おのにち

おのにちはいつかみたにっち

亡霊が追いかけて来る夜に

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夜更けに下の子どもが短く泣いて、電気を煌々と付けてトイレに走り、何事も無かったように電気を消してまた寝入ってしまった。

思わぬ時間に起こされた私は、泣き声から引き出された記憶の余りの生々しさに目を見開いて天井を眺めていた。

 

上の子が五歳の時に、私は二人目の子どもを身籠った。
妊婦となった私がまずしたことは、上の子と別の布団で眠ることだった。

当時の息子はいつも私と同じ布団で寝ていた。甘えん坊で、一人で眠ることがまだ苦手だった。夜な夜な繰り出されるキック、寝返りも打てない狭い布団に辟易しながらも、子どもと眠ることがそれまでの私は好きだった。  

ところが妊娠と共に全ては変わってしまう。
二人目を身籠って、つわりが始まったとたん、子どもからも夫からも、とにかく触られることが嫌になってしまった。

ホルモンのバランスの問題だと産婦人科では言われた。

 

キタキツネの親は時が来ると守り育てた子ギツネに本気で噛み付き、テリトリーから追い払うという。それは近親交配を避け、次の子どもを産む準備にとりかかるために必要な自然のおきてだ。子離れはキタキツネの親の愛情を込めた成長の儀式だ、なんてセンチメンタルな話も読んだけれど、愛情が突然嫌悪に変わる経験をした私はキタキツネの追い払いも単なる生理的な問題なのではないか、と思ったりする。

 

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とにかく、どうしようもなく嫌なのだ。
私にまとわりつくものを全て追い払ってしまいたい、牙を剥きだし威嚇したい、そんな気持ちが湧く瞬間があるのだ。

 

触られるのが嫌になったと言っても、私は野生動物ではない。
この感情が自分の本当の心理や道理とは違う、理屈の通用しない所から来たものだとは分かっているし、表に出さない努力も出来る。

でも心の中で巻き起こる感情は制御できない。
夫は大人だから良い。話し合えばきちんと分かってくれる。

問題は子どもだ。
自分を愛し慕ってくれる子どもに、触らないで、なんて言えるだろうか。

でも行き場のない嫌悪が湧く瞬間がある。夜更けは特にそうだった。
私は子どもに、君は寝相が悪いからお腹の赤ちゃんを蹴っ飛ばしてしまうかも知れない、だから今日から隣の布団で寝て欲しい、と頼んだ。

それは決して嘘ではない。
子どもは本当に寝相が悪かったし、お腹の子どもの為にも少し離れて安眠することが必要だった。

でも心の奥底にあったのは、触れられたくない、という道理の通用しない嫌悪だった。

 

初めて別の布団で眠った夜、子どもはとても健気だった。
お気に入りのぬいぐるみをたくさん布団に入れて、お兄ちゃんだから頑張ると言った。片手を繋いで、もう一つの手は布団の上から優しくリズムを刻んでやって、ようやく彼は眠りについた。

それでも夜更けに短く泣いた。
ヒィン、と小さく仔馬のような、悲鳴のような声だった。

 

涙が出て堪らなかった。

どうして私は自分の子どもを抱きしめてあげられないのだろう。
自分から一人で寝たいと言い出すまで、待ってあげたかった。

今感じている嫌悪はホルモンのバランスの崩れから生じるもので、どうしようもないことだと言われていた。この涙もまた、そこから生じるものだと頭では分かっていた。

それでも、この感情の波は全ての母親に現れることではない。
私は情が薄いのだろうか、母親失格なのだろうか。

勿論、外に溢れ出ようとする感情を抑え込む事は出来る。
でも、感じることをやめることは出来ない。
言葉にしなければ誰も気がつかない思い。

それでも自分の子どもに触られることが気持ち悪い、と感じてしまう私を、私自身が許せなかった。

 

今にして思えば、それはありふれた成長の儀式だった。
子どもは三日もすれば一人で眠れるようになったし、不安を見せる様子もなかった。

ただ私の心が不安定だったから、強く自分を責めてしまい、結果心に刻まれただけの話だ。

下の子どもの泣き声があの夜の声と似ていて、感情が引き戻されてしまったのだろう。


全ては終わった話だ。
二人の子どもたちはそれぞれの布団で眠っている。
今更一緒に寝ようだなんて言ったら気味悪がられる。自分の部屋で一人で眠るようになる日もじきだろう。

私の涙は罪悪感と繋がっている。
あの時の嫌悪感は自分の本当の感情ではなく、どうしようもないことだったと頭では分かってはいるのだけれど、それでも愛情が足りなかったのではないか、自分は冷たい人間なのではないか、と思考がどうどう巡りしてしまう。

親は無条件で子どもを愛し守るもの、という意識が根底に擦り込まれてしまっているから、それにそぐわなかった自分を今でも許せないのだろう。

 

私は私の思う『普通』の枠から外れてしまった私を許せなかった。

けれど『普通』のレールは思うより狭い。
もしも押さえても湧いてくるような衝動があって、それを思うことにさえ罪悪感を抱いてしまったら、どうやって生きていけばいいのだろう。

私の嫌悪は一時で消えた。
でももしも、本当に子どもが愛せなかったなら?
異性が愛せなかったなら?自分すら、愛せなかったなら?
そうしてその罪悪感が、真夜中の自分を追いかけてきたなら?

それは『影との戦い』でゲドが向き合った、自分自身の影のようだ。

 

フラッシュバックなんて言葉のない時代から、人々は記憶の中から蘇り自分を責める亡霊の姿を描き出してきた。

マクベスの前に現れる亡霊は彼の罪悪感が生み出したものだろう。
ディケンズの『クリスマスキャロル』でスクルージの前に現れる過去の亡霊なんてフラッシュバックそのものだ。

スクルージは辛い過去をもう一度見つめ直し、現在を受け止め、おぞましい未来を思い浮かべ、ようやく新しい朝を迎えた。なんて長い夜だろう。

でも。
私は思ったりする。

罪深いスクルージのままで生きることは、そんなにも許されない事なのか、と。

 お休みなさいスクルージさん。

いつかあなたも私も、過去の亡霊と折り合えますように。
どうか一つになれますように。

 

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

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