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『働く』私はそんなに偉い?

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山崎ナオコーラさんのインタビュー記事を読んで、ああああ、分かりすぎる!と唸ってしまった。

 

仕事や育児と“趣味”の間で線引きをしたくない──山崎ナオコーラさんと「働く」との距離 - はたらく気分を転換させる|女性の深呼吸マガジン「りっすん」

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昔は趣味というものをどこか軽視していたんだと思うんですけど、だんだん考えが変わってきて、それを反省しまして……。

 そもそも、働いている人だけが社会人だっていう考え方は違うんじゃないか、お金を稼いでいる人も趣味に没頭している人も、社会参加をしていることに変わりはないんじゃないかと思うようになってきたんです。

  

分かる、分かりすぎる。そして分かりみが過ぎて胸が痛い。

 

ものこごろついてこの方、私の人生はやるべき事、という義務感に支配されている気がする。

 幼稚園にも学校にも行くべきで、仕事にも行くべきで、そうした義務を果たしてようやく、心置きなくゴロゴロ出来る。

休日も同様で、朝起きられずにゴロゴロしてしまう日もあるけれど、掃除洗濯布団干しなどやるべき家事を済ませてからゴロゴロの方が充足感を得られる…ような気がする。

 

そうした習性が身に付いているからこそ、私たちは健康で文化的な生活が送れている…のかも知れないのだけれど。だけれども。

 

1歳未満の乳児を抱えて、日々寝不足だった頃でさえ、社会から取り残されていくのではという焦りや、何も成し遂げられていないのではないかというような罪悪感があった。

今になって振り返れば、乳児を無事に育てるだけでも立派な仕事だったはずなのに。

 

家事や育児を仕事とは思えず、どこか世間に後ろめたい思いを感じてしまう。

ナオコーラさんもかつてそう感じていたように、それは私だけが抱える歪みではないと思うのだ。

 

働かないことへの後ろめたさは主婦だけでなく、ひきこもりと呼ばれる人たちの事も強烈に蝕んでいるのではないか?

昔読んだニャートさんの、過酷なタイトルの記事が浮かんでくる。

 

ひきこもりを殺さないで - ニャートnyaaat.hatenablog.com

 

父が、ひきこもった私を「恥ずかしい」と思うタイプの親だったら、殺されていてもおかしくなかった。

この言葉は元事務次官の父親がひきこもりの息子を殺害した事件を受けて書かれている。

ひきこもりに掛かるプレッシャーは主婦のそれより、明らかに深刻である。

それぞれ何かしらの事情があって仕事を辞め、自宅でゆっくり休養したって良いはずなのに、今度は家にいる事への罪悪感から鬱になってしまうという悪循環もよく聞く話だ。

ナオコーラさんの言う通り、趣味も消費も立派な社会参加だと思えれば気が楽になるのだけれど。

 

ただ、こういうのって、『本人の気の持ちよう』だけではなかなか改善しない気もして…

 私自身、今度は働く側の立場にいる訳だけれど、働けば今度は気が楽になるのかというと実はそうでもなくて。

自分が望んで、そしてもちろん家計のために働いているのだけれど、忙しすぎて心の余裕が無くなってくると今度は他人を羨んでしまうこともある。

働いてなくてズルい!とかさぁ…

我ながら、なんて歪んだ嫌らしい考え方!

働くか、働かないかなんてあくまで個人の問題で、働く人が一人増えたって私の仕事が楽になる訳でもないのに。

 後はたまに訪れる『働く私、社会に役立ってる貢献してる!』とドヤリたくなる魂もなんとか鎮めたい。

忙しかったりして、アドレナリン出っ放しの時はTwitterで偉そうなこと呟きがちだよねこっぱずかしいイィ!

 

働いてても、そうじゃなくても。

私たちはみんな社会に参加しているんだ、属しているんだ、って。
もっと気楽に思えるようになれたらなぁ、と。

そうしたら私のイライラやドヤリティも減っていくはずなんで。
今は働いている人だって、その状況が一生続く訳じゃないと思うんで。

 

…とりあえず、あらぶった己は今すぐ地鎮祭したいっす。
5m下に埋めといて!どうか一生掘り起こさないで!

 

 

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