おのにち

おのにちはいつかみたにっち

全て打ち消して、私を

今年も3月11日がやって来ました。
あの日の私はたわむ家から飛び出して、赤子と抱き合って蹲っていました。

7年経っても未だに生々しくて、あまり詳細な話は書けないのですが、ほんの少しだけ、私があの日から学んだことを書いていきたいと思います。

 

最近都心部に住む人から電車が止まって帰宅するのに苦労した話、その後の計画停電の大変さを聞きました。

会津の山あいに住む私の震災は、身に迫ったものではないけれどそこはかとなく怖い、という難しいものでした。

私の家は無事で、停電も無く、流通が一時期不便になったというくらいの浅い被害でしたが、あの頃散々語られていた『目には見えないもの』が怖かったのです。

震災直後、福島県は様々なうわさで覆われました。
雨にあたることは厳禁だと言われていましたし、保育所や学校ではしばらくの間、外遊びや換気を控えていました。

比較的安全だと言われていた会津地方でも、幼い子供を連れて実家へ帰った人の噂を聞きました。家や仕事、お金のことは全て後回しにして、子どもの健康のために避難することが本当の親の愛であり美徳である、みたいな考え方が幅を利かせていた頃でした。

あの頃夫を残して実家に帰り、そのまま戻る戻らないで揉めた末に離婚した夫婦の話もよく聞きました。7年が過ぎて、彼女たちは今何を思っているのでしょうか?

あの頃避難をした人の話を聞いてみたいのだけれど、ネット越しでもあまり見かけません。浜の方から避難してきた人と友達になりましたが、避難の話や残してきた家の話、面倒な手続きの愚痴は同じ立場の人間か、信頼出来る人にしかしない、と言っていました。

避難を特権だと受け止めて、やっかみのような言葉をかける人も一定数いるのだそうです。県内は少しはマシだけれど、他県に行った人からはカミングアウトなんてするもんじゃないという言葉ばかりが聞こえてくると。

避難した人達の言葉があまり聞こえてこないのは、未だにそういう怖さが残っているからでしょうか。

いつか全てが落ち着いて、何もかも過去の話として語れる明日が来たらいい。
廃炉はまだまだ先になりそうですが、そんな風に感じています。

 

私自身も、震災直後はほんの少しだけ『ここから逃げ出すこと』を想像しました。
当時私の夫は都心部に単身赴任中で、私は保育園児の長男と乳児の次男との3人暮らしの身の上でした。

震災直後は一時的にメールが繋がり、互いの生存確認だけは出来ました。
しかしその後は電話もメールも繋がらないため夫に相談することも出来ず、本当にここにいて大丈夫なのか?と思い悩んだこともありました。こんな時だからこそ、家族は一緒にいなくてはいけないのではないか、とも。

とはいえ現実的にはガソリンが不足していて、電車もどこまで行けるか分かりませんでした。3月のまだ肌寒い時期に、幼児を二人抱えて旅に出るのは現実的ではありません。

流通が落ち着くまで...と数日待っているうちに具体的な情報が出てきて、夫とも無事連絡がつき、話し合った末に私は会津で待つことを決めました。
私は専業主婦で、子どもたちも未就学児でしたから、夫の寮に行くことも出来ました。
それをためらったのは、福島ナンバーの車が宿泊を拒否された、というニュースを見たからです。

もしも本当に誰かから避けられたなら耐えられない、と私はあの頃県外に出ることを恐れてしまいました。

あの当時、私自身にも目には見えないものが付着しているかもしれないという恐怖があったのだと思います。それが誰かに迷惑をかけてしまうのかも知れない、という思い込みも。

だからこそ私はネットで見かけただけの迫害を恐れた。
きちんとした知識を持たず、迫害する側にも正しさがあるのかも知れない、と思ってしまったから。

差別はされる側の方にも自分を責める壁を作ってしまう物なのですね。
あの時初めて知りました。

放射性物質、人種、ジェンダー。
当たり前のように、あまりにも声高に差別されているとほんの一瞬だけ、自分が悪いのではないかと折れてしまう事があります。
きっと全てを救ってくれるのはただ真実を知ることです。

他者の声は止められないけれど、私自身に咎も、汚染も、違いもないのだと、そう本心から信じることが出来れば誰かの声は怖くなくなります。

私は私の中の恐怖を打ち消すために食品の放射能基準値を測るアルバイトをやりました。
グルグルグルグル、様々な食品を遠心分離器にかけて、全国(とはいえ京都どまりでしたが)のデータと見比べて、ようやく私の中の安心安全は確立されていきました。

そうやって検査した食品でも『福島産しかないの?福島にお金を落としたいけどこれじゃ無理よ、気をつかいなさい…』と良心的な顔で語る人もいましたが。
知らない言葉を語る人は愚かに見える、と学べて良かったです。

 

3月11日が来るたびに、色んな人のあの日の思い出を聞く機会が増えました。
現在の職場で、みんなが必死に棚を押さえたり、安否確認をした話を聞いて、こういう時仲間がいるというのは安心できるものなのだな、と羨ましく思えました。

私はあの頃そうしたコミュニティに属していなかったので、余計寂しくて心許なかったのでしょう。

 

いわきから、深い森の奥の小さなコテージに避難した話も聞きました。
最初は夢のような別荘暮らしだと感じたそうです。
買い物など少しは不便もあったけれど、仕事も学校も休んでいて、時間なら無限にある。

人気のない静かな夏の山荘で過ごす、ひと時のバカンス。
けれども秋が深まるにつれて、寒さと共に寂しさが押し寄せて来たのだそうです。

 

 結局避難所代わりのコテージ暮らしを辞め、市内にアパートを借り、みんなで仕事を始め、子どもを高校に通わせて。そうやって慌ただしい普通の暮らしを取り戻したら寂しさが一気に消えたから、普通の人間には隠居暮らしなんて無理なんだわ、と彼女は明るく笑っていました。

 

津波のことを、ほんの一瞬だけ救いだと思った、という人もいました。
絶対に怒られるし、ひどい話だと分かっているから地元の人間には言えないけれど、その頃死にたくてたまらなかったその人は高い波を見てこれでみんなと一緒に死ねる、と安堵を覚えてしまったのだそうです。

波は自分の失敗だらけの人生を打ち消してくれる救い。
パソコンも、見られたくない様々なものも、自分自身の身体でさえも、すべて遠い所へ持ち去ってくれる…と思ったのにただ無性に怖くて、とにかく高いところへ逃げてしまった、と言っていました。

全てを打ち消してほしい気持ち。
それはほんの少しだけ私にも理解出来て、理解出来ることが怖かったです。

 

そうやって色んな人の3月11日の話を聞くことは、あの日のうずくまっていた私を薄れさせてくれる気がします。

私は私であるけれど、けして一人ではない。
色んな人の話を聞くたびに、私個人の記憶は薄まって、様々な物語と混じりあっていきます。

そうやっていつか、もっとちゃんと昇華した「3月11日の話」が書き残せたらいいな、と思います。

今日はまだごちゃごちゃだし長いのですが、最後まで読んで頂けたなら幸いです。
あなたの今日の話も、いつか聞かせて下さいね、それではまた。

加藤秀行『シェア』-曖昧だから優しい繋がり

加藤秀行さんの『シェア』を読みました。

コンサル会社勤務、現在はバンコク在住という著者の経歴が上手く生かされていて、とっても「今」な物語でした。

 

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物語のあらすじ

 

『シェア』は表題作の「シェア」、「サバイブ」という2編の中短編が収録された物語。なお「サバイブ」は文藝界新人賞受賞作だそうです。

「シェア」の主人公はバツイチの中年女性ミワ。
元ダンナはネット系ベンチャー企業の社長。彼女自身も元はその会社のデザイナーだった。結婚するときに会社の株を指輪代わりに貰い、離婚した今は株を買い戻したい、とダンナから定期的に迫られている。

今はコードを書きながら、ベトナム人の若い友人ミーちゃんと、賃貸型マンションのほぼワンフロアを貸し切って、外国人向けの民泊ビジネスを行っているミワ。

ミワと、彼女の目を通した友人ミーの逞しさ、輝かしさ。
それからミワが抱える寂しさの根底がテーマの物語だ。

 下のリンクから冒頭部分が読めるので、興味を持たれた方は是非。
出だしだけでも現代感が詰まっているのが感じられると思う。

 

ch.nicovideo.jp

 

もう一編、「サバイブ」は男友達の住む3LDKに転がり込み、『主夫』をしているダイスケが主人公。彼は外資系で働く二人の友人の家で家事をしながら、クラフトビールの店でアルバイトをしている。

6歳の時から12年間、柔道だけに打ち込んで生きてきたダイスケ。
高校を出て形にならなかった柔道を諦め、勉学に打ち込む気にも他の道を探す気にもなれなかった彼は、今を「ちょっとした息抜き」と捉えながら生きている。

 

動かない、けれど揺れている物語

 

二編とも文章は自然で読みやすい。けれども起承転結のある物語ではない。

ミワは株を手放すことを迷い続けたまま(ミワにとっての株は単なる資産ではなく繋がりや支えなのかもしれない)ミーと一緒にいる。

ダイスケは友人の元から彼女の部屋へと、転がり込む場所を替えるけれどその生き方は変わらない。

ミワとダイスケ。二人とも迷いながら、揺れながら日々を生きている。
大きな起伏のない物語だけれど、二人の瑞々しい感情の動きが面白くて、一気読みしてしまった。

物語の中ではダイスケの友人、亮介の話が一番印象的だった。
外資コンサルで働き、勉強熱心で優秀な亮介。
けれども誰かと結婚して一緒に暮らす未来は想像できない。誰かの人生の責任を取る自信がない。

そんな彼にとってダイスケだけが、優秀な自分になるために置き忘れてしまった何かを思い出させてくれる、必要な存在だった。

ミワにとってのミーもそういう存在なのだと思う。
家族ではない、責任を取る必要はない。それでもその輝かしさに目を細めたり、昔を懐かしむことは出来る。

法で縛られていないからこその、緩くて曖昧な繋がり。
こういう『縁』に、現代人は憧れるのかなぁ…なんて思いました。

以前紹介した宮内悠介さんの『カブールの園』に少し雰囲気が似てるかな?
でもあちらのテーマは人間のアイデンティティ、『シェア』は繋がりだと思います。

 

yutoma233.hatenablog.com

  

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どちらの本もグローバルな世界観で描かれているので、今実際に海外で暮らすカンドーさんid:keisolutionsにも是非読んでもらって、彼女の感じる世界の空気感が物語に表れているのかどうか、聞いてみたいですね。
リクエストされている『定番含む、海外に持って行ってほしい小説べスト10』はまた今度書きます…容疑者Xクラスの名作ってハードル高いんじゃボケー!

それではまた。

大人を超えて、上手に老成したいですシロクマ先生。

シロクマ先生のブログが好きで、よく読んでいる。

先生の新著が『「若者」をやめて「大人」を始める』というタイトルだからか、今興味の向いているテーマがそこなのか、最近は『大人』をテーマに書かれた記事が続いている。

 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 

大人とはなんなのか、なぜ現代は大人になり難い時代なのか。
そんなモラトリアム期間の延長が現在のシロクマ先生のテーマなのだろう…と思うのだけれど、どうも私にはその話題が上手く共有できない。

 

大人になるとはどういうことか?

 

私は『おらあおらでひとりいぐも』と本心から思えるようになったら大人だ、と思っている。現実的な話をすれば、経済的に自立する、自分の生計を自分で立てられるようになったら、年齢に関わらず大人と呼べるのではないか。

私はかつて、早く自立したくてたまらない子どもだった。
実家にいた頃は母親が営む自営業の手伝い、この季節はいつも年末調整の書類作成と、無給の搾取が続いていた。私は75年生まれなのだけれど、我が家においては未だに戦前社会の丁稚奉公システムが生きていた、ということになる。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

早く社会に出て正当な対価を得たい、と思った私は、出来るだけ家賃の安いエリアで、出来るだけ給料の高い仕事、という夢もへったくれもない職業の選び方をして生きてきた。

おかげでモラトリアムにも、『本当の自分』なんて悩みとも無縁で、サクサク生き延びることが出来た。

モラトリアムは経済的に恵まれた者だけに許された楽園だ…なんて言ってしまったら、貧乏人の僻みが強すぎるだろうか。

 

職業と天賦の才

 

私は自分のやりたい事を考えず、立地と給与だけで職業を選び、それでもそれなりにステップアップして、現在まで働き続けている。

適職なんて深くは考えなかったし、今でもよく分からない。
どちらかというとコミュニケーションを必要とされる仕事が得意だけれど、コツコツ入力作業を続けるような地味で静かな仕事も好きだ。身体を動かす仕事は疲れるけれどダイエット要らずなので有難いと思っている。

中高時代、とにかく時給優先でアルバイトをしてきた経験が今の私の職業選びに結びついていると思う。

ドライブイン、旅館の仲居、葬儀屋、建設業…。
毎年様々な業種を体験してきた。
そこで学んだのは、どんな仕事でも一つくらいは面白さを見出せるし、最高に楽しい職場でも時には飽きるしうんざりする、ってことだ。

どんなに悩んで、自分の天職を見つけたとしても、趣味ではなく正当な報酬を貰える仕事をしているなら、毎日が楽しい、全てがやりがいに満ちているなんて人はいないと思う。

何かしら面倒くさいことはあるし、時には飽きる日もある。
それでも対価を貰うってそういう事だと思うから、お給料を貰ったら何をしよう、何を買おう…という妄想だけで充分乗り切れる。

私にとって仕事ってそういうものだ。
そういえば一つだけ仕事を決める際のルールがあった。

本当に好きなことだけは仕事にしない、だ。
本や、お酒に結びついていることだけは仕事にしないようにしよう、と心がけてきた。
仕事にした途端、純粋に楽しめなくなることだけは深く理解していたから。

それでも定年後はボランティアでいいから図書館を手伝いたい、みたいな細やかな願望はあるんだけど。ボランティアのスナックママもいいな…。多分お金が結びつかないなら純粋に楽しめる気がする。

 

さて、こうやって杜撰に職を選びながらも、心を病まずに済んだのは私に『天賦の才』が無かったから、だと思う。

少年マンガやRPGに出てくる、主人公だけが持つ特殊なスキル。
みんな一度はああいう『特別な才能』に憧れるけれど、アレって逆に言えば潰しの効かない、選ばれた庭園でしか咲けない希少なバラみたいなもんなのでは。

私は例えるならばどこででも咲いているオオイヌノフグリで。
でも地味なモブながら自分の繁殖力や適応力の高さ、小器用さには感謝しています。

私は資格も学歴も無くて、正直産休時にはこんな私が次の仕事を見つけることが出来るのか…とワナワナしていたのだけれど、なんでも好きになれてどんな職場にも自然と馴染めるモブスキル、小柄で優しそうに見える外見と親切に聞こえる声色があれば中身はともかく面接くらいは余裕で欺いていけるよな、と思ってます。
実際ガンガン日々欺いてますしありがとう!神に感謝を!

 

私の結石

 

優しそうな外見(美人とかそういうことじゃなくてミシュランマン的なモフモフさ)と優しそうな声色。

そんなスキルで生き抜いてきた私ですが、子どもと年寄りに優しい私のスペックは現代社会においては侮りやすさに繋がります。

私の大っ嫌いな、ボランティアと仕事の区別がきちんとついていない職場に誤って勤めてしまうと本当に最悪です。

勿論残業代もきちんと払わないような職場は一か月で見切りをつけるんだけど、そういう職場に限って(そういう職場だから?)なかなか辞めさせてくれません。

きちんとした対価も支払わないくせに、お客様とか社会のため、会社のみんなのために…なんて善意に訴えかけてきて、そんな気持ちが分からないあなたは人としてどーのこーの、なんてこっちを責めてきます。
せめて正当な対価と言う義務をこなしてから善意なんて言葉を口にしろやアホンダラ!

こういう職場に捕まると、だいだい旦那に愚痴ってしまいます。
そのとき夫がいつも言ってくれるのは『大丈夫?俺から言おうか?』という言葉。

 

…私だって分かっているのです、『私』だから侮られてゴネられるのだろうな、と言うことは。身長175cmでシベハス顔のダンナを脇に携えて、『辞めます』と言えば最初から揉めずに済むのでしょう。

でもね、それでもやっぱり嫌なんです、そうやって誰かの威を借りることは。

私は私の侮りやすさを自覚して、作為的に生きている。
だったらその作為が所以で起きたトラブルは自分でなんとかせにゃならん。
てめえのケツは自分で拭かなきゃ。

そういうのが大人だ、と思っているから言わなくちゃいけない時は本気でガッツンガッツン行きます。

私は私の嫌だ!を飲み込まないし、揉めようがなんだろうが戦う時は戦う。
そういう胡桃のような堅固なコアは、多分子どもの頃からありました。
今はどんどん大きくなって、私を支える芯になっています。

 

堅固を解きほぐすには?

 

はてさて、そんな訳で。
なんとかいち早くオトナになれたつもりで生きている私ですが、40過ぎて次のステップに悩んでいます。

自分は自分に与えられた義務をきちんと果たすことが出来る、と思うから私の中のコアは形成されて行きました。でも人は変わるじゃん?年は取るし、老化するじゃん?

今はまだ大丈夫ですけれど、ほんの少し体力が落ちた、物覚えが悪くなった、という自覚はあります。

だんだん老獪を覚えて、人に上手く甘えたり、頼ることが出来るようにならなくちゃいけないんじゃないか、と思うんですが…
私の中の堅固たるコアが邪魔をするんですよ!なんなんこの巨大な尿路結石!

若い頃の、つけ込み易い私を守るためには必要だった結石ですが、本当に人に甘えないと生きていけなくなる未来を思えば、今度はちょっとずつ溶かしていかないといけないのではないか…と悩んでいます。

何も出来ないのに意識だけは誰よりも高いお年寄り…なんて本当に扱い難いじゃないですか。敬遠されまくりじゃないっすか!

とはいえあまりにも早い時期にライナスの毛布を手放してしまった私、イマイチ人に上手く甘える、頼るということが分からない。

このままで行くと、いつか未亡人になり、領地争いで悩む私の元を訪れた謎の騎士が語る『領地も君も俺が守るよ…』と言う言葉を信じられないじゃないっすか!素直にその太い腕に抱かれ…るどころかアッパーカットっすよ!

晴れて未亡人になった暁にはロマンス小説の世界をたっぷり甘受したい私。
『老成円熟』は現在の人生のメインテーマです。

なので多分私よりほんの少し年上、人生の先を行くシロクマ先生には、是非正しい老成円熟のお手本を見せて欲しい、なんて期待してしまいます。

大人になるために築いてきたものを、いかに軽やかに脱ぎ捨てることができるのか?
人って子どもから大人になって、また子どもに戻っていく生き物だと思うんですよ。
それとも子どもと年寄りの無邪気さは違うものなのか?
築いてきたものを抱えたままでも、上手く現実に適応できる方策はあるのか?

…そもそも100年時代を迎える現代で、年を取ったから子どもに戻る、なんて甘えが許されるものなのでしょうか?大人になるのが遅くなった分、死ぬまで大人でいることを強いられるのでは?
そう考えたら、『大人になるのが遅くなった帳尻』はきちんと合っているような気がしてきました…。

 

シロクマ先生にも私にも、まだちょっと『老齢の境地』は早い。
けれど、大人を超えて老人を生きる人の言葉を、この先読めたら面白いし役に立つなー、と期待しています。

好き勝手言ってごめんなさい!
単なる私の願望なのですが、それではまた。

幕を引く物語-加納朋子『カーテンコール!』感想

加納朋子さんの小説『カーテンコール!』を読み終えた。

閉校する女子大、その最後の学生たちの物語。
加納朋子さんらしい、希望に溢れた物語でした。

経営難で閉校する萌木女学園。
私達はその最後の卒業生、のはずだった――。
とにかく全員卒業させようと、限界まで下げられたハードルさえクリアできなかった「ワケあり」の私達。温情で半年の猶予を与えられ、敷地の片隅で補習を受けることに。ただし、外出、ネット、面会、全部禁止! 
これじゃあ、軟禁生活じゃない!

カーテンコール!

 

物語のあらすじ

 

物語の舞台は閉校が決まったとある女子大。
最後の卒業生を送り出し、伝統ある学園に幕が下りる…はずだったのだが。
出席日数、成績。どうやっても卒業できない学生たちが居残ってしまった。

学園の理事長からの温情で半年の猶予を与えられた彼女たちは、敷地内の寮に住み込み、補習を受けることになる。外出、ネット禁止。食事、起床時間から睡眠時間まで、全てが管理制。まるで刑務所のような半年間の寮生活を無事に終え、彼女たちは卒業を迎えることが出来るのだろうか?

物語のあらすじはこんな感じ。

かつては就職率が高いと人気だった女子大学、萌木女学園。
今はその役目を終え、4月には閉校を迎えるはず…だった。
しかし、閉校を知っていながら、普通よりもハードルを下げられているのに、それでも卒業できない生徒たちが!

理事長は彼女たちに温情をかけ、かつて寮として使われていた施設にぶち込み、必要な単位を取得させるために、半年間の徹底合宿を行う訳です。

朝起きられない、居眠りが多すぎる、体力が無くて通学できない…。
生徒たちの悩みは人それぞれ。
遅刻とか、通学時間が長すぎて疲れるとか、正直甘えや怠けという言葉で片付けたくなる悩みも多い。

でも彼女たちは皆、『どうして私は他の人と同じように出来ないんだろう?』と切実に悩んでいる。
家族とのしがらみだったり、誤った生活習慣だったり、体質的な問題だったり。
悩みの根底には何かしらの原因があるのだけれど、それに自発的に気が付くことは難しい。

就寝の仕方や、家庭での食事量や回数、なんてなかなか他人と比べる機会のないものだから。
他者と比べることで、自分を見つめなおす。
その良いきっかけが、半年間、二人部屋の寮生活となるわけで。

睡眠障害組、過食と拒食のペアなど上手いこと組み合わされた二人の女子。
彼女たちは同室の友人、それから理事長や職員たちが叩きこむ、規則正しい生活、栄養管理された食事の日々の中からきちんとした暮らしが身体にもたらす効用、みたいなものを学んでいきます。

同じ時間に寝て、同じ時間に起きる。ちゃんと運動、そして勉強。バランスの取れた食事を三食、喫煙や飲酒は基本禁止。インターネットも禁止!

要するに運動瞑想睡眠、野菜350gのハードバージョン。
規則正しい生活を送れない人の末路は恐ろしい恐ろしい…な訳です、恐ろしい。

もちろん規則正しい生活だけでは改善されない悩みもあります。
障害や、本人の精神に起因する問題。

それでも『私なんてダメダメだ』で思考停止してしまうんではなく、何故そうなのか?どうすれば改善できるのか?を解きほぐしてくれるストーリーは非常に爽やかです。

 

私の違和感

 

実は、この物語を読んで私はほんの少しだけ違和感を覚えてしまいました。
とても爽快で、感動できる物語なんですけど、 生活を改善されて更生する女の子たちが女子大生、もう成人している…って所でえっ、と。

女子高生ならまだしも、女子大生なら、夜更かしするから起きられないとか、そういう当たり前のことくらい自分で気が付いて改善できないもんかなぁ…と。

でもわが身を振り返れば、私が規則正しい生活や食事に気をつけてるのって家族や自分の仕事に差し支えがないように、って気持ちからなんですよね。
もしも私が無職で、一人暮らしだったらついダラダラして昼夜逆転しそうだし、絶対三食食べなそう。

義務があるから規則正しい生活を送り、そしてその心地よさ、健康効果を学ぶわけで。だから年齢に関係なく、こんな寮生活を送ってみたい、憧れる!という人は一定数いそう。

そんな意味で、この物語は大人向けの寓話なのかも知れません。
私だって三食カロリー計算された食事が上げ膳据え膳の暮らし、送りたいもんなー!

ではでは、今日はそんな感じです。

 

カーテンコール!

カーテンコール!

 

 

優しい嘘は物語に似て-『架空の犬と嘘をつく猫』感想

寺地はるなさんの『架空の犬と嘘をつく猫』を読み終えた。
どうしようもない現実も、ままならぬ人のサガも描かれているのだけれど物語の基本ベースは優しい、暖かい。世界への肯定が感じられる物語。
とにかくボヘボヘと泣かされてしまった。

 

架空の犬と嘘をつく猫 (単行本)

 

物語のあらすじ

 

主人公は一風変わった家庭で育った男の子、山吹。
山吹の家には夢ばかり追いかけている祖父と、忙しい祖母、女好きな父親がいる。
それから山吹の弟、青磁を亡くしたことで現実を上手く直視出来なくなってしまった母雪乃、早くこんな家を出たいと願っている姉の紅。

これはそんな機能不全の家庭で育った小学生の男の子が、アラサーのいい大人になるまでのお話である。

「嘘吐き」の家系の羽猫家――3人目の子供を亡くしたことを受け容れられず空想の世界で生きる母、愛人の元にすぐ逃げる父、それの全てに反発する姉、そして、思い付きで動く適当な祖父と、比較的まともな祖母……そんな滅茶苦茶な家の長男として生まれた山吹は、幼い頃からみんなが唱える「嘘」に合わせ成長してきた。そして、その末に、このてんでバラバラな家族のゆく末と山吹の日常には、意外な結果が訪れる。これは、それぞれが破綻した嘘を突き続けた家族の、ある素敵な物語――。若手実力派作家・寺地はるなが描く、ちょっと変わった家族小説が登場!

 

幻の弟を探し続ける母のために、優しい嘘をつき続けることが自分の義務だ、と思い込んでしまった山吹。家族に伝えたかった沢山の言葉を飲み込んだまま育ち、誰かに優しくすることだけが自分の存在意義だと思っているような、不憫で『優しくて都合のいい』男の子。

私はそんな、吹けば飛ぶように影の薄い山吹が、果たして幸せになれるのだろうか、ちゃんと地に足を着けて生きていけるのだろうかとハラハラしながら読んでしまった。まるで主人公の姉、紅の目線だ。

  

物語には嘘がある

 

物語は優しい嘘に満ちている、なんて思う時がある。

現実の世界には、偶然がもたらす奇跡や思いがけない出会いは落ちていない。劇的に愛されることも、殺したいほど人を憎むこともない。親方空から女の子が!なんて人生で一度も使う機会のない台詞であろう。

それでも、ほんのひと時物語という優しい嘘にだまされて、ボヘボヘと涙を流すことで私の心は軽くなったりする。

物語の世界で救われるのは私ではない。架空世界の、誰かである。
けれども誰かの幸せを喜んだり、泣いたりする度に私の心まで救われた気分になるのはなぜだろう?

物語には今更取り戻しようのない、過去の辛かった出来事を虚飾する力があるような気がする。現実は変わらない。でもアテレコ次第で物語が変わるように、自分の心にキャプションを付けたっていいのだ。
小説を読んで、自分の周りの人によく似たキャラクターと出逢うたびに、あの人も本当はこう思っていたのかも知れない、なんて感じる。身勝手な妄想だけれど、それで他者を肯定できるならいいんじゃないの、と私は思う。

そうして救いに満ちた物語には本当に人の心を救う力があるように思える。
震災に遭い、しばしの避難暮らしを余儀なくされた友人が送ってくれ、と言ったのは食料でもお金でもなく、本だった。なるべく軽い、楽しんで読めるようなエッセイが読みたいの。そんな彼女のために、私は文庫本を何冊も送った。

明るく軽やかで、楽しい本を読むと、心まで軽やかになれるような気がする。物語はそうやって現実を忘れさせてくれる、生きていくための逃げ道になれると思うのだ。

優しい嘘をつきながら大人になった少年は、それからも誰かを助けたり、なぐさめたりするために小さな嘘をつき続ける。

でもそれは生きていくために必要なこと。
そうやって誰かを気遣うこと、そして同じように相手からも大切にされること。
想い合う気持ちがあって、ようやく人は生きていけるのかも知れない。
この本を読んで、そんな風に感じました。

ひたすらぐっとくるエピソードばかりの一冊だったんですが、私は初恋の女性に身勝手に扱われて、それでも『かな子さんを泣かせるものは、俺が全部守るから』と言っていた山吹が、再度彼女に一方的に頼られた時にちゃんと憤ることが出来た、かな子よりも妻の頼や家族のことを優先できたシーンが一番号泣でした。

昔の山吹は、自分がないがしろにされている事に憤ることが出来ない子どもだった。それは自分自身がかけがえのない、大切な存在なんだと思えていなかったから。

山吹がかな子に対して「あの人を、俺が助けるわけにはいかない」と言ったときに、おばあちゃんが山吹に伝えたかったこと、姉の紅がもどかしく思っていた部分が全部綺麗に解きほぐされた気がして、そしてそれは山吹を大切に思ってくれた頼や、周りの人たちのおかげだと思って胸が暖かくなりました。

今日はそんな感じです、それではまた!

架空の犬と嘘をつく猫 (単行本)

架空の犬と嘘をつく猫 (単行本)

 

 

 

 

東京中心主義

先日首都圏の電車あるあるTwitterまとめ、みたいな記事を読んでいた。

面白い、とみんな盛り上がっているのだがその『あるある』が地方在住の私には全然共有できねぇ。
そこはかとなく感じる疎外感。
この感覚は時折味あわされる。

首都圏の大雪で埋め尽くされた朝のニュース。
都心の町のあるあるで盛り上がる飲み会(五反田風俗情報とか。東京住んでても知らねーよ!)。

いまどき東京のことなんかTVで見慣れているでしょう、と言われるかも知れないが酒場放浪記を深く愛する私が知っているのは下町のひなびた居酒屋だけだ。
巨大な空白地帯が私の東京マップには存在する。

けれども、いまや日本の人口の半分が、東京・名古屋・関西の3大都市圏で暮らしているらしい。
もはや東京は日本の一般常識であり、スタンダードなのだ。

キジの鳴き声で起こされるような田舎者は、己が少数派であることをわきまえて、大人しくほぞを噛んでいるしかない。

 

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 でもまぁ。私はこうも思う。

独身・既婚、子持ち・子ナシ、若者・年寄り、無職・勤め人、異性愛者・同性愛者、そして都会・地方。世の中には様々なクラスタがあって、誰にでも一つくらい、ちっとも分からない、疎外感を覚える話題があるのではないか、と。

きっと誰もが、ナニカからは弾かれている。
この世のすべての話題についていける、世界の全てを分かる語れると豪語する人なんて、とんでもない勘違い野郎か血肉を持ち合わせない電脳世界の神様に違いないのだ。

そして私の住む田舎もまた、とんでもなく普通の範囲が狭い、マイノリティに冷たい場所だ。 私がキジの鳴く田舎町でぬくぬくと暮らせているのは、誰かが弾かれたおかげなのかもしれない、と思うと背筋が少しひんやりしてくる。

首都圏で暮らせば、多くの人が抱く『東京』という価値観を共有することが出来る。
そう考えたら東京に住む、ということは寂しさを埋める行為なのかも知れない。東京なら、同じクラスタも見つけやすいしね。

現実問題、働く場所が首都圏に集約しすぎてるのでここで暮らすしかない、という人も多いとは思うのですが。

 

そんなことを暖かな冬の昼下がり、職場駐車場で戦う猫とキジのバトルをほっこりと眺めながら考えていたのです。
地味に強い、そしてデカいぞキジ…。

 

腹痛は擬音と共に

痛みとか動作とか、脳内で擬音が聞こえがちな私である。
みんな、あるあるだよねー?と思ってTwitterに書いたら思った以上に賛同を得られなかった。

 

まじか。

みんな下痢の時お腹がハロルドハロルド言わないのか。
腹痛と共にグリット線グリット線が聞こえないのか!

我が家では下痢ののちの爆裂的な噴出のことをバフンウニと呼ぶ。
だってほら、バッフン!ウニーって言うじゃないっすか言うじゃないっすか!

余りにもピッタリすぎて、我が家では「今バフンウニしたばっかりだからごはんはお腹が落ち着いてからにする」とか普通に使う。
てか、既に全国共通の隠語だと思い込んでた。

まじか…みんなバフンウニしないのか…。

 

痛みや動作を擬音化、というと難しく聞こえるかも知れないが、要はマンガのアレである。剣を振るときザシュッ!とかさ。恋の予感にフルフル…とかさ。

私はマンガ脳なのかも知れないが、脳内で自分の動作やら痛みやらに音をつけがちである。なんかそのほうが気持ちいいし。痛みも言語化した方が数値が分かりやすい(市販の薬でイイとか医者に行かなきゃダメとか)気がするんだよな。

飽きてしまいがちな単純作業も(大量の郵便物とか製本とか)シュタッ!とかギルティギルティ!とか脳内で音をつけると楽しめる気がしません?
戸を開けるときスパルタン!とかさ(それはキューライスせんせい)。

とにかく私の脳内は雑音だらけです。
表面は楚々とした文学少女なんだけどさ(ええっ!こういうのは言ったもん勝ちなんだもん!)座禅をしたら延々と警策で『スパルタン!スパルタン!』と叩かれそうな感じです。

…ていうか脳内は見えないから、みんなお腹が痛くなったらハロルド!ハロルド!的な擬音を受け取ると思ってたんだけどなー。

あなたの脳内の言葉が分かる未来は来るのかなぁ。
私の脳内はいつも雑然としてて、でもそれが当たり前だと思ってました。
私は普通の将棋で勝てる気はしないけど、電話しながら文書を打って、なおかつ将棋打つ選手権なら結構いい線行ける気がします。

みんなそれぞれ、脳内は違うんだよね。
そしてそれは見えないから、ちょっぴり怖くて面白い。
私たちはみんな違うんだ、だから普通なんて結局ないんだよ…というのが今日の気づきです。

そんじゃーね、サンスクリットサンスクリット!(両手をひらひらさせて祝福を贈るイメージ)

  

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