おのにち

おのにちはいつかみたにっち

ともだち幻影

スポンサーリンク

年明けに、学生時代の友人たちと久々に会った。
いわゆる新年会、という奴である。

友達は女子会だー!なんて騒いでいたけれど私はしっ、と指を立てて辺りを伺いたくなってしまった。40過ぎて自分に子、を付けたりカワイイイイ、なんて言っているとどこかから鉄槌が下りそうで背筋が冷えるのである。

しかし考えたら現実世界で自分をなんと呼称しようが、どんなイタイ服を着ようがそんなもん個人の自由。聞こえよがしに嫌味を言う度胸のある嫌われ役は滅多に現れない。私はネットに毒されすぎなのね…としみじみ現実を噛みしめた。

さて、昔馴染みとの新年会は、なんだかやたら楽しかった。
女子高生に戻ったかのように、とにかくきゃっきゃうふふしてしまった。
女が寄り集まれば子どもに返る。女子会という呼称は、結局正しかったのである。

 

リアルでは自分が話すより、人の話を聞く方が好きな性質だ。
でもそういう性格だと、私に興味はないし趣味も合わないけれど、とにかく自分の話を聞いて欲しい、褒められたい人ばかりが集まってきて少し困ったりもする。

おしゃべりな人は好きだけれど、まるで興味の持てない話が延々と続くのはさすがに辛い。そんな時はあいづちをそっけなくしたり、その話は分からないな、とやんわり断る。

私を一人の人間として認めてくれている人相手ならそれで終わる話なのだけれど、世の中にはこちらが優しく接するだけでなぜか他人を奴隷扱いする権利を手に入れたかのようにつけ上がるバカが存在するのでうんざりする。

丁重に、あなたとは好きなものが違いすぎるから、と距離を置いたのになぜムッとされなくてはいけないのか。私はつまらない話を聞いてあげた、と思っているけれど相手はつまらない人間に面白い話をしてあげた、と思っているのだろう。

やはり何事も一方通行は良くない。私は相手が気持ちよく話せるように、と気を使ってしまいがちである。しかしいくら気を使おうがサービス料は発生しない。今後は上から目線で来る人間のつまらない話には笑顔で辛辣なツッコミを入れて、向こうからスムーズに嫌われたいと思う。

 

一方昔からの女友達は、いくつになっても私に興味を持っていてくれて嬉しい。

歯科助手のTちゃんは、今治療に来ている女子高生の、瞼を閉じた時の瞼の形があなたと瓜二つだから見るたびにあなたを思い出して懐かしい、と力説してくれた。

私はまだ私の閉じた瞼の形を知らないので(だって見えない)、カーブがこう!と言われてもいまいちピンと来ないしマニアックすぎて軽く引くのだが気持ちは嬉しい。

そんな話をしていたらもう一人の友人も、最終電車で駅に着いて、前を歩く女子高生のコートが私が高校の時着ていたコートと同じ色形で、やたら速足な所も一緒で、追い越して顔を見たかったけど追いつけなかった、なんて言われた。

そんな所にいるはずもない私を、世界のどこかで探してくれる話を聞くとなんだか嬉しくなる。

私もよく友達の幻を見てしまう。
視界の端で翻る、あの子の好きなプリント柄のスカート。
すれ違った人から香る、彼女のお気に入りの香水。
階段の先から反響してくる、あなたによく似た話し声。

そうやってここにはいない私/あなたを思うたびに世界に残すものなんて幻だけで充分なんじゃないか、と思ってしまう。

名声でも、血を分けた子でもなく。
私が死んだ後も、あの子の声が聞こえた気がして、と立ち止まり振り返ってくれる誰かが一人でもいたなら。エコーのように、ほんの一瞬誰かの心に反響したなら。
それだけで生きる意味には充分な気がする。

 

とはいえその夜現実を生きる私たちに必要だったのは、生ビールと酎ハイとおつまみ各種、だったのだけれど。

また会いたい、けれど仕事やら家庭やら義実家やら、いわゆる小町なトラブルが私たちを遠ざける。でも夜の先にはきっとあなたによく似た幻がいる。

だから大丈夫、と私は手を振った。

 

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)