迷わず、迅速に行動してほしい。

そういう時は放送もそういう内容にしなくちゃダメなんです。
急ぐ時ほど冷静に、言葉数は少なく、断定すること。

怒っている人に対処するとき、相手の怒りに引きずられてこちらも怒ったり、逆に過剰に申し訳ない気分になったりします。
でもそれは相手の怒りに火を注ぐ行為。

相手を落ち着かせ、我に帰らせることが大切です。
怒りに引っ張られない、自分が鎮火させる水になる、という意識。

だから自分は冷たいくらいに冷静に、落ち着いて事実だけを述べることが大事。
そうすると相手は我に帰り、自分の態度に反省したり弱腰になります。

そこで初めて少しだけ同情し、親身になる。

なぜか相手は素晴らしいサービスを受けた、と感謝して帰ります。
割と本気で。

ごめんね、あなたが受けたのはみんなが受けられる当たり前の親切なんですが。
最初に冷たくビジネスライクに扱うだけで、満足度が増すんでしょうね。

 

さて、これは私が実践で学んだ、怒りっぽい顧客に対応する窓口接客術です。
でも、飛び降りた車掌さんにこうすりゃ良かったじゃん!なんて気軽には言えません。

私はもうアラフォーです。
この手腕を手に入れるまで、さんざん泣かされたしマジ切れしました。

件の女社長も、最初は苦労したという話をたくさん書いています。

私も失敗ばかりでした。
客に首根っこを掴まれて、思わず金的を蹴り飛ばした日もありました。

もう辞める!と電話をぶん投げた日もあります。

なんとか仕事を続けることが出来た、今このスキルを手に入れることが出来たのは周りの先輩方のおかげです。

ブチ切れた私を、居酒屋に連れて行ってまぁまぁまぁまぁ…となだめてくれたのはいつも職場の先輩や上司でした。


公用車で顧客のベンツのカマを掘ったり、上得意の金的を蹴り飛ばしたり、今考えたら血の気の引くようなことばかりしてきました。

でも弁償金を請求することもなく、「若い子のしたことだから」で許してくれた職場のお蔭で私はなんとか大人になれました。

 

余裕のない時代の中で

 

私が就職した頃はバブルが終わったばかり、就職氷河期と呼ばれる時代の最初の頃でした。

あの頃はまだ氷河期なんて言われつつも時代に余裕がありました。
新人は出来なくても金の卵で、将来のために面倒を見て貰えたし滅多に切られなかった。

窓際族、なんて言葉もありましたが今考えたら仕事もないのに会社に置いてもらえるなんて夢のようです。

窓際さえない、新人は3ヶ月でモノにならなければ切られてしまうような、恐ろしい現代。

最近レールから外れてこてんぱんに叩かれた学生さんもそうです。

私達の時代にも、就職せず自由な暮らしを選び、居酒屋でリーマンへの道を選んだクラスメイト相手に管を巻く友人が一定数いましたよね?

友人の言うことと、ネットに書かれた文章では感じ方は違いますが、あの頃夢を語る友人のことはどこか羨ましく、それでいて俺はこうは生きられないよな、なんて現実的に見ていたはず。

本気で怒ったり、心配する人は少なかったと思うんです。
それはレールから外れたり多少失敗しても持ち直しがきくさ、という時代の空気があったから。

現代は、レールを外れるのにも勇気のいる時代なのかも知れません。
大学を途中で辞めました、という記事がホッテントリを飾っちゃうんですから。

一昔前は「若者のいう事だから…」で通ったことが、今は通用しなくなってる気がします。

新人だろうがなんだろうが、お金を払っている以上一律のサービスを提供できて当たり前。お金を稼ぐのが大変になった分、使う側もシビアになりました。

私だって、無駄遣いはしたくありません。
でも「損をしたくない」もしくは自分のストレス解消の気持ちだけで、まだまだ若い、自分の息子に近いような人を叱り飛ばす人を見ているとなんだかなぁ…とも思うのです。

みんなシビアで余裕が無くて、失敗はすぐにTwitterなんかで拡散されちゃう時代。

生き辛いよね、もういやや、ってなっちゃうよね。

 

彼の上司、先輩方へ

 

勿論こうやって呟きを記事にする私も、彼を追いつめる一人なんだろうと思います。

 

それも理解した上で、今日私はこの文章を、多分事件についてエゴサーチするであろう彼の上司、先輩に向けて書いています。

 

私と同じ40代、それより年上、バブルの恩恵を少しは受けたであろうあなた。

私達の時代はまぁいいか、若者のやることだから、と見逃されてきたじゃありませんか。

確かに今はあの頃みたいな予算はありません。若者を育てる余裕がなくなってきました。私たち自身も、首にならないようについていくだけで必死です。

その上公表したくないような話題でも、こうしてTwitterやブログで拡散されてしまう、本当に厳しい時代になってきました。

 

でもね、どうか怪我をした、追い詰められた職員をお見舞いに行くときには笑ってあげて欲しいんです。

「お前、凄いことしたなぁ。有名人だぞ。でも大丈夫、なんとかなるさ」って。

昔自分が先輩に失敗をフォローしてもらったことを思い出して。
どうか力になってあげてください。

昭和生まれの私達は恵まれていたと思うんです。

今の若者は昔の私達より真面目で、頑張っていて、どこか思い詰めています。

私達に出来ることは、あの頃先輩たちから受けた恩を、少しでも今の若者たちに回してあげる事なんじゃないのかなぁ、と思います。

たった1度の失敗も許されないなんて厳しすぎます。
ひどい失敗をした人間こそ、大きく成長できると思うんです。

 まぁまぁまぁ、ってあの頃とりなしてくれた誰かの姿を思い出して。

 あの時、あなたの肩を叩いてくれた誰かの手のような。
そんな暖かさが入院中の車掌さんにも届くといいな、って。

だいぶ甘っちょろいけど、そんなことを考えました。

「探検家、36歳の憂鬱」ー角幡唯介が語るノンフィクションの分岐点

読書 読書-エッセイ

今日はノンフィクション作家、探検家 角幡唯介氏の初のエッセイ「探検家、36歳の憂鬱」の感想。

「空白の5マイル」「アグルーカの行方」などの傑作ノンフィクションの舞台裏、そして探検とは何なのか、ノンフィクションとは何なのか。
色々考えさせられる1冊でした。

 

著者について 

 

探検家、36歳の憂鬱

 

角幡唯介(かくはたゆうすけ)、1976年生まれ、北海道出身。
早稲田大学の探検部に入部したことをきっかけに、卒業後入社した朝日新聞社を5年で退職、冒険家の道へ。

その後世界最後の空白部と呼ばれるチベット・ヤル・ツアンポー川峡谷の核心無人地区を完全踏査。

その探検を描いた『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』は第8回開高健ノンフィクション賞、第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫山と探検文学賞と数々の賞を総なめにする。

今一番勢いのある、探検ノンフィクション作家。

 

探検家の憂鬱とは? 

 角幡氏は現在40歳。

この本は2012年発行、ノンフィクション作家としてデビューした最初の数年間の文章と書きおろしをまとめた1冊です。

角幡氏がどんな気持ちで退職し、探検家を目指したのか、ツアンボー探検で餓死寸前まで陥ったあと過食が止まらなくなった話など、他の著作を読んでいる人にとってはたまらない内容。

これが初の角幡唯介、という人にも著者の人となりや探検について考えていることがよく分かる入門編となっています。

 

新聞記者として五年間経験を積み、三年は暮らしていける程度の貯蓄、やりたい探検や書きたい本のアイデアまでしっかりしたマスタープランをたててフリーランスになったのに、引っ越した最初の夜は布団にくるまってがたがたと震えた…という素晴らしい退職エントリ「スパイでも革命家でもなくて探検家になったわけ」や、震災時日本にいなかったことから(北極探検中)欠落感を感じる「震災ー存在しなかった記憶」も素晴らしいのだけれど、今回はブログについて考えさせられた一篇、「行為と表現ー実は冒険がノンフィクションに適さない理由」の話を。

 

冒険とノンフィクションの関係性

 

「行為と表現ー実は冒険がノンフィクションに適さない理由」というエッセイの中で、角幡氏は命を掛けた冒険となったツアンボー峡谷についての話に触れています。

詳しくは「空白の5マイル」に書かれているのだけれど、著者は一か八かの選択を迫られ、結果的には第三の策で無事生き残りました。

 

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む (集英社文庫)

 

 

しかし、助かった後の複雑な気持ちを、著者はこう綴っています。

 

もし一か八かの解決策をとって生き残っていたとしたら、自分はもっとスリリングな物語を書くことができたんじゃないだろうか。この探検の物語を、人間の生と死にかかわる、より力強いレベルに押し上げることができたのではないだろうか。

 

ツアンボー峡谷の探検記は、著者の二冊目の本。

ライターとして生きていきたいという意思は既に固まっていたし、結果的には角幡の名を世に知らしめた一冊となりました。

旅の間、探検者の目線と表現者の目線、二つの視点で世界を見ていた著者。

最後の局面、彼は人間として躊躇なく生き残ることを優先するのだけれど、もし表現者としての至高を追い求めていたら危ない解決策を取る道もあったのだ、と後から振り返りゾッとしています。

こうした書くこと、表現することを前提とした行為について、その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい、と彼は書いています。

 

ノンフィクションとフィクションの分岐点 

 

ノンフィクションとはなんでしょう?

私は史実や事実に基づいた物語だと思っていましたが、角幡氏は書く前にもノンフィクションとフィクションの分岐点がある、と言うのです。

 

たとえば旅の途中で金品を巻き上げられたらそれは作品を盛り上げる要素となる。

ただし、それが「予期せぬ出来事」ではなく、ライター側があらかじめ危険を理解しながら、それでもネタになるとあえて呼び込む形で行動をとった場合、それは本当の意味でノンフィクションと呼べるのでしょうか?

 

文章に書くことを前提に旅をした場合、旅と言う行為が作為的に、作り物になってしまう可能性がある。

 

ささやかなブログを書いている私にも思い当たる言葉です。
ブログを書くようになってから、今まで読まなかった本や、絵になりそうな場所やイベントを訪れるようになりました。

そうした行為は、書くための小さな作為。

 

普通の人が、ブログやSNSを通じて簡単に表現者になれる時代。

 角幡が考え続けるノンフィクションとフィクションの境界線、は私達にとっても身近な問題なのかも知れないと思いました。

ブログやSNSがあったせいで、生まれてしまったノンフィクションもありますよね?

例えば、コンビニの冷凍庫や冷蔵庫で写真を撮る若者たちは、そもそもSNSが無かったらあんな面倒な行為をしなかったでしょう。

ああいった事件は或る意味フィクションなのかも知れません。

 

私自身も、書くために自分の生活を見失わないように、境界線を見極めないと。そんな風に思いました。

 

あなたのブログ、面白く書くために、いきすぎてませんか?

 

書くために、さらにスゴイ冒険をするために。
どんどん危険を冒してしまう探検家のジレンマを「探検家、36歳の憂鬱」で学びました。

ホントに色々考えさせられる1冊。オススメです。

 ちなみに文庫版「探検家の憂鬱」には文庫特典として「極地探検家の下半身事情」「イスラム国事件に対して思うこと」などが収録されているそうなので、これから購入するならそっちの方がいいかも。私も買っちゃおうかなぁ…。

 

探検家、36歳の憂鬱

探検家、36歳の憂鬱

 

 

探検家の憂鬱 (文春文庫)

探検家の憂鬱 (文春文庫)

 

 

 (今読んでる最新作。とにかく凄い本です)

漂流

漂流

 

 

會津十楽秋の陣開催中!鶴ヶ城を歩こう

生活 生活-レポ

こんにちはみどりの小野です。

今日は2016年9月17、18、19の三日間(つまり今日から!)鶴ヶ城本丸にて開催されている、會津十楽秋の陣イベントレポートをお送りします!

 

會津十楽とは? 

 

f:id:yutoma233:20160917181236j:plain

 

 

洗練された南蛮文化の他、漆器や酒造りを奨励した蒲生氏郷公。織田信長公の“楽市”をさらに発展させた「十楽」という制度を城下に敷き、経済・文化振興を図りました。この制度を再現する物産イベント「會津十楽」です。

南蛮寺をイメージしたオリジナルデザインの南蛮小屋(ブース)を並べ、 時代衣装を身に纏ったスタッフが当時の食文化、当時の食を再現した「食楽」、匠の技を展示・販売する「匠楽(しょうらく)」、お伽衆朗読劇や絵付け体験などの「興楽(きょうらく)」など3つのコーナーで400年前の時代にタイムスリップしたかのような雰囲気を再現します。

 

aizu-jyuraku.jp

 

戦国武将、蒲生氏郷公がかつて城下に設けていた「十楽」。
400年前の市が現代の会津に帰ってきました。

鶴ヶ城本丸(つまりお城の真ん前)に氏郷公にちなんだ屋台を出して、会津で花開いたかつての南蛮文化を紹介していこう!という取り組み。

「會津十楽」はふるさとイベント大賞最優秀賞(総務大臣賞)を受賞した話題のイベントなのです。

出店は全部で29と、数は少なめですが全部蒲生氏郷公の時代にも楽しまれていたものを現代風にアレンジ、というこだわりが面白いです。

 

f:id:yutoma233:20160917174215j:plain

 

かっこいい黒い建物、ちょっと狭い通りの作りもタイムスリップしたみたいで面白いし、お店の人もみんな着物姿でとっても素敵。

 

f:id:yutoma233:20160917174542j:plain

 

どちらかと言うと食べ物がメインかも?

日本酒に、南蛮由来のワインやチーズ、生ハムまであります。
キジやイノシシなんてジビエも頂けますよ。

 

f:id:yutoma233:20160917174337j:plain

 

お店の周りには昼間から飲んでる人がたくさん。

ここでゆっくり飲んだら時代を忘れそう…と思ったけれど子連れなのでクレープでガマンガマン。

クレープは米粉入りでもちもち、子ども達の食べたかき氷は大きな氷の塊をガリガリ削る懐かしいかき氷機で作られてました。

 

f:id:yutoma233:20160917181343j:plain

 

子供が楽しめるゲームもあります。
扇の的当てや、古銭を水の中の鉢めがけて落とすゲームなど、どれも懐かしい感じ。

武将コスプレも出来たりします!

 

f:id:yutoma233:20160917181420j:plain

f:id:yutoma233:20160917181528j:plain

 

三味線の演奏もあって、雰囲気が素敵でした。

 会津の誇り、鶴ヶ城。
実は天守閣は明治7年に取り壊され、昭和40年に再建されたもの。

なのでちょっと新しいのが玉に瑕。

 

f:id:yutoma233:20160917181641j:plain

 

でも石垣や堀は当時のままなので、私は鶴ヶ城の天守閣よりその周辺を歩き回るのが大好き。

 

f:id:yutoma233:20160917181742j:plain

 

なかなかいい雰囲気でしょう?
鶴ヶ城へお越しの際は、ぜひ周辺をゆっくり散策してみてください。

 そういえば、この記事を書くためにwikiを見ていたら鶴ヶ城についてこんな記述を見つけちゃったんですが。

地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。

 

これホントですか?
地元では鶴ヶ城、としか呼ばれてないのに、こんなに名前があったとは⁉︎

むむむ、鶴ヶ城は鶴ヶ城なので鶴ヶ城と呼んで欲しいけどなぁ…とアイデンティティがぐらぐらしてしまった會津民なのでしたw 

 

會津十楽、春の陣秋の陣と連休に合わせて結構ちょこちょこ開催されております。

鶴ヶ城にお越しの際はこちらのイベント開催日に合わせると更に会津が楽しめると思いますので、ぜひぜひ會津十楽のホームページをご確認ください。

ではでは、今日は会津の楽しいイベントのお話でした。

三崎亜記と町の感覚

読書 読書-小説

三崎亜紀さんの「メビウス・ファクトリー」という本を読んだ。
ME創研という企業がすべてを統治する町にUターンしてきた一家の物語。

三崎さんが描く「町」はまるで生き物の様で、少し気持ち悪い。
「メビウス・ファクトリー」には集団に属しているときの心地よさ、その輪を外から眺めた時の気持ち悪さが鮮やかに描かれていた。

三崎さんは静かに淡々と、生理的な感覚を切りとっていく。

主人公が属する町と言うサークル、そこが外部からはどう見えるか。
面白いけれど読み終わった後に周りを見回したくなる、そんな後味の話だった。

 

私も、町はサークルのようなものだと思う。

私達が住んでいる町は私達家族には居心地が良く、暮らしやすい。
まだ縁故というものが生きている田舎では、私がどんな人間かということより誰の孫、誰の娘、誰の嫁であるかが重要視される。

「この町産」の娘である私は、それだけで受け入れられ尊重してもらえる。

でもこの町に他所から越してきた人からすれば、どこに行っても出身地、親の名前を聞かれるここは嫌な町だと思う。

つまり属しているものには心地よく、縁を持たないものは拒絶される町。

でもポスターでよく見る、「みんなが暮らしやすい、明るく健全な町」なんて本当に存在するのだろうか?

どんな町にも、大小の差はあれサークルはあると思う。

私の町のように昔の歴史を気にしすぎる町、若いファミリー向けの町、高齢者ばかりの町。

全部を受け入れてくれるような、雑多な場所はあるのだろうか?
昔はそれが東京なんだと思っていた。

 

都会のサークル

 

 

メビウス・ファクトリー

 

都会に遊びにいくのは楽しい。
にぎやかな街の中は、歩いているだけでアミューズメントパークみたい。
ずっと「ハレの場」にいる気分。

でも誰もいない無人駅に帰る時、この静寂こそが私のいる場所なんだと思う。
都会の街の中では子どものころ潜り込んだ押し入れのような「一人になれる場所」がなかなか見つからない。

若い頃は都会に憧れて東京で就活したりした。

でも面接帰りの電車の中で、私はここには住めないと悟った。

表通りの町並みは、みんな真新しくてピカピカしている東京。
でも電車の窓から見る町の裏側は、くたびれてボロボロで、全てがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

都会に縁故がなく、お金もない私は、この町に暮らしたらきっと日陰の人間で、手に入らない真新しいピカピカを羨んだりひがんだりして暮らすんだろうな、と思った。

田舎では感じたことのない貧富の差というものを、都会ではひしひしと感じる。
会津ではめったに見ないホームレス、その前を通り過ぎるピンヒールの人。

都会にもサークルはあった。
たださまざまな輪が無数に入り組んでいるから、自分がどこに属しているか認識しづらくなるだけ。

都会に住んだら、手の届かないモノにばかり憧れて辛くなるかもしれない、と貧乏だった若い頃の私は上京を諦めた。


今は自分が属する町が結構好きだ。
余所者と言う意識の歪さ、これから起こるであろう過疎地の問題も全て、自分のこととして向き合って行かなくては、と思っている。

それから心地いいサークルの中にいる時こそ、周りへの配慮を忘れてはいけない。

例えばカフェで旧知の友人と笑い合う時、少し声を潜めるような当たり前の気づかい。
サークルの外からはどう見えるか?という意識を忘れないようにしなくては。

今日はそんなことを「メビウス・ファクトリー」を読んで考えました。
町という意識の物語。オススメですよ。

 

メビウス・ファクトリー

メビウス・ファクトリー