おのにち

おのにちはいつかみたにっち

恋愛に論はいるのか?論

青二才さんのこの記事を読んで、いろいろ考えてしまった。

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ご自身の『迷い』がストレートに出た記事だと思うし、家族と言う複雑な関係の辛さ、しがらみは本人にしかわからない。

ただ青二才さんの中に「結婚してこそ一人前」と言う旧来の考え方が残っていて、だからこそ苦しいのではないか、とは思った。

ご本人も書いていたけれど、友達がいて楽しいならばそれで良いではないか、と思う。
結婚したから健康で長生きできる、結婚したから大人として認められる、はイコールではない。1人できちんとした生活習慣を保てる人もいるし、若いうちから大人の考え方を身に付けている人もいる。

大体他人に結婚しているか、恋人がいるかなんて個人的なことを質問する、仕事の場で個人じゃなく家族として評価する、と言う意識がもうオワコンなのだと思う。

40過ぎて独身のやつはヤバい、なんて言う人がたまにいるけれど、結婚してようがしてまいが、ヤバい奴はヤバい。

結婚や恋人を便利な資格扱いしてないで、その人がヤバいかヤバくないか、あなたが決めればいい話なのだ。
私は私だし、誰かの妻だなんて付属品扱いされるのはまっぴらだ。

 

と、自分の見解が出てしまったが、あの記事は青二才さん自身の人生のエントリ。

自分の居心地の良い場所は自分にしかわからない。
迷いながらも5年後10年後、いつか自分なりの答えが出たらそれは同じように悩む人の指針になると思う。


引っかかりを感じてしまったのは、青二才さんが「女性の気質論」みたいなものを挙げて、そういうところが苦手で、だから上手くいかないのだと結論づけてしまっていたところ。
女性はこう!と言われるとなんか辛い。
もちろんそうじゃない女性がいることが知っている、と言うエクスキューズは書かれていたけれど、そうじゃない枠に入っていてもあんまりうれしくない。
男性はこう!と言う全体像の記事があって、もちろんこういう男性は違いますよ、と丁寧に配慮されていたとしても、やっぱりもやっとしないですか…?

 

「というもの」とは付き合わない、という表明


男と言う概念、女と言う概念を書いて、彼らはこうだから自分は彼らとは上手くいかない、と言葉にするのはとても容易い。

ネットにはそんな「私が異性と付き合わない理由」が溢れている。

でもあなたは、叩かれている「男というもの」の概念の中に、本当の自分がいると思った事はあるだろうか?
叩かれている「女というもの」の概念の中に、本当のあなたはいる?
結局本当の自分なんてネットの中にはいないのだ。


それを知っているのに異性に対しては「というもの」というつまらない型枠を嵌めてしまう。

男なんてそんなもの、女なんてそんなもの、と知った気になるのは簡単だ。
でもあなたは『そんなもの』の中に住んでいますか?

自分が違うなら、相手だって違うかもしれない。
小さな想像力を持つだけで、世界の見方はガラッと変わる。

男子校育ちだったり女子校育ちだったり、異性に距離があると近づくのも怖い、という気持ちは分かる。

でも異性と言う森を遠くから眺めて、あんな場所!と毛嫌いするのはどうだろう。

森の中には大きさも、枝ぶりも、品種だって異なる木がたくさん生えている。
1つとして同じ木は無いのに、森だけを見て木を眺めないでどうする。

私は森に分け入って、たった1本、自分によく似た木を探したい。
そしてできたら、手を取り合って平原に歩いていきたい。

 

たった1つの木の選び方

 

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私は年も価値観も雰囲気も、よく似た人の隣にいるのが一番心地いいと感じる。
でも相手に過剰な夢や理想を追い求めてしまう人もいる。


森の中でも1番目立つ、華やかな木ばかり追い求めてしまう人。
そうして森の中に入る前にどうせ理想の木は手に入らないから、と諦めてしまう。

そういう人たちは、自分が思い描く理想の自分と、現実の自分とのギャップが大きいんじゃないかと思う。
だからすごく大きくて立派で、華やかな木を手に入れたら、人生に大逆転が起きるんじゃないか、本当の自分になれるんじゃないかと考えている。

 

私は恋愛も結婚も、人生を一発逆転させる宝くじじゃなくて、もともとある幸せをほんの少し上乗せしてくれる、小さな底上げみたいなもんだと思う。

自分をちゃんと好きになって、日々の暮らしが幸せだと思えるようになったら、身の回りにいる自分と同じ価値観を持つ人、見栄を張らずにそのままの自分でいられる相手を、自然と好きになれると思う。(身の回りに本気で相手がいないパターンもよくありますが…)

 

実は私は、恋愛も結婚もあんまりフェアじゃない、と思っている。

私は相手に快適でいてほしいとか、喜んで欲しいと尽くしてしまうし(そうすると家事は均等割じゃなくなる)向こうも何でも半分、と言いながら私の苦手なことを知らない間にやってくれたりする。

私たちはお互いに自分の方が損をしている、でもこの人だから仕方ないか、とほんのちょっとの特別扱い(結局それを愛と呼ぶのかな?)を認めながら暮らしてるんじゃないか、と思う。

誰かと共に暮らすと言う事は、自分の心なり時間なりを、わたあめみたいにちぎって差し出してあげることだ。

わたあめを同じサイズ、同じグラム数で均等割り!なんてギチギチに測っていたら縮んでしまうし、誰かに分け与える余裕のないサイズなら、まずは自分の心を満たすことが一番だと思う。

一緒に並んで花火を見たくて、大きいほうのわたあめを躊躇せずに差し出してあげられる人。その人はきっと男とか女じゃなくて、私にとって特別な名前を持っている。

 

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まずは自分を好きになること

 

私の知っている一番素敵な独身女性は、保育所の所長先生をやっている。
子供だけではなく、お母さんのいいところまでたくさん見つけて、いつも褒めて愛しまくってくれる、素晴らしい先生だ。

みんなの愛に包まれすぎて、たった1人に絞れなかったのよ。
そうやって笑う彼女のことを、独身だから不完全だ、なんて誰が貶すだろう。

『お母さん、今日も笑顔が素敵!』『颯爽としてかっこいい!』
所長先生は、朝の玄関でいつも子供たちより、私たちを褒めてくれた。

もういい大人なのに先生に褒められるとなんだか嬉しくて、慌ただしい中でも笑顔で子供とバイバイが出来たことを思い出す。

先生は私たちに、毎朝ひとかけらのわたあめをちぎってくれたのだ。

 

私たちは、実はみんなすごく頑張ってるんだと思う。
でもネットのおかげで、世界が見えすぎるくらいに可視化されちゃって(それも上位数%が大多数みたいに見える偏った世界が)結果が得られないから、評価されないから不幸だと思うようになってしまった。

確かに、恋愛で承認欲求を満たすこともできるだろう。寂しいとき隣にいてくれる誰かが欲しい気持ちもよくわかる。

でもその前に、もっと自分の「すごーい!」を認めてあげても良いのではないだろうか?
恋愛は生クリームみたいなもの。
自分の土台がしっかりしていなければ、崩れ落ちてしまう。
私が『私』を好きじゃないなら、どうして誰かに自分を好きになって、と言えるの?

 

自分を一番幸せにできるのは、結局自分自身だと私は思う。
異性にたくさんモテる人より、自分で自分を適切に認めてあげて、自分の幸せを周りにふわふわまき散らかせる人が一番素敵。

 

私にとってのわたあめばら撒き系ブロガーは加藤はいねさん! (なにあの盆と正月がいっぺんに来たかのような更新の喜び!?)

d.hatena.ne.jp

あの域にはどうやって…?しかもはいねさんもしかして年下…? 

 

「怖い」はどこからやってくる?忌み、穢れと言う感覚の不思議

最近「スーパーセンスーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている」と言う本を読んだ。


少し古い本(2011年刊)だが、殺人鬼のカーディガンを着たくないと思うのは何故か? 殺人現場となった家に住みたくないのはなぜか?という忌み、穢れの感覚から始まって、なぜ人は超科学(いわゆる擬似科学)的なものを信じてしまうのか?を語る、面白い命題だった。

お化けなんてないさ、と思っていても、殺人現場となった部屋は借りたくない。
きちんとクリーニングされ、新品同様の状態であっても「これは連続殺人犯のお気に入りのカ―ディガン」なんて説明されたら着れない。

そんなふうに、忌避する心はどこから生まれてくるのだろう?
いろいろ考えさせられる1冊だった。

 

穢れと言う感覚の不思議

 

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

スーパーセンスーーヒトは生まれつき超科学的な心を持っている

 

 


忌まわしい!と言う直感から1歩距離をおいて考えてみれば、猟奇的殺人犯が暮らしていたとしても家は家。

しかしアメリカではそうした家は売れないどころか全て綺麗に取り壊し、床下の石まで剥がして埋め立ててしまうのだと言う。
自分の家の木材が元は殺人犯の家のもの、とか敷石を再利用、なんて言われたらやっぱり嫌だ。

本の中で著者、ブルース・M・フードはサンタクロースや幽霊の話、様々な絵本やテレビの影響で素直な子供の心にスーパーセンス=超科学を信じる心が生まれる、と書いていた。

 

『ヴィレッジ』という映画をご存じだろうか。

 

ヴィレッジ [DVD]

ヴィレッジ [DVD]

 

 

かなり有名な作品なので、みんな見ているという前提でネタバレさせてもらう。
あの映画はアーミッシュのように厳格に隔離された世界の話を描いていた。

もし超科学的なもの-ファンタジックなアニメや童話、お化けの話や祭りまで-が全て排除された現実村で育ったら、その子は暗闇を怖がらないのだろうか?


この本の中では、世界中に創生神話があるのは人間の脳がそうした物語のパターンを好むからだ、つまり私たちの脳は超自然現象を生まれつき受け入れるように出来ているのだ、と語られていた。


この本を読む前に『文化人類学入門』(ただしこの本も古い… 私が読んだのは1994年の改訂版)を読んで、神話が海を渡って広く伝播していく「文化伝播」という言葉を知っていたので、人の脳がそういう形の物語を好むからその手の話が世界中にある?というような説明に???となった。

脳がこういうかたちを好むので世界中に同じような話があるんですよ、という進化論的な話より、有名な話が伝播していって、その土地にあった形に姿を変えていきました、という文化伝播論の方があり得そうな気がするのだが、どうだろう。

 

文化人類学入門 (中公新書 (560))

文化人類学入門 (中公新書 (560))

 

 

科学本のジレンマ

 

今日紹介した2冊の本は、どちらも図書館から借りたものである。

そして感想を書いておきながらアレですが、実は『スーパーセンス』はあまりオススメできないかも…。もちろん面白かったから感想を書いたのだが、残念なことにさすがに情報が古い。

祖父江孝男教授の『文化人類学入門』は、タイトル通り初心者にはピッタリの分かりやすい名著。それでも何度も加筆・修正されている。

学問は進化し続けるモノ、鮮度が命。
今年は小説ばかりでなく、勉強になるような本を読みたい!と思った時、最初に気になったのが発行年だった。

なるべく新刊がいいんだろうな、と思って書店に足を運んだのだが、初めて手を出すジャンルゆえ目利きがキツイ。
小説ならいままで読んできた経験則から、作家名や出版社で大体の傾向や内容が分かる。ところが科学は未開の大地。表紙だけではその本がトンデモ本なのか、堅実な内容なのか、分からないのである。

じっくり立ち読みできる時間もなく、手当たり次第買いまくれる財源もない。
とりあえず近場の図書館で借りて、基礎知識をつけようか…と思ったのだが、ここにも落とし穴が。

私の町だけなのかもしれないけど、購入図書に思いっきり偏りが。
文芸のベストセラーは同じものが何冊も並んでいるのに、ノンフィクションの新刊本スペースは激セマ。そしてその殆どが、ブックオフで叩き売りされていそうな芸能人のもの。科学や学術系は月に数冊入ればいい方なのである。

今まで文芸しか読んでこなかったから、こうしたジャンルの偏りに気がつかなかった。
町の図書館の使命は、予算の範囲内で町民が必要としている本を提供すること、なので需要が少ないジャンルは購入しない、と言うことなんでしょうが…。

 

という訳で現在、科学本のおすすめ記事を書いているブロガーさんを探してます!
ちゃんと最後まで読んでいて、自分なりの感想があるとありがたい。
自ブログで書いてます!とかこのブログがオススメ!なんて情報があったらぜひ教えてくださいませ。

とりあえず今はこちらのリストがすごく良かったのでここから何冊か買う予定です。

科学の面白さ・楽しさを伝える100冊 「科学道100冊」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる


この間お勧めした「明日、機械がヒトになる」もこちら経由!

 

yutoma233.hatenablog.com

 


この本がすごく面白かったので、しばらくは脳科学関連の本を読んでいこうと思っています。
では、なんだかごちゃごちゃしてしまいましたが、今日はここまでー。

 

【けもの考察】世界の終わりとけもの☆ワンダーランド

注:これはけものフレンズが好きな一部のお友達にしか分からない身勝手な考察+夢小説です。更に村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」をちょっとだけ基にしています。
『世界の終わり』パートがジャパリパーク、『ハードボイルドワンダーランド』が今回描いた妄想小説、といったところでしょうか。

しかしこんな悲しい終わりは嫌なので、ジャパリパークよ永遠に…なのです。

 

*****

 

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 お父さん、お母さん、お兄ちゃんが死んじゃって、どれくらいになるかなぁ。
今はかおもはっきり思い出せないのに、それでもなきたくなるんだよ、ふしぎだね。

私はまだ子どもだからよく分からないけど、せかいはせんそうのはてにすべての生きものをころすウイルスにおおわれたんだって。

でも女の子たちはもともとそのウイルスに少しだけつよくて、それからわたしたちのすむしまがサンドスターっていうふしぎな砂にまもられていたから、ほんの少しの女の子と、それからロボットたちが生きのびたんだよ。

 

でもしあわせは長くはつづかなかったの。
生きのびた私たちも、大人になったら死んでしまうんだよ。

ロボットたちは、未来にのぞみをたくして、私たちをなおすくすりがかいはつされるとおい未来まで、わたしたちをコールドスリープさせることにした。

 

体はとうけつされるけれど、こころまでこおりつかせてしまったら私たちはおきられなくなってしまうんだって。

だから私たちは長い長い夢のせかいで、おとなになるためのべんきょうをすることになったよ。

わたしのくらす夢のせかいはどうぶつえんみたいなばしょなんだ。
さまざまなどうぶつやガイドに生まれかわって、たのしくくらせるんだって。

私はしょくぎょうのだいいちきぼうに「パークガイド」って書いたよ。

まだかぞくが生きていたころ、みんなでどうぶつえんにいったの。
お父さんはたくさんどうぶつの名まえを知っていて、いろんなことをおしえてくれたんだ。

わたしもいつか、お父さんみたいにみんなに色んなことを教えてあげられる人になれたらなぁ、って。

 

今はつめたいきかいの中だよ。

ねむるまえに、お父さんがくれたどうぶつずかんをみたの。
金いろの目をしたサーバルキャットがかわいくて、大好きなんだ。

こんな子とお友だちになれたらうれしいなぁ。

 

 

 お姉さんたちはすこしむずかしいはなしをしていたよ。
私たちはもう『手おくれ』かもしれないんだって。

ウイルスがちんせいかしたころ、ねむらせておいたたまごであたらしい子どもを作ったほうがはやい、って。

 けどたまごの数はかぎられているし、ちゃんと大きくなれるかわからないから一個ずつめざめさせるんだって。

 

でもね、そうしたらその子は世界でたった一人のにんげんになってしまうから、その子のためにどうぶつえんみたいながくしゅうしせつをつくって、そこで友だちを作ったりべんきょうをするんだってさ。

 私たちの心は、その子のためのエーアイがわりなんだって。
エーアイ?ってなんだろうね?

よくわからないけど、私はパークガイドになれないかも知れないときいて少しざんねん。

こたいすうがたりないから、みんなちがうどうぶつに生まれ変わって、その子に世界を教えるんだって。

 

いつか、未来の子どもと、なかよくなれたらいいなぁ。
いつもおちつきがなくて、しっぱいばかりの私だけど、きびんなどうぶつに生まれ変わったら少しはみんなのやくにたてるかな?

 そしたら私、その子のお手伝いをしてあげたいんだ。誰かのためになることをする、世界のあんないをする。

まるでパークガイドのおしごとじゃない?
そしてそれはお父さんのようなオトナにいっぽ近づくこと、だと思うんだよ。

 

楽しみだなぁ。
きっと会えるよね、私のお友だち。

 

 

長い時が経って、サーバルは草原の中で生まれたばかりのフレンズを見つける。

『こんにちは!あなたは何のフレンズ?』

 

*****

 

フレンズたちはサンドスターの謎のチカラで擬人化したのですが、もしサンドスターなしでケモナーを作るとしたら『ザ・フライ』みたいな感じなのかなぁ…と思って書きました。でもケモノの中に人なんていないしノケモノもいないんだからね!

とにかく次回が楽しみすぎるおのにちです。 

 

けものフレンズBD付オフィシャルガイドブック (1)

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年齢や体重が気になる!-数字で判断したい私たち

同僚が、30歳になったら急に合コンのお呼びが掛からなくなった、もう年だと言われているようでショック…と嘆いていた。

晩婚化の時代、30歳はさすがに早くないか!?と思ったのだが、地方は未だに結婚が早い。そういうこともあるのかもしれない。

私にとっての『30歳』はちょうど子供を産んだ歳で、モテコーデよりママ友好感コーデ選びに余念がなかったので合コン事情はよく分からない。
しかし、確かに歳をとったと言う実感は浅かった。

30代なら、まだまだ20代の時と体力もスペックも変わった気がしないのが普通ではないだろうか。

よく「見かけは変わらなくても卵子は劣化する!」と言われるが、当時かかっていた医者の言うことには、1年ごとに数字が変わるのは出産適齢期の前後数年くらいで、後は年齢より個体差が大きいのだと言う。

美容体重より健康体重で、脂肪より筋肉が多く、ストレスをためない規則正しい生活をしている人がいい、らしい。

具体的には?と聞いたら、遊牧民が栄養バランスの良い食事をとれば最高だよね、と言われた。

遊牧民、ウィズ野菜。


現代人がスムーズに身ごもるためには、まず放牧から始めねばならんのだ!
つまり婚活で本当に聞くべき事は年齢ではなく所持羊頭数。

大体お前ら本当にそんなに子供が欲しいのか?
正直に言ったらいいのに。若い方が得した気がする、と。


数字と言う目に見える基準

 

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しかしながら、婚活女子も『年収』という目に見える数字に弱いのでお互い様だと思う。そして、年収も個人差があります、の世界だよなぁと思う。

例えば年収一千万だがバツ2、養育費で給料の半分は飛んで行きます!と言う人と、年収500万だけど資産家の一人息子、と言う人なら後者の方が安全パイに見える気がする。ただしバツ2はものすごく魅力的な人なのかもしれないし、結局すべては自分次第。

ところが年収一千万以下はアウト!なんてつまらない基準を作ってしまうと、世界が狭まる。

さすがに今時いっせんまーん♪なんて無邪気に言えるフレンズはいないと思うけれど、いくらだって同じこと。
年収500万だけど忙しすぎて週末しか帰れない人、年収300万だけど定時に上がれて家事育児に参加できる人。
500万と結婚して育児に専念がいいのか、300万と結婚して自分が200万稼ぐ方が楽か。
やっぱり人それぞれ、自分次第なのでは?


けれどそうやって細かく比較検証していくのは、時間もかかるし面倒くさい。
パッと見たときの分かりやすさに弱いのが人間なんだろう。

私自身、体重と言う数字に弱い。ものすごーく弱い。

ずっと50kgならOK、52Kgならダイエット!という基準で生きてきた。
洋服のサイズならMが入ればOK、Lサイズなら要減量。

同じ体重でも、筋肉が多いか脂肪が多いかでボディラインはがらっと変わる。
体重計だけを気にするのは危険だ。

洋服のサイズも同じことで、MサイズだろうがLサイズだろうが、サイズタグをぶら下げて歩いているわけじゃない。

身長の違いもあるし、全体のバランスが整っていればそれで良いのでは?…と自分でも分かってはいるのだが、私は己を見る目に自信がない。

他人の事は客観的に見られるのに、自分には厳しくなってしまう。
サイズと言う数字がオーケーなら安心。

Sサイズ、Mサイズ信奉とはそーゆー気持ちから生まれるのかなあ、と思っている。

同じMでもユニクロMと若向きブランドのMじゃ全然実寸が違うので、サイズじゃなく自分の身幅に合うものが1番だ、とはわかっているのだけれど。

ついMサイズでいいや、とネット購入してしまって、大きかったり小さかったり。
失敗ばかりしている私はいまだに自分の体を正しく捉えられていないんだろう。

自分の重さ、というのは不思議なもので、1キロ増えても体重計に乗らなければ気がつけない。

1キロの荷物を持っていることを忘れるか、と言ったらそんな事はありえないのに。
もっとちゃんと、自分のことを把握しなきゃいけない歳だよな、と思う。

とりあえず風呂場でボディーラインを認識するところから始めるべきか。
認めたくないものだな、自分自身の脂肪というあやまちは…。

 

私のアイデンティティ-宮内悠介『カブールの園 』感想

宮内悠介さんの「カブールの園」を読んだ。
宮内さんの「盤上の夜」と「ヨハネスブルクの天使たち」(どちらも日本SF大賞特別賞受賞)は読了済。

前2作がSFだったので、これもそうなのかな?と思っていたら、こちらは芥川賞候補作で、現在のアメリカを描いた小説だった。

私は最初コンゴの世界一おしゃれな紳士たち『サプール』と勘違いしていて、サプールのSF?ワクワク!と楽しみにして読んだらホントに全然違った…。

でもこれはこれで、言葉が染み入ってくるようないい作品でした。

 

物語のあらすじ

 

カブールの園

 

表題作「カブールの園」と「半地下」、2編の物語が収録されている一冊。

「カブールの園」は日系三世、日本語を知らないヒロインレイが主人公。
子どもの頃から成績が良く、母の期待はすべて彼女に掛かっていた。

学校では激しいいじめを受け、自宅では親の期待を裏切れず作り話ばかり。
そんな辛い日々を逃れ、今はサンフランシスコのベンチャー企業でマネージャーをしている。

レイは精神を病んでおり、VRを用いた最新の精神治療を受けている。
幼少期のトラウマ体験をバーチャルリアリティー映像でもう一度思い出し、それに認知療法を組み合わせることで、心の問題を解決しようというもの。

治療はなかなか進まず、憤りを感じる日々の中、職場から思わぬ休暇を貰ったレイは大戦中に自分の祖母が収容されていたマンザナーの日系人収容所を訪れる。

自分のルーツを巡る旅の果てに、彼女は何を見るのだろうか?

 

「半地下」は夜逃げした父に日本からニューヨークに連れてこられ、そのまま置き去りにされた姉弟、ミヤコとユーヤの物語。

姉は働いて、異国で弟を育てていこうとするが、大使館の介入もあり上手くいかない。彼女はEWFというプロレス団体を頼り、レスラーとしてデビューすることで生きていこうとする。

オーナー・エディはミヤコの人生を買う、と言う。
二人の養育費を払い、養子として育てる。
そのかわり彼女はショーのための都合のいいキャラクターに生まれ変わってもらう、と。

こうして父を亡くし、EWFに買い取られた少女レスラーミヤコが誕生する。

怖いものしらず、受け身も取らないジャンキー少女。
これがミヤコに与えられた「役柄」で、彼女は巧妙に仕立て上げられた架空のダークヒーロを演じていく。

だが、危険な役柄はどんどん彼女の命をすり減らしていき…。

 

物語を貫く、素晴しい言葉たち

 

この作品は綴られた言葉の数々が美しい。心に残るセリフが多かった。
例えば『カブールの園』レイの言葉。

TVディナーは味気なく、隠元豆はゴムのようで青臭さしかない。でも、その味気なさは嫌いじゃない。荒野や廃墟に惹かれるのに近い。何より手間がかからない。

わたしは、ただ消えてなくなりたいと願っていた。誰でも、なんにでもなれるこの国の西の最果てで。

例えば『半地下』ユーヤが 二つの言語の間で生きる気持ちを吐露した言葉。

英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追いつめる。
英語と日本語の戦う戦場が僕だった。

 

 

ユーヤの姉の名はミヤコ。

彼女の恋人は彼女の名前が上手く発音することが出来ない。
何度練習しても、ミヨコ、ミヨコ。
でも彼女は名前を間違われることが好きだった。

それは、彼女がアメリカで新しく手に入れたアイデンティティ。
しかしある時人種解放団体がEWFに通告をよこす。

外国人選手の名前は彼らの民族性を尊重して、祖国の発音に合わせるべきだ、とかなんとか。
ミヤコは傷つく。なんだか裏切られたみたい、と漏らす。

そしてレイは叫ぶ。差別なんか受けてない!と。
二つの国の間で、己のアイデンティティにもがきながら、それでも器用に踊ってみせる。そんな、二人の女性の物語でした。

宝石のような言葉の数々が忘れられません。何度も読み返したい一冊です。

 

わたしたちの世代の最良の精神。
そんなもの、きっとこの先もわからないだろう。でも、誰かにそれは宿っている。
ブルースは私の耳に届かないだけで、いまもどこかで流れている。

 

カブールの園

カブールの園

 

 

私が凍死したかった日

小学生の頃、親と激しい言い争いをした。

1年生か、2年生だったか。
理由は忘れてしまったが、私には私なりの言い分があって、それが上手く伝わらないことに腹を立て、死んでやる!と思った。

とは言えまだまだちびっこ。痛かったり苦しいのは嫌だ。

ドラマで、冬山で遭難した人たちが「寝るな!死ぬぞ!」と頬を叩き合っていたことを思い出した。どうやら冬山で寝ると死んでしまうらしい。

それならわりと簡単かも…と私は山に行くことにした。
とはいえ、当時の私が住んでいたところは北海道、石狩平野。

本当の「山」は遥か遠くだ。
登山をしたこともなかった私は、とりあえず家の近所の雪山で寝ることにした。

除雪車が早朝からガンガン地響きを轟かせるような地域にお住まいの方ならお分かりだろうが、豪雪地帯の空き地や行き止まりには大抵巨大な雪マウンテンがそびえ立っているものだ。
2階建ての家くらいの高さの、その雪山によじ登り、てっぺんに横たわった。
サヨナラ、人生…。

 

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とても暖かい日だった。
空は晴れてまぶしかった。
私はスキーウェアを着ていて、ポカポカ暑いくらいだった。
大変心地よく、1時間ほど昼寝をした。

やがて「おやつよー」と呼ぶ声がして、家に帰った。
ちょっぴり気まずかったのだが、母が何事もなかったような顔をしていたので、いつも通りおやつを食べて、いつものように眠った。

 

今日の空が晴れていたので、何となく思い出した話。

教訓としては、子どもと喧嘩をした後は後に引きずらないほうがいい、ということ。

子どもに言い聞かせよう!と思うとついついムキになって、口げんかになってしまう。
でも大人が子供を言い負かせるのは当たり前のこと。勝ったって何の得にもならない。

私の願いは、必要な生活習慣を、息子が『自分のために』『自発的に行なえるようになる』こと。
怒らずに執念深く、彼の血肉になるまで言い聞かせなくてはいけない…のは分かってるんですけどねー。
とりあえずカルシウムとらなきゃ。


失敗したな、と思う日も、取り返しのつかないことなんて滅多にない。
晩御飯に好きなおかずでも付けて、いつも通りにしていよう。

そして、子どもの頃の私はどうやらかなりオロカだったようです。
それ、ただのお昼寝じゃん!

 

おすすめイヤミス、気持ちの悪い物語まとめ。

現在SNS断捨離中の某カンドー嬢からコメントでリクエストを頂いた。
グロい小説、気持ちの悪い話を教えてくれ、というもの。
これが結構難しい。

彼女が爽快にはらわたの飛び散るイヤミスを求めているのか、それとも私が生理的に気持ち悪い、と感じる話を読みたいのか。
それによって話が違ってくるからである。

イヤミス、と聞くとよく名前が上がる名作ミステリの数々。
「ハサミ男」や「殺人鬼」、「殺戮にいたる病」などいわゆるグロい系が多い。
これらの作品は確かにどれも血なまぐさい、怖い、後味も悪い。

ただこうした作品群は、ホラーに耐性のあるフレンズ、アンチヒーローが大好きなフレンズが読むとまた違った意味を持って立ち上がってくるのである。

ザ・爽快感。グロいって、たーのしー!
ハサミ男など、確かに後味が悪いのだけど実は私は笑ってしまった。
うまくやりやがったなコイツぅ!と言う感じで。

被害者側に肩入れするか、犯人側に肩入れするか。
物語を読む視点で、作品の後味は変わってくる。

『貞子VS伽椰子』『フレディVSジェイソン』なんて映画のタイトルを見てもわかるように、最恐の敵もシリーズ化して見慣れてくるうちにかわいらしく思えたり応援したくなったりしないだろうか?

ミステリーを読む上で、もちろんホームズには綺麗に謎を解いてほしいし、活躍してほしい。でも更に見事にモリアーティ教授が逃げおおせると、私はニヤッとしてしまうのだ。

 

サクッと読める爽快イヤミス

 

あなたがもしコカコーラのように、さくっと読めて後に残らない、爽快ライトなイヤミスを求めているのなら、『殺戮病院』『ギロチンアイランド』をお勧めしたい。

「殺戮病院」は感染すると凶暴化する古代ウィルス、閉ざされた病院、戦うナースや警官とバイオハザードを彷彿とさせる内容。
血と臓物がテンコ盛り。殺人ピエロがわらわたを振り回しながら迫ってくる、殺戮カーニバルである。 

殺戮病院 (マグノリアブックス)

殺戮病院 (マグノリアブックス)

  • 作者: ブレイク・クラウチ,ジャック・キルボーン,ジェフ・ストランド,F・ポール・ウィルスン,Blake Crouch,Jack Kilborn,Jeff Strand,F. Paul Wilson,荻窪やよい
  • 出版社/メーカー: オークラ出版
  • 発売日: 2016/04/25
  • メディア: 文庫
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「ギロチンアイランド」は、お金持ちが税金対策用に購入した地中海のリゾート島が舞台。別荘の管理人という美味しいバイトに潜り込んだはずのヒロイン、マーラ。
理想の島で、午前中は簡単なお仕事、後は仲間とパーティパーティの極楽生活のはずが、島の恐ろしい一面が見えてきて…という孤島サスペンス・ホラー。

問題点はただ一つ。この島にギロチンは無い。邦題どうした…⁉

 

断頭島 (ギロチンアイランド) (竹書房文庫)

断頭島 (ギロチンアイランド) (竹書房文庫)

 

 

どちらもB級映画っぽい作品。
1、2時間で読めるボリューム、映像的で、美味しいところをちゃんと掴むストーリー展開が魅力。

知らない作家さんの、どう転ぶのか分からない物語を手探りで読むのも面白いけれど、旅に連れて行くのならこういう枠組みのしっかりした、定石の面白さが詰まった作品が良い。

期待通りにワクワクさせてくれて、読み終わったら宿の書架に置いて帰れる。
後を引かない、ファーストフードのようなボリュームと手軽さ。
ライト・イヤミスの名で呼びたい作品である。

 

さて今紹介した2作品が洋のイヤミスならば、和の定石、三津田信三さんの《刀城言耶》シリーズもおすすめ。

奇譚を収集する主人公、変わった風習のある村、美しい家人、世継ぎをめぐる争い…そしてきれいに解けたかのように見える謎が、ほんの少しの後味の悪さと共に消えていく。まさに横溝正史の世界観である。

  

首無の如き祟るもの (講談社文庫)

首無の如き祟るもの (講談社文庫)

 

 

 こちらのシリーズは大好きで、多分全部読んでいる。
多分と言うのは表紙、タイトル、話の展開が似すぎていて区別がつかなくなってきたのである。

区別がつかないものを読む意味は?と聞かれそうだが「孤独のグルメ全シリーズ」と答えたい。
たとえワンパターンの展開でも、その世界が大好きならば、浸れる幸せと言うものが存在する。

読んでいる間は夢中でその世界に浸りこみ、怖さに震え、本を閉じれば現実に帰れる。
私の中でグロい=怖い、血生臭い物語と言うのはどこか予定調和で、爽快な作品が多いのである。

 

予定調和を外れた物語の『気持ち悪さ』

 

ところが気持ち悪い小説、となるとまた話が変わってくる。
私が小説に感じる、「気持ち悪さ」は肌感覚の問題だ。

なんだか収まりが悪くて、読んでいる間何処に身を置いたらいいのか分からなくて、脳みその裏側をざらざらとヤスリで削られているような感覚。
そんな物語を私は「気持ち悪い」と呼ぶ。

例えば竹本健治の「クレシェンド」。
あるいは恩田陸の「ネクロポリス」。

クレシェンドは昔軍の施設だった、職場の地下2階の謎を解くミステリからアマノウズメの神話へと物語が転換する。

 

クレシェンド

クレシェンド

 

 

ネクロポリスは英国と日本の文化が奇妙な融合を見せている島を舞台に、一年に一度、生者と死者が再会することができる「ヒガン」と呼ばれる祭りを描いている。
ヒガンの最中、話題の殺人鬼「血塗れジャック」に殺された被害者から証言を聞こうと意気込む生者たちの前に、次々と事件が起こる、ファンタジックなミステリー。

…ミステリーだったのだが、なぜかふわっと旅行記のように終わる。

 

ネクロポリス 上 (朝日文庫)

ネクロポリス 上 (朝日文庫)

 

 

ネジが上手く組み合わさっていない。ギブとハブが、と言いたくなる。
ただこれが作者の失敗なのか、思惑なのか、それとも物語自体がこうなろうとしたのか、そこの所がよく分からない。

物語の力が強すぎて、繋がらないものを混沌のまま纏め上げるから私には分からないのだ。この物語が失敗したのか、それとも収まるべきところに収まったのか。

特に竹本健治氏はミステリ―作家としてデビューしたのち、狂気や神秘の物語に傾向していくので、「クレシェンド」をミステリとして読み始めてしまった私の視点が最初から間違っていたのだ、と思う。でもこれミステリとして読みたかったよ…!

継ぎ合わされたパイプが噛み合っていなくても、水が流れるなら物語を生きているのかもしれない。

こうした小説はざらざらして、異質で、いつまでも心に残る。

 

恩田陸さんの小説は、時折結末が定まっていないような印象を受ける。
物語の導入部にはルートA、ルートB、いくつかの道筋があってそこから自然と分岐していくような。あくまでも私のイメージだから、実はきっちりと練り上げて書いているのかも知れないが。

私は多分描かれなかった、ルートBの物語が読みたかったのだ。
だから物語にざらざらした違和感を感じる。

物語の途中で置き去りにされた私のかけらは今も、地下2階で謎を探している気がする。

こういう本は旅先に置いてこない。ただし本棚の目立つ場所にも並べない。
そっと物陰に隠しておいて、体調の良い時にこっそりと開く。
そして「うわーやっぱり気持ち悪い!」と本を閉じる。

わからないし、気持ち悪いのだが私は結局これらの物語が好きなんだろう。


そういえば私は、どんなホラー映画より「ピクニック・アット・ハンギングロック」が一番気持ち悪い。

ピクニックに出かけた4人の女学生が居なくなる。
一人だけが帰って来るが、彼女の話は要領を得ず、何が起きたのかは結局よくわからない。

映画の中で、世界はただただ暑い。
めまいがするほど暑くて、少女たちは帰ってこない。
そこに答えなんてない。

この映画は実話を基に描かれているーと思っていたのだが、実は創作なのかも知れない、という疑惑があるらしい。

 

ピクニック・アット・ハンギングロック [DVD]

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物語が予定調和を乗り越えて「作者にもわからないかもしれない混沌としたもの」に取り付かれたような作品。

それは現実によく似ていて、そんな「よくわからない話」が私にとっての気持ち悪い、なのだと思います。そして私は、この鳥肌が立つような気持ち悪さが実は好きです。


昆虫を食し、綾辻行人の『殺人鬼』をこよなく愛するカンドー嬢がグロい、気持ち悪いと感じる物語ベスト3はいったい何なのでしょうか?
私はそっちの方が気になります。

そして「深夜に鳴る電話」「偽ブログ」「学校からの呼び出し」「2ちゃんにスレが立つ」。このように、人生には怖いことがたくさん。

そうした背筋が凍るような現実の心地悪さ、恐怖にフィクションは勝てるのでしょうか?

実は私は饅頭よりも小説よりも、現実が1番怖いです…。

カンド―嬢が真の怖さを求めているのならば、それは現実に、SNS上にあるのかもよ?とさりげなく誘って今日はおしまーい。

 

PS:ごめん…今日バレンタインデーだったね。よりにもよってのタイトル。
でもチョコと血はよく似ているので君にプレゼントだお♡ってことで一つよろしく…!