恒川光太郎さんの「無貌の神」を読みました。
6編の物語が詰まった、短編集。
帯には大人のための暗黒童話、というキャッチコピーが。
童話というより、神話や伝承を思い出す、不思議な味わいの短編集でした。
表題作「無貌の神」はタイトル通り、顔のない神が住む村の話。
戦火の渦から逃げるうちに、霧のむこうの集落にたどり着いた主人公。
村はかやぶき屋根の、粗末な家が数軒あるだけの場所。
仕事はなく義務もなく、人々はただ獣のように川の水を飲み、魚や山菜を食べて、生き延びているだけ。お互いに無関心で無気力で、争いすら怒らない世界。
村の古寺にはのっぺらぼうの神が坐していて、暖かな光を放っている。
神は病や傷を癒す力を持っていて、傷を負った獣や人は神のそばで休むのだった。
子どもの頃にこの村に迷い込み、アンナという女性に育てられた主人公にとって、見知った世界はここだけ。
村から外に出ていくためには、深い谷にかかった赤い橋を渡るしかない。
村を出て、もといた場所に帰れ、というアンナの言葉が主人公には届かない。
雨露をしのぐ屋根があり、命を繋ぐ食べ物がある、病や怪我で死ぬこともない場所をなぜ離れたくてはいけないのだ、と思ってしまう。
しかし後にアンナが神を殺し、新しい神に生まれ変わったことで主人公の心情は少しずつ変わって行く。村の『神』の正体は人間だったのだ。
神を殺したものが新しい神になる。
死んだ神の肉は、光る餅のようでたまらなく美味しそうだ。
思わず手を伸ばして食べてしまった主人公は涙を流す。
神の肉は、慈愛の味、希望と優しさに満ちた味がしたから。
生まれ変わった神は、最初は村人の怪我を癒してくれる存在だ。
だが、しばらくすると周期的に人を喰らうようになる。
そうするとまた新たな村人が神に挑み、倒し、神になりかわる。
村人は神の死肉を喰らい、いっときの幸せに浸る。
恒川光太郎さんの長編「金色機械」を思い出した。
金色機械は江戸時代を舞台にしながらもSF、という不思議な世界観の物語。
『金色機械』はタイトル通り機械でもあり、菩薩でもある。
私たちの道理を超えた機械は、神のように崇められる。
「無貌の神」でもそうだ。主人公の優しい母だった筈のアンナは、道理の通じない光輝く『神』になってしまった。いずれ人を喰らう、時間制限つきの神様に。
神話や伝説の中の神様は時に優しく慈悲深く、時に冷たく無慈悲に見える。
彼らは私たちの思う道理や摂理を超えて、もっと永い悠久のスパンで世界を見ているのではないか、そこでは人の命の価値なんて虚しいものなのではないか、と思った。
なぜ神を追放しないのか。村に迷い込んできた若者が、主人公に問う。
彼らは神の肉を食べてしまったことで村に閉じ込められてしまった。
もう二人の目に赤い橋は見えない。
若者は神から解放される方法を思いつくのだけれど、村人たちは反対する。
「理不尽なことでもな、長く従っていると、それが当たり前になって、従わんとならんような気がしてくるもんなんだろうな。いつのまにかそれが決まりになってしまってな。変えようなんてもう、怖いし、面倒だし、これまでの自分を否定してしまうし、で、却下だ」
さて、主人公たちは虚無感で埋め尽くされた村を出て、もといた世界に帰れるのだろうか?続きは是非本を読んで欲しい。
他にも12歳の時に神隠しに会い、家に帰るために七十七人の人を斬らねばいけない少女フジの半生を描いた「死神と旅する女」、巨大な塀に囲まれた町に閉じ込められ、記憶もおぼろな中で逃げ惑う「十二月の悪魔」も面白かった。
一番印象的だったのはラストの「カイムルとラートリー」。
人の言葉を話せる黒い虎の子カイムルと、先見の力を持つ皇女ラートリーの物語。
物語の語り口は童話のように優しいけれど、二人を取り巻く世界は残酷で恐ろしい。
それでも二人はいつも共に、風のように駆けていく。
自由になりなさい。
それはカイムルの夢の中で、カイムルの母が言う言葉。
飼いならされて、見世物としての暮らしを続ける中でも、カイムルの胸には自由に駆け回りたい、という憧れがあった。
カイムルの母の言葉は「無貌の神」アンナの言葉とも重なる。
吊橋を渡っていけ。その先にあるのは自由だから。
理不尽な神が統べる世界で、それでも前を向いて生きていこうとあがく人達の物語。
ハッピーエンドばかりじゃないけれど、希望が残る後味は『神様の肉』に似ているのかな、と思いました。