おのにち

おのにちはいつかみたにっち

遠い尿意

尿意が、遠いのです。

 

窓口業務をしているので、年末はなんだかやたらと忙しい。
お客さんというものはまるで示し合わせたかのように同じ曜日、同じ時間帯に訪れる。

ほんとうに忙しい時はトイレに行く暇もないので、行ける時に行っておくしかない。

 

するとどうなるか。

とりあえずパンツを下ろして座ってはみるものの、遠い。
尿意が果てしなく遠いのである。

 

こう、なんというか自分の奥底にあるものに呼びかけるかのような。
根源から引き出すかのような。
衛星中継におけるタイムラグ的な。エクスペクト・パトローナム的な。

 

なぜトイレに行くたびに瞑想したり集中しなくちゃいかんのか。
どうせ引き出すなら尿より魔法が良い、なんて思ったりする。
誰か杖を下さい。

 

人間の膀胱は平均500ml程度の容量らしいけれど、実は個人差が大きいそうだ。
トイレに行きたい、と思ってから2~3時間くらいならトレーニング次第で我慢できるはず、とのこと。今度からは少し我慢して見ようと思う、骨盤底筋にもいいらしいし。

 しかし我慢したならしたで、今度は別の問題が生じてくる。
それはつまり  morasu of death.

…かっこよくいってみたがとにかく漏らしたら死ねるのである!

 

なぜ人は、特に増田はよく漏らすのであろうか?
だいたい21世紀のこの世界で、データはクラウド上に預けておける世の中で、なぜ私たちは膀胱と言う狭い枠に縛られなくてはいけないのか。

自分の排せつ物をクラウド上にアップロード出来たら。
中身はまとめてシステムが処理してくれないだろうか月980円で頼む…などと尿意を抑えながら考えたりする。

 

そういえばマンガ『エスパー魔美』で、夜中トイレに行きたくない魔美が自分の尿を他人の膀胱にテレポーテーションさせる、というなかなか危険なプレイを行っていたことを思い出す。

あんな風に私の尿意も直接トイレにワン・ダイレクション出来たらいいのにな☆
そんなことを考えながら窓口に立つ日々です。

 

…ああ、トイレ行きたい。

 

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

 

亡霊が追いかけて来る夜に

夜更けに下の子どもが短く泣いて、電気を煌々と付けてトイレに走り、何事も無かったように電気を消してまた寝入ってしまった。

思わぬ時間に起こされた私は、泣き声から引き出された記憶の余りの生々しさに目を見開いて天井を眺めていた。

 

上の子が五歳の時に、私は二人目の子どもを身籠った。
妊婦となった私がまずしたことは、上の子と別の布団で眠ることだった。

当時の息子はいつも私と同じ布団で寝ていた。甘えん坊で、一人で眠ることがまだ苦手だった。夜な夜な繰り出されるキック、寝返りも打てない狭い布団に辟易しながらも、子どもと眠ることがそれまでの私は好きだった。  

ところが妊娠と共に全ては変わってしまう。
二人目を身籠って、つわりが始まったとたん、子どもからも夫からも、とにかく触られることが嫌になってしまった。

ホルモンのバランスの問題だと産婦人科では言われた。

 

キタキツネの親は時が来ると守り育てた子ギツネに本気で噛み付き、テリトリーから追い払うという。それは近親交配を避け、次の子どもを産む準備にとりかかるために必要な自然のおきてだ。子離れはキタキツネの親の愛情を込めた成長の儀式だ、なんてセンチメンタルな話も読んだけれど、愛情が突然嫌悪に変わる経験をした私はキタキツネの追い払いも単なる生理的な問題なのではないか、と思ったりする。

 

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とにかく、どうしようもなく嫌なのだ。
私にまとわりつくものを全て追い払ってしまいたい、牙を剥きだし威嚇したい、そんな気持ちが湧く瞬間があるのだ。

 

触られるのが嫌になったと言っても、私は野生動物ではない。
この感情が自分の本当の心理や道理とは違う、理屈の通用しない所から来たものだとは分かっているし、表に出さない努力も出来る。

でも心の中で巻き起こる感情は制御できない。
夫は大人だから良い。話し合えばきちんと分かってくれる。

問題は子どもだ。
自分を愛し慕ってくれる子どもに、触らないで、なんて言えるだろうか。

でも行き場のない嫌悪が湧く瞬間がある。夜更けは特にそうだった。
私は子どもに、君は寝相が悪いからお腹の赤ちゃんを蹴っ飛ばしてしまうかも知れない、だから今日から隣の布団で寝て欲しい、と頼んだ。

それは決して嘘ではない。
子どもは本当に寝相が悪かったし、お腹の子どもの為にも少し離れて安眠することが必要だった。

でも心の奥底にあったのは、触れられたくない、という道理の通用しない嫌悪だった。

 

初めて別の布団で眠った夜、子どもはとても健気だった。
お気に入りのぬいぐるみをたくさん布団に入れて、お兄ちゃんだから頑張ると言った。片手を繋いで、もう一つの手は布団の上から優しくリズムを刻んでやって、ようやく彼は眠りについた。

それでも夜更けに短く泣いた。
ヒィン、と小さく仔馬のような、悲鳴のような声だった。

 

涙が出て堪らなかった。

どうして私は自分の子どもを抱きしめてあげられないのだろう。
自分から一人で寝たいと言い出すまで、待ってあげたかった。

今感じている嫌悪はホルモンのバランスの崩れから生じるもので、どうしようもないことだと言われていた。この涙もまた、そこから生じるものだと頭では分かっていた。

それでも、この感情の波は全ての母親に現れることではない。
私は情が薄いのだろうか、母親失格なのだろうか。

勿論、外に溢れ出ようとする感情を抑え込む事は出来る。
でも、感じることをやめることは出来ない。
言葉にしなければ誰も気がつかない思い。

それでも自分の子どもに触られることが気持ち悪い、と感じてしまう私を、私自身が許せなかった。

 

今にして思えば、それはありふれた成長の儀式だった。
子どもは三日もすれば一人で眠れるようになったし、不安を見せる様子もなかった。

ただ私の心が不安定だったから、強く自分を責めてしまい、結果心に刻まれただけの話だ。

下の子どもの泣き声があの夜の声と似ていて、感情が引き戻されてしまったのだろう。


全ては終わった話だ。
二人の子どもたちはそれぞれの布団で眠っている。
今更一緒に寝ようだなんて言ったら気味悪がられる。自分の部屋で一人で眠るようになる日もじきだろう。

私の涙は罪悪感と繋がっている。
あの時の嫌悪感は自分の本当の感情ではなく、どうしようもないことだったと頭では分かってはいるのだけれど、それでも愛情が足りなかったのではないか、自分は冷たい人間なのではないか、と思考がどうどう巡りしてしまう。

親は無条件で子どもを愛し守るもの、という意識が根底に擦り込まれてしまっているから、それにそぐわなかった自分を今でも許せないのだろう。

 

私は私の思う『普通』の枠から外れてしまった私を許せなかった。

けれど『普通』のレールは思うより狭い。
もしも押さえても湧いてくるような衝動があって、それを思うことにさえ罪悪感を抱いてしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

私の嫌悪は一時で消えた。
でももしも、本当に子どもが愛せなかったなら?
異性が愛せなかったなら?自分すら、愛せなかったなら?
そうしてその罪悪感が、真夜中の自分を追いかけてきたなら?

それは『影との戦い』でゲドが向き合った、自分自身の影のようだ。

 

フラッシュバックなんて言葉のない時代から、人々は記憶の中から蘇り自分を責める亡霊の姿を描き出してきた。

マクベスの前に現れる亡霊は彼の罪悪感が生み出したものだろう。
ディケンズの『クリスマスキャロル』でスクルージの前に現れる過去の亡霊なんてフラッシュバックそのものだ。

スクルージは辛い過去をもう一度見つめ直し、現在を受け止め、おぞましい未来を思い浮かべ、ようやく新しい朝を迎えた。なんて長い夜だろう。

でも。
私は思ったりする。

罪深いスクルージのままで生きることは、そんなにも許されない事なのか、と。

 お休みなさいスクルージさん。

いつかあなたも私も、過去の亡霊と折り合えますように。
どうか一つになれますように。

 

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

 

 

怒りの森をすり抜けて

四十を過ぎて、クロワッサンの表紙にやたらと魅かれるようになってきた。

お金、暮らし、着物…はまだちょっと早い。
ちょうどそういうことに興味が湧く年頃になってきた、と言うことなのだろう。
雑誌の見出し通りの生き方、なんてテンプレートな人生。

そしてついに奴がやってきた。
一番めんどくさくて、厄介なやつ。

ジェンダー・問題。
生きていく以上私たちは性差という問題から逃れられない。
それでも私はそこにずっと蓋をしてきた。
夫や息子たちを裏切るような気がしたし、今の自分が間違いだと思いたくなかったから。

 

ではなぜ覗き込んでしまったのか。
それはここ数日抱えていた怒りの根源がそこにあったからだ。

 

私は怒っていた。
でもなぜその人に対してそんなにムカつくのか、意地悪な気持ちになるのかが分からなかった。

私の怒りは大概私を傷つけたり侵害した人に向かう。
でもその人はそうではなかった。
いつも親切だったし私のことを友人として扱ってくれていた。

けれどもある言葉がきっかけで私は怒りを抱えて毒を吐いた。
幾夜も考えた今は分かる。あれは言葉をきっかけにして、昔抱え込んだ気持ちがフラッシュバックした怒りだ、と。

 

過去の私はなんだかとっても疲れていた。何もかもがめんどくさかった。
今思えばブックマークやネットの毒にやられていたのだと思う。

一緒に遊ぼうよ、と楽しいidコールの誘いが来ても、乗りツッコミをする気力もなく、もう疲れたんだパトラッシュ、みたいな気分だった。

その人は私のそんな気持ちを読み取って愚痴を聞いてくれた。
私はすっきりして自分なりの解決策を語り、それでいいやと眠りについた。

 

朝起きたら問題は全て解決していた。
その人は私に変わって嫌な役目を引き受けてくれていた。
まるで騎士のようだった。

 

でも私は、その時本当はものすごく嫌だった。
遠回りでも弱腰でも、私は私の思うようにやりたかった。


その人がしてくれたことは私の主義主張とは違うものだった。
だからその時私が言うべきだったのは、本当にありがとうございます、でもこれは私の真意とは違うから自分で解決させて下さい、という言葉だった。

でも私はそれさえも面倒だった、億劫だった。
せっかく丸く収まったものをまた拗らせるのは...と自分の本当の気持ちから逃げ出してしまった。

結局のところ、その人は自分の思うようにしてくれただけだ、全ては善意からだったと思う。私も、良かれと思ってしてくれたことを踏みにじりたくなかった。
その人のメンツを潰すのは…なんて余計なことを考えてしまった。

その人は押しつけがましいことは何も言わなかった。
私がその時正直にごめんなさい、こういう事は困ります、と自分の言葉できちんと話せばちゃんと理解してくれたと思う。

でも私は人の気持ちを害したくない、と自分の本音から逃げてしまった。

 

今取り消してしまったらこの人のメンツを潰してしまうことになる、と勝手に思い込んで余計な気を回したのは私だった。

私は私が心の底で、男性を立てておかないとめんどくさい、と思い込んでいることにようやく気がついた。たてて上げる、ってなんだよ、人間をイチモツ扱いかよ。それこそ最高にくだらなくて失礼だ。

私は勝手に自分の中の常識に縛られて、余計な気を回してしまった。

 

結局のところ、私の怒りは私の中の歪みが原因だった。
その人がまた騎士のように見えたからムカついた。
でも彼が悪い訳じゃない。

今思えば私のしたことは単なる八つ当たりだ。
私の本当の敵は聞き分けの良い自分だったから、唐突な怒りをぶつけられたその人にとっては最高に意味の分からない話だったと思う。本当にごめんなさい。

 

子どもの頃の私は、大人になることを大樹になることだと思っていた。
今ある傷や痛みは、私が大きくなることで自然と内包されていって、堅い樹皮に守られて感じなくなるのだと思っていた。

でも実際は違った。
私は私というおんぼろシステムのたった一人のエンジニアで、エラーコードを吐き出す度にその問題が外部にあるのか内部にあるのか、確認しなくてはいけないのだった。

時にはシステムの根幹から見直さなくちゃいけない時もあるかも知れない。
その時に全部修正するのか、それとも迂回路を選ぶのか。

新しい時代の波と言うバージョンアップがやってきた時には更新するのか、導入を見送るのか。かなり厄介でめんどくさいけれど、私は全部自分で決めたい。

それだけがいつだって私のアイデンティティだ。

 

子どもの頃の私は不器用でおどおどしていて、本さえあればいいような子どもだった。 それでも面白い話や怖い話を拵えて、数少ない友達に話して聞かせて喜んで貰うのが大好きだった。

今の私は40代の不遜な大人になって、誰にでも明るく感じよく振る舞うことが当たり前だと思っている。

見ないようにしてきた、考えたくなかった。

私は端っこに座るのが好きで、みんなに穏やかに接するのが好きだ。
でもそれは本当に私の生まれ持った資質なのだろうか。
自分の中に蓄積された女性らしさ、という思い込みに縛られた演技なのだろうか。

私はもう一度根幹から問いたださきゃいけないんだと思う。
やりたい事と、やらなくてはいけないと思っている事の違いを。

 でもそれは本当にめんどくさくて億劫なことだ。
出来ればマニュアル本で済ませたい。
誰かの受け売りで終わらせたい。

 

心理学、哲学、宗教。
本当の自分を見つける話は山程ある。

それでも私は全部を鵜呑みにするのではなく、自分なりの答えを見つけたい。
例えそれが何週目の道筋でも、読んだ言葉をきちんと自分に結びつけたい。

素晴しい建売住宅より、荒野に立つ自分だけの掘っ立て小屋がいい。
どれだけ信頼できる人がこれは100mlですよ、と言っても自分のビーカーで測りなおすまでは納得できない。

 

私は人生で一番めんどくさい壁は私だ、と今ようやく気がついた。
生きていくのは本当に面倒くさくておっくうだ。
それでもこの厄介でめんどくさいものが私の本質みたいだから、本当に自分らしい私を探して、生きていきたいと思う。

社交的な私と、気弱だった私と。
いつか全て一つになって、それでもいいと思えたらいい。

 

 

スター・ウォーズ ジェダイの哲学 :フォースの導きで運命を全うせよ

スター・ウォーズ ジェダイの哲学 :フォースの導きで運命を全うせよ

 

 

川瀬七緒『女學生奇譚』-思わぬ所に着地する物語

川瀬七緒さんの『女學生奇譚』を読み終えた。
いやぁ、面白い!終盤はイッキ読みだった。

オチは多少マンガチックではあるものの、この物語をこう終わらせたか、というアイデアだけでもゴハンが食べられる。

とにかく出だしからは想像もつかないラスト、着地点だった。

 

女學生奇譚 (文芸書)

 

 

 『女學生奇譚』あらすじ

 

物語は意味深な警告文から始まる。

 

この本を読んではいけない。
過去に読んだ者のうち五人が発狂し、二人が家から出られなくなり、三人が失踪している。 もう一度警告する。ただちに本を閉じよ。

 

主人公はフリーライターの八坂。
彼は、こんな警告文の挟まった『読んではいけない本』を読んでくれ、という奇妙な依頼を受ける。

ネタを持ち込んできた女性は、兄がこんなおどろおどろしいメモの挟まった古書を一冊残して数ヶ月前に失踪してしまったと言う。そして本を調べることで兄の行方を見つけてくれ、と。

 

その古書のタイトルが『女學生奇譚』。
八坂は、タッグを組むカメラマンの篠宮、そして兄を探すあやめとともに謎を追う羽目になる。

実際の本の内容は大正時代の女学生の日記のようだった。
しかし調べていくうちに昭和初期に起きた実際の事件と主人公の記述が重なっていく。

やがて、八坂の周辺でも本の内容が現実を侵食しはじめて…

 

ホラーが一変、ミステリーに

 

さて、あらすじ怖いですよね?ドグラ・マグラやリングを思い出しませんか?
でもこの物語、実はホラーじゃないんです。ミステリなんです。

終盤、八坂が本の仕掛けに気が付くあたりから世界は様相を変え、おどろおどろしい大正ホラーは急に現代的なミステリに相貌を変えます。

多少唐突に感じられる部分もあり、もう少し伏線があっても良かったのでは?と感じましたが、テンポの良さ、どんどん先を読みたくなる引き込み方は素晴らしい。

私は表紙からホラーだと思い込んで読み始めたので、余計面白かった。

もしかしたら予備知識が無い方が楽しめる本なのかも知れません。こういう本ってどう紹介したらいいのか、難しい!

 

家族との縁を切っている八坂、不倫で人生を棒に振った篠宮、不器用で人を信じないあやめ、この三人が結ぶ奇妙な縁もなかなか良い感じ。

続編を期待させる終わり方だったので、こんな風にオカルト事件を調べていくミステリとしてシリーズ化するんでしょうか。かなり読みたいです!

さてさて、そんな訳で今日はミステリ『女學生奇譚』の感想でした。

 

女學生奇譚 (文芸書)

女學生奇譚 (文芸書)

 

 

 

北村薫『ヴェネツィア便り』感想-時を越えて届く物語

北村薫さんの『ヴェネツィア便り』を読み終えた。

タイトルから旅エッセイだと思い込んでいたので、読んでみて少し驚いた。
新刊の中身は短編小説集であったのだ。
それも少し仄暗い、不穏な気配のする物語が多かった。

心中をしよう、から始まる双子の兄弟の物語『誕生日-アニヴェルセール』、溢れだす「ナニカ」に祟られるホラー『開く』、不思議な力を持つ会社の同僚を描いた『岡本さん』。嫌な気持ちがもわっと立ち上がってくるような『黒い手帳』。

どれも短くて淡々とした話なのだけれど、物語の中に刻まれた時間が奥行きを感じさせてくれる。テーマは『時と人』だそうである。

書かれていない余白を、終わりのその先を想像したくなるような物語であった。

 

ヴェネツィア便り

 

北村薫といえば殺人が起きない、優しいミステリのイメージが強い作家さんである。
けれど傑作ミステリ『盤上の敵』のように、名前のない悪意や、どうしようもない残酷さを静かに描くような作品も素晴らしい。

『ヴェネツィア便り』はそんな風に北村薫の『暗い一面』を上手く切り取った短編集である。強く心を揺さぶったり、涙を誘う感動作はないけれど、なぜか心に引っかかる。
そんな風に記憶に爪を立てていくような物語もとてもいいな、と思う。

私はいつか思い出すのだろう。
夜のバスの行き先、朝の光のむこう。
ああこの景色はあの時読んだ物語によく似ていると。
そんな風に物語と現実の境目にいるような感覚に陥る瞬間がとても好きだ。

 

なお、北村薫さんが初めて暗い作風に挑んだ『盤上の敵』文庫版には異色の前書きがついている。

 

盤上の敵 (講談社文庫)

 

この物語は、心を休めたいという方には、不向きなものとなりました。読んで、傷ついたというお便りをいただきました。

 

前書きというより、いつもの北村ワールドに癒されに来た人のための、注意書きなのかもしれない。盤上の敵のハードカバ―版を読んだ読者から「(内容に)傷ついた」という言葉が寄せられたのだそうだ。

前書きには『 今、物語によって慰めを得たり、安らかな心を得たいという方には、このお話は不向きです』という警告文がついている。

初めてこの本を開いた時は少しギョッとした。
不向きです、なんて注意書きを目にしたら身構えてしまうではないか。

実際の本編はと言うと、確かに重く心に残るラストだった。
でもそれよりも緊迫した物語の先行きが気になって、次々ページを捲りたくなるミステリとしての味わいの方が強かったと思うのだけれど。

しかしこんな傑作ミステリに『傷ついた』という感想が寄せられるなんて、そして作家自身がその反応に対して本に注意書きを付けてしまうだなんて。

本の売り方としては注意書きなんぞをつけずに、いつも通りの北村ワールドとして売った方がどんでん返しミステリの面白さ、そして作品のインパクトは強まったと思う。

けれど読者のためにこうした前書きを付けてしまう「品の良さ」が、優しい話の中でも暗い話の中でも、北村薫作品に一本通った『筋』をつけているのでしょう。

 

そんな訳で少し暗いけれど澄んだ空気の流れる『ヴェネツィア便り』、ちょうど旅に出るあなたにはオススメなんじゃないのかな、と思ったのです。

 

ヴェネツィア便り

ヴェネツィア便り

 

 

追伸:いつも品ある北村薫作品、大好きなんですがチョコレートの後にポテチを食べたくなるように『対極にあるもの』を読みたくなってしまいます。

私が北村薫さんの真逆だと思う作家はしょうもない犯罪、腐れた田舎町、バカばっかりの物語に疾走感とゲロをまぶして描くのがめっぽう上手い戸梶圭太さん。
北村薫さんと戸梶圭太さんの作品を交互に読むと人生の拡張感を味わえるので、更にオススメですよ。

 

闇の楽園 (新潮文庫)

闇の楽園 (新潮文庫)

 

 

私が永江一石さんのツイートにムカついた本当の理由

こんにちは、最近は会津の片隅で穏やかに暮らしているおのにちです。
でも久々にカチーンとくるツイートが回ってきたので少し書かせて頂きます。

この話、この人はそういう人だから取り合わない方がいいですよ、的な忠告もありしばらく寝かせておいたのです。検索してみたらなるほどなるほどー、みたいな感じだったし。

こうした人たちは良い方向でも悪い方向でも、討論を巻き起こすことで知名度を高めているのでしょう。 だから悪い方向への言葉は拡散せず、悪性インフルエンサーの手助けをしてはいけない、という意見も分かる。

だから、私もしばらく寝かせておいたのですが…寝かせても結局怒りは収まらず、書かずにはいられないので書かせて頂きます。

今更この人を突き上げるのが周回遅れなのは分かってますが、私は知らなかったし、本気でこの話にいいね!やリツイートをしているフォロワーさんも居る。
またフェイスブック界隈では未だに本気で信じている人も多いようですので、定期的にこうした記事を上げることも大切だろう、と解釈しました。

構わないこと、餌を上げないことが正しいと分かっていても、お利口ではいられない時もある。 結局のところ私はバカちんなのです、だからこそブログなんてしち面倒くさいモノを書いているのですからして!(開き直った)

 

前置き長いね。
さて、私がムカついた永江一石さんの呟きはこちら。

 

 

 

『正しさ』よりも言葉の向き

 

さて、永江一石さんの呟きは、「私にとって」はムカつきます。
けれどもそれは彼の言葉が『間違っている』からではない(ツッコミどころは満載ですが)。

結局のところ人権や法を侵していない限り政治に正しい、なんて言葉は存在しないと思っています。問題なのはその言葉がどのクラスタに向けて発せられているのか、ということ。

永江一石さんの呟きは、中流世帯(世帯所得210万~600万)の私にとってはムカつきます。しかしタワーマンションに住み子育てをするヤンエグ世帯(所得901万超え)にとっては自分たちが得をするプランとなる訳です。

 

後期高齢者なら全員が一割の自己負担額で医療が受けられる、と思われがちですが実は違います。後期高齢、つまり75歳になっても現役並みの所得(課税所得145万円以上)を維持している人達は三割負担。

つまり年を取っても株や投資で所得を維持できる高所得層は一割負担が廃止されても痛くも痒くも無いのです、元々三割なのだから。

自分たちとは関係のない低所得層の高齢者の一割負担を廃止して、そのお金を子ども用品の税率軽減に充てれば、所得関係なしに現在の自分たちが得をする、未来の自分たちの負担は変わらない。

永江さんが「お金のない高齢層は高度治療は受けられなくなっても仕方ない」と言うのは『その結果自分が得をするから』です。
それは当たり前の考え方だし、正しいと思う。

 

なお、永江さんが言った子どもの医療費無償化は確かに良い政策だけど、高齢者の医療費なんてところから無理に財源を引っ張ってこなくても、もうすぐ全国で実現するはずです。

理由は平成30年から、独自で子どもの医療費助成を実施する市町村に対して、国が行っていた国庫負担金の減額調整(地単カット)という足を引っ張るクソシステムが廃止されるから。

30年以降は無償化の年齢拡大を行う自治体が増えると思う。
こういうもうじき実現するであろう良策を、関係のない高齢者医療の負担率(細かいこと言わせて貰うと負担率ってどっちのつもりで話してる?自己負担限度額、負担割合?それとも両方?高度治療といい、造語で話すな通じねぇ)とセット販売して子育て世代の同意を得ようとするやり方は非常にコスいんでやめて下さい。

 

さて、永江さん及び彼と所得の同じクラスタが彼の意見を支持するのは分かります。
単純に自分が得をするから、です。

だけど現在の生活が一杯いっぱいであり、いつ低所得者層に落ち込んでもおかしくない私は断固として支持しない、出来ない。

それは金持ち貧乏関係なく子どものためという名目でバラまかれるお金が、未来の貧乏な私のための医療費から引っこ抜かれてくるお金だからです。

現行の医療制度に問題がない、とは絶対に言えない。不満なら山のようにある。
だけど、結局のところ現行の医療制度の問題点って、所得じゃなく年齢という区分で区切ってしまっていることだと思う。

年齢だけで差別され、70歳未満の低所得者の負担が大きいから不公平感が強まる。
でもその不公平は貧困高齢層から生じる問題じゃない。

若年層の所得が600万超えの世帯の自己負担限度額は167,400円。 901万を超える世帯は252,600円。ところが70歳を超えると具体的な金額は消え、現役並み所得者という曖昧な区切りになり、限度額も入院ひと月80.100円とガクッと下がる。

いくらなんでも、年齢で優遇しすぎじゃない?
医療費をきちんと負担して頂くなら、貧乏人からじゃなく高所得の高齢者層からじゃん。

そもそも、高齢者だけを優遇しているから不満が高まった。
今度は子持ちだけを優遇してどうする。新たな不満を生むだけじゃねぇか。

人生を百年で考えるなら、子育て期も高齢期も長い人生の中の一時にしかすぎない。
これからの時代は世代ではなく、所得で考えていってほしい。

『申し訳ないけどお金のない層は高度治療は受けられなくても仕方ない』ではない。
申し訳ないけどお金のある層は高度医療を受けたいときには適正な医療費をお支払い頂きたい。 それは20代でも80代でも年齢に関係なく、だ。

そのかわり年齢に関係なく、低所得者層でも安心して病院に行けるように、お金のある層の負担額を上げた分、所得210万以下、70歳未満(多分今まで一番損をしていた人たち)の限度額(月57,600円)を、70歳以上の人たちの額(外来月14,000円)に少しでも近づけてほしい。

年齢に関わらず、低所得者層の保障を守る事。
それは自分の未来のために、保険や貯蓄と同じくらい当たり前のリスク回避だと私は思う。

 

レミングスな私達

 

結局のところ、私が一番ムカついているのは永江一石さんの言葉じゃない。
彼の言葉にいいねを押して、リツイートを押して、永江さんをフォローしていない私の所まで届けてきた『君たち』に対してだ。

君がタワマンのてっぺんでいいね!を押すなら何も言わない。好きなだけフェイスブックに流すがいい。 それから私と同じように憤る人の存在も心強い。

本気で分からないのはいつもお金がないとか、非正規雇用の愚痴を呟いている、私と同じクラスタにいるはずの相互フォローの『君たち』がいいね!を、リツイートを押す理由だ。

私の知っている君たちは若くて貧乏だ。
日本の医療制度は未だ年齢に縛られていて、70歳未満の層、そして所得が210万以下の層に一番厳しい。
毎日忙しく働き、住民税もきちんと支払っている、そうやって真面目に非正規で頑張っている君たち。 君たちの怒りがお金を貯めこんで、優遇されているように見える高齢者に向かうのはよく分かる。

でもよく考えてみてくれ。
負担額が一割で優遇されているのは一般層と低所得層だ。
君たち、私たちがいるのはそのボーダーラインじゃないのか。

『貧困高齢層はきついけど自らにもその責任はある』なんて言葉になぜいいねを押すのだ。君がTwitterに上げた仕事終わりにかっこむ牛丼、ストロングゼロ。
永江さんが言う『自らの責任』とは、そのささやかな楽しみへ向けられた言葉じゃないのか。それは老後にツケを払わなければいけないほど罪深いことなのか。

 

現行の保険制度のすべてが素晴らしいとは、私も思わない。
制度や多くの法令が出来た当時は、後期高齢者は少数であり保護するべき立場であった。 今町を歩けば半数が高齢者、という時代を迎え、年齢での区分分けはもう時代にそぐわない。世代ではなく、所得で考えなくてはいけない時代が来たのだと思っている。

でも日本の医療制度は低所得者層を見捨てない。
それは日本の、国民皆保険制度の一番大切な屋台骨であり長所だと、私は信じている。
だから誰かを見捨てるなんて言葉に、決していいね!は押さない。

 

第二次ベビーブームの末期に生まれ、就職氷河期に育って、繁殖期を終えたら後は働けるだけ働いてね、なんて言われる私達はなんてレミングス?みたいな気分に陥るときもある。でも大人しく海に落ちてなんかやらない。

だから私は声を上げるし、群れるし、最後まで抗う。
そして海に落ちる私の最後の網が『低所得者層を救う政策である』と信じているから、貧困層の切り捨てには断固としてNO!と言い続けるだろう。

 

それじゃあ、私とTwitterという細い縁で繋がっている、未だ若いあなたは?
忙しい仕事を終えて、吉野家で慌ただしい夕飯をかっ込みながら、永江一石さんの「お金のない高齢層は仕方がない」なんて言葉にリツイートを押したあなたは何を考えていたの?どこにいたの?

Facebookの華やかさに誤魔化されないで。有名人と繋がれば何かが変わるなんて思わないで。レミングスのように高く首を伸ばして、つま先を上げて、自分の群れを、自分がほんとうにいる場所を、もう一度確かめて。自分のいいね!が自分を海に落としてしまわないか、もう少しだけ考えてみて。

 

これは毛並みの悪い一匹のレミングスからの、精一杯の言葉なのです。

 

 

入門 長寿[後期高齢者]医療制度

入門 長寿[後期高齢者]医療制度

 

 

金曜日は愉し

金曜日はやっぱり楽しい。朝から終業後のことを考えてしまう。

今日は午後から寒波が、なんて言っていたから早く帰ってお家であったかいごはんを食べよう。

最近ホルモンが話題だから、今夜はホルモン鍋にしようかな。

タイムリーかつ暖まる、最強メニューかも知れない。 しかも鍋なら家を焼かずに済むもんね。

まさか平成の世にリアル『焼肉やいても家焼くな』を見るとは思わなかったが。 今こそ晩餐館CMの出番だと思うのだが、さすがに不謹慎だろうか。

 

なお、今宵は40代なら知っている懐ゲー『ドルアーガの塔』がこの現代に、しかも無料アプリで蘇ったのでそれを楽しむ予定である。

この地味なゲームが

ドルアーガの塔

 

2017年にはこうなる。

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頭がどうかしているとしか思えない素晴らしさなので、一度は遊ばねばと既にダウンロード済み。準備は万端、晩餐館である。

遊びたい人のためにリンク貼った方がいいのかな?と思ったが探すのめんどいしまぁいいや(ゲームアフィやってないし)。興味のある人は各自ドルアーガの塔で検索してください。

 

そんな訳で今日はもつ鍋を食べた後にドルアーガで遊ぶ、楽しい金曜日になる予定。

しかし新旧のドルアーガを比較したい、と思ったのだが私の中のドルアーガの記憶がなかなか取り戻せない。 上の階に行くにつれて制限時間がシビアになる、とは覚えているのだが。 もしかしたら私のカイは未だに塔のてっぺんで囚われているのかも知れない。

さてさて、そんな訳で今日はとっとと帰りたい!と思いながらお昼休みの職場から投稿していた訳なんですが。

ただいまスマホのカレンダー機能から「明日は子どもの柔道大会。要お弁当、7時出発」という通知が来て超ブルーになっています…早起きしなきゃいけない休暇は果たして休みと言えるのか言えるのか⁈

と、とにかく金曜日は素晴らしいって感じですよね…それではまた。