おのにち

おのにちはいつかみたにっち

恩田陸が描く児童文学-「7月に流れる花」「8月は冷たい城」感想

恩田陸さんの「7月に流れる花」「8月は冷たい城」読了しました。
講談社ミステリーランド(少年少女のためのミステリーレーベル)刊なので、一応子ども向けなのかな?

確かに文字は大きめ、主人公は少年少女…なんだけど、子ども向けの枠を超えてかなり楽しめました。

物語のボリュームとしては中編くらい。
綺麗にスッキリまとまっていたので、このくらいの長さもいいな…と思いました。

恩田陸さんの長編連載モノ、たまにラストがアレだよね。
いや、途中過程はいつも最高に面白いんですけれども…!

 

物語のあらすじ

 

七月に流れる花 (ミステリーランド)

 


「7月に流れる花」「8月は冷たい城」。
共に同じ時間軸の物語なんですが、順番としては必ず7月から読んでください!
8月には7月のネタバレががっつりありますので。そこの所だけ、注意です。

 

「7月に流れる花」主人公の少女ミチルは夏流(かなし)という珍しい名前の町に引っ越してきたばかり。

だから町のことをよく知らず、不思議な風習やみんなが知っている「夏の人」というみどり色のおとこの存在に戸惑っている。

そんな彼女がみどりおとこからの招待で夏休みを夏のお城で過ごすことになる…。

夏流にある、窓を塞いた不思議な「冬のお城」の正体は?
町を歩く奇妙な「みどりおとこ」とは?

主人公ミチルが転校生という設定なので、私達は彼女といっしょになぜ?どうして?の世界を歩くことになる。

船でしか渡れない、堀に囲われた不思議な夏の城。
そこに閉じ込められた6人の少女たちの、不思議な共同生活。

ルールは3つだけ。
鐘が一度鳴ったら食堂へ集合。
三度鳴ったら、何時だろうとかならずお地蔵様にお参りすること。
それから水路に花が流れて来たら、その色と数を記録すること…。

分からないままに城の生活を続けるミチルだったが、少女が一人いなくなったことから疑惑に駆られて…というミステリー。

みどりおとこの正体とは?
何のために彼女たちが集められたのか?
奇妙なルールは何のためなのか?
消えた友達はどこへ行ったのか?

すっきりとまとまった、悲しくて綺麗な物語です。

 

「8月は冷たい城」は同じ夏の城ーただし少女たちとは塀で隔たれた向こう側ーに集められた少年たちの物語。

主人公光彦は夏流で育ったので、自分たちが城に集められた理由をよく理解している。

それを知ったうえで、彼の中に渦巻く疑問。
城の中で起きる、不思議な出来事。
僕らは誰かに、命を狙われているのか?

こちらの物語も事件が起こり、謎を解いていくミステリー仕立てとなっているのだけれど、夏の城の謎がもう解かれてしまっているので、「7月」ほどの驚きはないかも。

ラストは「みどりおとこ」について、7月よりもう少し深い考察が交わされるのだけれど…オチがかなりSF的で。小学生に理解できるのだろうか?
大人が読んでも、ちょっと曖昧な感じなので。
そこらへんが多少気になりました…!

私は「7月」の方が好きかな。でもどちらも面白かった。


「みどりおとこ」という設定がかなり面白いので、この物語のもう一つの視点(大人サイド)の話があったら読みたいな、と思いました。

2月に読む話じゃなかったかな…。(でも発売日は去年の12月…季節感は!?)
夏が来たら、また読みたいかも。

キャンプ場の木陰で、足を小川の流れに浸しながら。
流れてくる、百日紅の花を数えながら。

そんな雰囲気のミステリーです。
寄宿舎や林間学校のイメージ、がっつり恩田陸ワールドやで…!

それでは今日は短いけど終わり。またお会いしましょう♪

 

七月に流れる花 (ミステリーランド)

七月に流れる花 (ミステリーランド)

 

  

八月は冷たい城 (ミステリーランド)

八月は冷たい城 (ミステリーランド)

 

 

人は思い込みで死に至る?-ノセボ効果・プラセボ効果

プラセボ効果、という言葉を聞いたことがあるだろうか。
本当は薬効のない薬を与えたのに、信じ込むことによって症状が改善される効果である。
ノセボ、と言う聞き慣れない言葉はプラセボの逆。
例えば「この薬は副作用として吐き気を起こす」と言われると偽薬でも気持ちが悪くなったりする。

プラセボは偽薬が良い効果をもたらし、ノセボは偽薬が悪い効果をもたらす。

プラセボ、ノセボ。
効果は逆だけれど、人の思い込みが人体に影響を与えるのは同じ。

信じやすい人、疑り深い人。
その人によって効果は異なるのだろうけれど、思い込みに体が影響を受ける、と言うのが面白い。

私も飲んだら痩せる、と言う偽薬のプラセボ効果実験に参加してみたい…と思ったのだけれど、それってもしかしたら広告によく出てくる、絶対痩せる薬のこと?

 

ノセボと実験データ

 

f:id:yutoma233:20170208231703p:plain


プラセボに比べて、ノセボの実験データはかなり少なく、あやふやだ。
そりゃそうだ、体に害を与えるかもしれない実験をたやすくできるわけがない。

ノセボ(ノーシーボ)でググると出てくるのはちょっぴり胡散臭い、怖い話ばかり。

 

例えば『ブアメードの血』という実験。

血液の3分の1を失うと人間は死ぬんだよ、と死刑囚に言い聞かせ、目隠し拘束の上足を切る。本人の血液に見せかけ、水がポタンポタンと落ちる音を聞かせ、「出血量が全体の3分の1に達した」と言うと実際は大した傷ではないのに死刑囚は死んでしまった、とか。

 

transact.seesaa.net

 


こわいよ!死ぬわ!死んだわ!
この事件が本当に行われたかどうかはかなり怪しいのだが、ホラー映画かよ!?と思った。


神の見えざる手実験、的な設定がSFには割と多い。
理想の世界は実は科学者の箱庭だったぜ!ディストピアをぶち壊せ!みたいな。

現代なら、実験しなくてもシミュレーションで何とかなりそうだけど。
それでも治験バイトみたいな話をよく聞くので、まだ人体実験は必要なのか。

 

変な話なのだけれど、私は割と生きていくことを実験のように捉えている。

例えば先月、あまりの寒さに葬式が相次ぎ、香典代が家計を圧迫。
給料日まであと1週間、財布に千円しかない危機が訪れた。

貯金を崩せば何とかなるけれど、そこは手をつけたくない。
カードで次月支払いも良いのだけれど、普段の生活はなるべくあるだけのお金で暮らす、を大切にしたい。

ユニコーン世代としては、この悲しみをどうすりゃいいの誰が僕を救ってくれるの、と悲観したいが、それをやっても金が降ってくる訳じゃない。

悲しみの言葉を探している暇があったら、でっきるかなでっきるかな、はてはてふふーん♪と歌いながら(節子それ実験やない、工作や…!)鶏胸と豆腐ともやしで乗り切りたい。


でっきるかなでっきるかな、はてはて…できるかぁ!いくぜ大迷惑!この悲しみをどうすりゃいいの⁉とヘッドバンギングしたくなる日もあるけれど。

大丈夫!って思いこむこともきっと、広義のプラセボ効果なんだよね。

 

ノセボ・プラセボの話がなぜかノッポ・ユニコーンにすり替わった所で今日はおしまい。

あなたの思い込みは、なんらかの効果をもたらしているのかな?
はてはて?ふむー。

 

風の谷のミニマリスト挫折

一時のミニマリストブームも落ち着いて来て、今残っているミニマリストブロガーさん達は本物のミニマリスト、シンプルな生き方がもはやDNAに組み込まれている人たちだと思う。

そんな中、私は恥を忍んで小声で告白する。

ミニマリスト…挫折しました…

 

どうも私の心の中にはクシャナ殿下が住んでいるようなのである。

捨てる、いる、捨てる、いる…などと分別をしている内にクシャナスイッチが入ってしまう。

 

これは要らない、これはいる?期限は?もうちょっと取っておこうか。これは…どっちだ?

ええい、しゃらくさい!
綺麗な家を取り戻すのに何をためらうことがあろうか!

焼き払え、なぎ払えーーー‼!!

 

原因は分かっている。一度にまとめて片付けようと、気負いすぎなのである。
毎日一カ所、少しづつ丁寧に物を捨てていけばキレイになるのに。

はじめるとついつい、このゴミ袋を一杯にしたい…!などと妙な欲が湧いてしまう。
捨てる捨てる、これも捨てる!と捨てていると、気分が上がってきてしまうのは私だけ?

もう、前提が間違っている。
要らないものを捨てて部屋をキレイにしたいから捨てる…じゃなくて、捨てるのが心地いいから捨ててしまう。

いわば、捨てるハイ。

ここからここまで頂くわ♡くらいの勢いでズサーッと捨ててしまう。

まさになぎ払え捨て。
なぎ払った後になにが残るか?
何もない…ならいいんですけど、捨てハイの後に後悔が、後悔がっ!

 

さて、私がこれまで捨てて後悔したものを軽快なナンバーに乗せて公開しよう。

 

いままで私が捨てたもの
家族全員のマイナンバー
いままで私が捨てたもの
年末調整領収書

当たっていたけれど
この世にないなんて
教えてくれたけど
現物燃えるゴミ

バイバイマイスイー宝くじ
さよならしてあげるわ

 

お分かりだろうか。

私の中のクシャナ(いや、やったの私だけど)は恐ろしいことに生まれて初めて当たった宝くじを捨ててしまったのである。

会社で買った宝くじ。
当たるように、と我が家のおきあがりこぼしや招き猫ぬいぐるみなどを置いた神棚っぽいコーナーに載せておいたのが悪かった。

年末クシャナが『神などおらぬ…すべては埃となるのだ…焼き払え――!』と言ったのでごそっと捨てた。

ええ、宝くじもごそっとな。

 

そのままにしておけば当たったことも気が付かなかったのに…。
恐ろしいことに、年末宝くじをまとめて購入してくれた係長はみんなの番号をわざわざコピーしておいてくれたのである。もちろんたかるために。

係長…恐ろしい子…!

「小野さーん、宝くじ一万円当たってるよー!みんなで飲みに行こう!」

えっ。

時が止まった一瞬だった。
私の宝くじ。

走馬灯のように思い出す。
なぎ払った、あの時感じた紙の手触り。確かに君だったよね…!

ああああああああああああああああああああああ

 

突然職場で発狂しだした私を見てみんな理解した。

あーこいつ年末ミニマリストに目覚めたって偉そうにぶっこいてたわ。
家じゅうスッキリした、みんなも捨てた方がいいよ、って上から目線だったよね。

捨てたな。捨てたわ。

 あの時の、周囲の冷たい視線が忘れられない。
なぜ、なぜ私は自分の宝くじを捨てて、ここまで責められなくてはいけないのだ!?

いいんだもん、どうせみんなで飲んだら一瞬で終わりなんだもんね。
私は私の肝臓を守るために捨てたんだから…

あああああ私のいちまんえーん!

さようなら、私の中のクシャナ殿下。
私は己の杜撰な性質がとことんミニマリスト向いてねぇ、ということにようやく気が付いた。

これからは大人しく腐海の植物なんかを育てていこうと思う。
らん、らんらららんらんらん、らんらららん…。

 

あのー、ホントにみんな大事なものまで捨てちゃって後悔してないですか?
後悔も捨ててこそ真のミニマリストなのですかっ…⁉

 

風の谷のナウシカ〈3〉 (1985年) (アニメージュコミックス―ワイド判)

風の谷のナウシカ〈3〉 (1985年) (アニメージュコミックス―ワイド判)

 

 

人と機械の境界はどこ?-海猫沢めろん『明日、機械がヒトになる』感想

今年は小説以外の本も読まなくちゃ…と思っておりますおのにちです。

そういう訳で、SF作家海猫沢めろんさんが最新科学の世界で人と機械の違いと何か?を探っていく科学ルポ「明日、機械がヒトになる」を読みました。

海猫沢さんは子どもの頃自分のことを精巧に出来たロボットなんじゃないか、と思っていたそうです。なんて不思議な発想。

でも誰しも、マンガやアニメの世界に出てくるロボットやアンドロイドに、人格を見てしまう時がありますよね?

アトムや攻殻機動隊のタチコマくん、最近だと宇宙兄弟に出てくるロボットブギー。
もしもブギーが側にいて、壊れてしまったら?

私はやっぱり、泣いてしまうと思うんです。
でも、ブギーと洗濯機の違いは何なの?
そして私とブギーに違いはあるの?

今日はそんな風に色々考えたくなる一冊「明日、機械がヒトになる」の感想です。

 

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

 

機械って何?人って何?


さて、このルポは作家の海猫沢めろんさんが、日本屈指の科学者たちに話を聞いて、最新の科学技術を実際に目で見る、体験してみる…という構成で出来ています。

語り手である海猫沢さん自身の経験値も半端ではなく、アイソレーションタンク(海外ドラマ、フリンジに出てくるアレ)のあるお店に行ったことがあり、SRの感覚がタンクで得られる変性意識状態と似ている、とか言い出すんですよ。なにその感覚!味わいたいよ!?

本に登場する科学者は7名。

SRー藤井直敬さん、3Dプリンタ―田中浩也さん、ロボット―石黒浩さん、AI(人工知能)―松尾豊さん、ヒューマンビッグデータ―矢野和男さん、BMI―西村幸男さん、幸福学―前野隆司さん。

具体的な研究内容は、ヘッドマウントディスプレイを通して現実と虚構の境目が分からなくなるSRシステム、アウラ(「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威のこと)を揺るがす3Dプリンタ、本物の人間と見間違うようなアンドロイド、一流棋士に勝利するAI、などなどなど。最新科学が盛りだくさんです。

 

特色としては水先案内人が作家さんなので、話が素人にも分かりやすい。
小説やマンガに使えそうなアイデアに溢れてる。

私のように新しい知識が欲しい!何かを学んでみたい!って人のとっかかりには最高の一冊でした。参考文献も沢山紹介されてるので、この分野をもう少し詳しく知りたい!と思ったら更に深く学んでいけそう。

なにより最新科学が宗教や哲学の話、文学の領域にまで繋がっていく過程が面白いったら!この本は人と機械の境目とは何か?がテーマなので、機械と人を隔てるものを探っていく内に宗教とか哲学とか、心の領域の話になっていくんですね。

 特に人間の幸福さえ加速度センサで測れてしまう、という日立製作所の「ヒューマンビックデータ」の話が面白かった。

この話は「データの見えざる手」という本に詳しく書かれているらしいので、そちらも読んで見たいです。 

データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則

 

 

人間がもし機械のように、法則に基づいて動いているだけだとしたら?
私たちの「自由意思」は本当に存在するのか。

工学博士、矢野和男さんが実験しているという、その日の自分に最適なアドバイスをくれるシステム「ライフシグナルズ」の話も面白かった。

自分の過去の行動データから、その日にふさわしいアドバイスをくれるという「ライフシグナルズ」。

本が出た時点では試作段階だったようですが、2016年商品化された模様…。

www.hitachi.co.jp

人工知能で働く人の幸福感向上アドバイスだと!?
行動を全部監視され、職場でのコミュニケーションや時間の使い方までアドバイスされちゃうだと!?それなんてディストピア…?

うーむ、実際に使ってみないと分からないんですが、幸福が計れる、という考え方は面白いです。

 

最後に出てくる、慶応義塾大学の前野隆司教授の「幸福学」の話も面白かった!

ロボットの研究から、幸福を研究する学問に至った前野教授。
「ロボットは人を幸せにするための研究である。しかし、そもそも人を幸せにしてしまえばロボットはいらないのではないか?」
何その飛躍!?

さらに「受動意識仮説」の話になると、頭がこんがらかってきます。
前野教授は意識は受動的に出力される結果であり、心は幻想だと思っている、と言います。

1980年代、自由意識研究の先駆者ベンジャミン・リベットの実験によると、被験者に手首を曲げてもらい、それと関連する脳活動を観察した結果、動かそうとする意図よりも脳の活動の方がおおよそ1/3秒早かったのだそう。

これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定ーつまり私たちの自由意思へとー翻訳されていることを示している…とのこと。

意識が受動的に出力されるとはどういうことなのでしょう?
私達は普段「立ち上がろう」「物を手にとろう」と意識して体を動かしている、と思っている。ところが実際は意識する前に体は動いていて、私たちの意識は後付けなのだ、と言うのです。
ええええ!じゃあ私たちが「心」だと思っていたものは何なの?

機能としての心や意識が希薄な人間は存在する、と海猫沢さんは言います。
全てを他人事のように感じてしまう離人症や、何をしても楽しめなくなる重度のうつ病。それは病だ、と思っていたけれど、生まれつきそういう性質の人間も存在するし、異常ではないのだ、と思うとまた別の世界が見えてきます。

前野教授は人の幸福までたった4つの因子で説明できる、と言います。
受動意識仮説も、幸福学もすぐには受け入れがたい話なんですが、面白い。
これらの本もこれから読んでみたいです。

 

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

 

  

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)

 

 

機械嫁は電気毛布の夢を見るか?

 

2014年、アラン・チューリング博士が発案した、人間と機械をモニタ越しの対話で当てるゲーム「チューリングテスト」で、ついにAI側が人間を騙すことに成功したそうです。
つまり機械は既に人間と同じくらい自然に、言葉を扱えるようになっている。

過疎化していく地方の人間として、もしも学校にペッパー君がいたら?と考えたことがあります。

子どもがいないのなら、自宅でパソコンを通して授業を受けたっていい。
でもモニター越しの世界からは集団の中での振る舞い方、同世代とのコミュニケーションを学ぶことが出来ない。

たとえばペッパー君がもっとスラスラ、自然に会話できるようになれば、柔軟な子どもたちは彼を「学校の友達」として受け入れるんじゃないだろうか、そしてそれは過疎の町にとって「必要な子ども」になるんじゃないだろうか、そう考えたのです。

そしてもし、そんな風に優秀なペッパー君が、安価になり一般家庭でも買えるようになったら。
ドラえもんやドラミちゃんみたいに、一人っ子の子どもの、いい遊び相手になるかも知れない。

更に進化して、好きな容姿や性格に変えられるようになったら、本当の子どもを育てるよりロボットの方が良い…という時代が来るかも知れない。

性交や、簡単な家事機能もついたら、そもそも結婚するよりロボットと暮らした方が気楽でいいや、となるでしょう。

そうしたら、ロボットの維持管理費を稼ぐために人が働く、機械に人が奉仕する未来が来るのかもしれない。

機械と暮らした人間は、いつか年老いて死ぬでしょう。
そこにはロボットだけが残る。

彼/彼女は機械だけれど、電化製品や家財道具みたいに、廃棄したりリサイクルしてしまっていいものなのか。
クリーニングされて、リサイクル店で安く売られていたとして、私達はその「中古嫁」を愛することが出来るのか。

すごく便利な機械を手に入れる前に。
かわいいペットを飼う時みたいに、最後まで面倒を見られるかどうか?をきちんと考えなくちゃいけないのかも知れないな、なんて私は先の先まで考えすぎてしまいました…。

科学で、人と機械の境界が変わるかもしれない世界。
あなたの「トモダチ」が家電量販店で売られていたら。
あなたは、買ってしまうでしょうか…?

 

なーんて、そんな未来がくるのはまだまだ先?それともそう遠くない話?
とにかくわちゃわちゃ、色々考えたくなる面白い一冊でした。

次は何を読もうかなぁ。新しいことを知るって、ホントに面白いですね!

 

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

 

  

豆を配る祭り

私の会社では、節分に豆を交換し合うという謎儀式がある。

昔は会社の金でパーッと気前よく豆を撒いていたそうなのだが、景気の悪化で廃止。
無くなるのは寂しいと上司が自腹で豆を配るようになり、気がつけば各自が豆を持ち寄り交換するイベントになった…とのこと。

つまり500円程度の豆の大袋を職場に持っていき、同僚の机の上に置いておくと別の豆が戻ってくるよ、と言う謎の豆物々交換。

これが結構楽しい。
続けるうちにみんな豆に凝り始めてきて、どこで売ってんだこれ?みたいな不思議商品を仕入れてくる。

そのうち柿ピーの小袋なんかでは飽き足らなくなってきて、ピスタチオだの、カシューナッツだの多種多様な豆をビニール袋に「まぁどうぞどうぞ」とざらざら注ぎ込む。
出来上がるのは様々な種類の豆が詰まった謎袋だ。

4時過ぎになるとみんな豆交換に勤しみだす。
就業時間間際には、ポリポリポリポリ、職場に豆を食べる音だけが響く。
ここはハムスター小屋か。

たまにベビーサラミや、酢昆布なんかも混じっていて、節分とは何だっけ?と改めて疑問に思うけれど楽しいからいいだろう。

ビールが欲しくなるけれど、仕事中仕事中と己を戒める。
先程から殻付きピーナッツがやめられない止まらない。
とにかく不思議な春の豆祭りである。

 

『コーヒーピー』が好きなんだ、とこだわりのコーヒーP大袋を振る舞う人がいた。

我が家は豆の板垣木の実入りアソート大袋を買うと必ずコーヒーPが余ってしまう。
コーヒーPはいらない子説を唱えていたので、これをセレクトするのか!と少し驚いた。
しかしお勧めのコーヒーPは確かにほろにがで美味しかった。
コーヒーP氏宅では板垣の大袋からコーヒーPが真っ先に無くなるのだそう。
単独で食べるのもいいが、柿ピーと交互に食べるのもまた良し、と教わったので今度は柿ピーと混ぜるメソッドでチャレンジしてみたい。

コーヒーP家では梅味の柿の種がいつも不人気との事。
他の人にも聞いてみると、みんなそれぞれ人気、不人気の袋があり、底に残るのはいつも同じ味だと言う。

コーヒーP派と梅派が一緒に暮らせば、板垣の大袋が綺麗に無くなるのにね、と同僚が言った。

ポリポリポリポリ、豆を無心に食べる職場の仲間を見ていたら、いろんな年代、いろんな趣味嗜好の人間がいるからこそ、豆の大袋のように仕事が片付くのかなぁ、なんて思った。

とはいえ味や形は異なっても、豆は豆。
塩辛やチョコレートは仲間外れになってしまうのかも知れない。

それでも色んな味が混ざった不思議な豆詰め合わせ袋を眺めていたら、この中ならグミだってハムだって、アリなんじゃない?と思えてくるから不思議。

ワクワク春の豆祭りは、多種多様が愛おしく思えてくる、不思議なイベントでございました…とさ。

今日は金曜日。ビールと豆を、のんびり頂きます♪

 

スーパーミックス(豆菓子)

スーパーミックス(豆菓子)

 

 

7年目の断絶

この間テレビで、修行僧の話を聞いた。
かなりうろ覚えで、どこの神社仏閣だったか、どのような名前の修行だったかもわからないのだが、どうやらその修行が始まると最低でも7年間関係者以外と会うことができず情報も絶たなくてははいけないらしい。

毎日同じ場所で寝起きし、勉学に励む規則正しい修行の日々が7年。

修行が終わった朝は、どんな気分なのだろう?と考えた。
TVも新聞も読まない、俗世のことはなにも知らない。
自分の家族や友人だって、もしかしたらこの世にいないかも知れない。

竜宮城から帰ってきたら家も家族もなかった浦島太郎のように、寂しい気持ちにならないだろうか。

映画「オールドボーイ」では主人公は15年間監禁される。
ただしTVを見ることは許されていたので、情報収集は出来ていた。
それでも家族も時間も失われてしまった。

すごく残酷な復讐の物語だと思う。

 

7年間、TVも新聞も読まずに、情報を断絶して暮らすことは可能だろうか。
TVもパソコンもスマホも持たない、本や雑誌を買わない暮らし。

多分やる気になれば可能だろう、とは思う。
そうやって出来た空白の時間を、何で埋め合わせたらいいのか?と思うと怖くなるのだが。

ただ時折、考えたりもする。
時代に取り残されないようにと、日々情報を摂取しているけれど。
この沢山の話題のうち、私にとって本当に必要なものは何なのだろう、と。

誰かの事故、悲しい事件。
みんな考えさせられるけれど、そこにはいつも距離がある。

誰かの不幸にチャンネルを合わせながら、普通にご飯を食べる生活。
それは本当に、必要なニュースなのだろうか。

 

7年目の朝に、修行僧は何を感じ、何を見るのだろう。

断絶の先にあるものを、見てみたいなと思いました。

私も少しだけ、デジタルデトックスしようかな。
とりあえず無駄なネットサーフィンは辞めたいです…。

 

オールド・ボーイ プレミアム・エディション [DVD]

オールド・ボーイ プレミアム・エディション [DVD]

 

 

繁殖と本能の話-私の不妊治療体験

今日こんな記事を読んで、面白そう!この書店に行ってみたい!と思った。

 

toyokeizai.net


でも今日はこの書店の話じゃなくて、インタビューの中に出てきた「現代人と動物的な本能」というお話。

現代を生きる私達は本当に動物的、肉体的なものと切り離されてしまったんでしょうか?記事を読むうちに、昔の自分が思い起こされてきたので、今日はそんなことをつらつらと書いてみます。

 

女性と動物的な本能?

 

さて、最初にあげた記事は吉原で遊郭関連の本の復刻本などを出版するカストリ出版という出版社が、ソープ街のすぐ脇に「カストリ書房」を開店した、というインタビュー記事である。

途中、こんな話が出てくる。

(書店の客がほとんど女性だ、という話を受けて)「何かどろどろしたものを求める気分が僕の中にはあるんですが、それは来店する女性たちにもある気がします。怖い物見たさというか……。」

なぜだろう。映画の『吉原炎上』とか、漫画の『さくらん』とか、春画展とか、女性が遊郭に関心をもつきっかけは最近継続してあった(2015年に東京の永青文庫で開催された「春画展」も、若い女性客が多かったことで話題になった)。 「女性のほうがレバーを食べる、男性はあまり食べない」という本連載前回インタビューでの女性の発言もあったが、男性のほうが今は、動物的、肉体的なものと距離があるということではないか。 女性は毎月いやでも自分が動物であることを肉体で実感する。対して男性のほうがパソコンやゲームなどのデジタルなものや人工的なものだけに浸って生きてしまいがちだ。生活全体のデジタル化に生理的に満足できない、リアルさを求める心理が女性のほうでより強いということかもしれない。

 最初の「」内が店主の言葉、その後がこの記事を書いた社会デザイン研究者、三浦 展さんの言葉である。

男性の方がパソコンやゲームなどデジタルなものや人工的なものに浸ってしまいがち…というのは一部のギークな男性だけの話ではないか?女性が月のもので自分が動物であることを実感するなら、若い男性は毎朝動物であることを実感しているのではないか?などと一部同意しがたい部分もあるのだけれど、基本的な部分は同意である。

デジタル化していく生活、便利なもの綺麗な日々に押さえこまれてしまいがちな私たちの本能。

もっと動物的に、本能のまま生きよう…という意識の表れが「どろどろとしたものを求める気分」なのかも知れない、と思った。

 

人は理性では繁殖できない?

 

さて、私自身が一番本能的なものを感じるのが「繁殖行為」である。
子どもを二人持つ私、もちろん本能の赴くままにすぐ出来ましたがな…と言いたいところだが、生憎若かりし頃の私は頭でっかちだった。

今もそういう生真面目な部分は残っている。
だからこそブログではふざけたいのだろうな、と分析してみたりするのだが。

私は20歳の時から5年間付き合った人と25歳で結婚した。
25歳という年は当時の結婚適齢期。
思いっきりテンプレである。
もちろん「出来ちゃった結婚」など許せない頭でっかち。

新婚旅行中に出来るのも恥ずかしい…などと戯けたことをほざいていた。
今思うとなにが恥ずかしいのか。
あの頃の私の石頭をかち割りたい。

結婚後も、すぐに子供が欲しいのに、仕事のことばかり考えてなかなか上手く行かなかった。

今は人が不足している。出産予定がこの時期だと職場に迷惑を掛ける。
育休を取らせてもらうなら仕事が忙しくない時期に。人が足りているときに。
新人さんが入ったから、この人が仕事に慣れてから…なんて考えていたらベテランさんが辞めてしまったりして。

あの頃の私に言いたい。
その態度、社会人としては相応しいかもしれないけど動物としての本能に反している。

いわば社畜ファースト。
新入社員で仕事も覚えないうちに妊娠するのは…とか、転職してすぐに育休を取るのは…なんて、真面目な人間ほど「社会の常識」に縛られて遠慮してしまいがち。

それは確かに社会人としては正しい。
でも、そんなに色々考えて、計算づくで繁殖が出来ると思うのは甘い…かも知れない。

色々色々考えて、基礎体温を測りグラフを描き、計算づくで挑んだ私は結局2年間子どもが出来なくて、不妊治療に移行した。

その後もなぜ出来ないのかは原因不明のまま、尻に注射を打ちながらタイミング法を続け、毎週の不妊治療という精神的なストレスと、出世と共にどんどん忙しくなっていく仕事に病み、生きていくことの何が楽しいのか分からない、と泣くようになった。
人としての限界を感じて一度仕事と不妊治療をやめた。

子どもは諦めてもいいよ、ちょっと一休みして、もう一回人生を考え直そうよ…。
そう夫に言われて注射も薬も仕事も辞めて、自分の人間としての不甲斐なさに打ちひしがれ、とにかく泣いてばかりいた30歳の夏休み。

私が妊娠したのは、どん底から人生を見直そうとしていた時期だった。
仕事も、排卵誘発剤もやめて、タイミング法も忘れて一か月。

あんなに頑張ってもダメだったのに、諦めて肩の力が抜けた時に妊娠はやってきた。

今思うのは、ガチガチガチガチ、計算づくだった私の頭の固さが敗因だったのではないか、と言うこと。

 結局二人目もそうだった。
一人目を産んだあとは妊娠しやすいと聞き、休職中に頑張ろう…と3年間頑張ったがダメで、一人っ子でも仕方ないか、と諦めて職についたら一ヶ月に妊娠した。

どうやら私の着床はストレスに左右されるらしい。
「頑張ったら」ダメなのだ。

あんまり考えすぎないで、本能の赴くままにするのが私の繁殖のコツだった。
そういえば子だくさん一家のお母さんはあまり深く考えていない人が多い…ような気がしなくもない。(ただしハダカの美奈子一択)

だいたい今の世の中、理屈で考えたら家も車も子どもも持てない。
全ては「贅沢品」の言葉で表されてしまう。

レバーを愛し、遊郭を懐かしみ、「どろどろした物」に惹かれる若い女性達。
それは頭でっかちな現代の私たちが忘れていた本能ファーストの復活なのかも知れない…と言ったら大げさでしょうか?

もちろん理性も倫理も、私たちが人間として生きる上で身につけてきた大切なこと。
でも絶対に人に迷惑を掛けない、自分のしたこと全てに責任を持つ…ってガチガチに考えすぎたら。

そこは袋小路なのかも知れないな…と思いました。

人も所詮動物。
時には肩の力を抜いて、自分の本能に聞いてみることも大切なのかもしれませんね。

あなたが求める「どろどろしたもの」は何ですか?
下ネタはやめろよバカ野郎、と釘を刺して今日は終わり!

 

私たちは繁殖している (1) (ぶんか社コミックス)

私たちは繁殖している (1) (ぶんか社コミックス)