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恋愛に論はいるのか?論

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青二才さんのこの記事を読んで、いろいろ考えてしまった。

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ご自身の『迷い』がストレートに出た記事だと思うし、家族と言う複雑な関係の辛さ、しがらみは本人にしかわからない。

ただ青二才さんの中に「結婚してこそ一人前」と言う旧来の考え方が残っていて、だからこそ苦しいのではないか、とは思った。

ご本人も書いていたけれど、友達がいて楽しいならばそれで良いではないか、と思う。
結婚したから健康で長生きできる、結婚したから大人として認められる、はイコールではない。1人できちんとした生活習慣を保てる人もいるし、若いうちから大人の考え方を身に付けている人もいる。

大体他人に結婚しているか、恋人がいるかなんて個人的なことを質問する、仕事の場で個人じゃなく家族として評価する、と言う意識がもうオワコンなのだと思う。

40過ぎて独身のやつはヤバい、なんて言う人がたまにいるけれど、結婚してようがしてまいが、ヤバい奴はヤバい。

結婚や恋人を便利な資格扱いしてないで、その人がヤバいかヤバくないか、あなたが決めればいい話なのだ。
私は私だし、誰かの妻だなんて付属品扱いされるのはまっぴらだ。

 

と、自分の見解が出てしまったが、あの記事は青二才さん自身の人生のエントリ。

自分の居心地の良い場所は自分にしかわからない。
迷いながらも5年後10年後、いつか自分なりの答えが出たらそれは同じように悩む人の指針になると思う。


引っかかりを感じてしまったのは、青二才さんが「女性の気質論」みたいなものを挙げて、そういうところが苦手で、だから上手くいかないのだと結論づけてしまっていたところ。
女性はこう!と言われるとなんか辛い。
もちろんそうじゃない女性がいることが知っている、と言うエクスキューズは書かれていたけれど、そうじゃない枠に入っていてもあんまりうれしくない。
男性はこう!と言う全体像の記事があって、もちろんこういう男性は違いますよ、と丁寧に配慮されていたとしても、やっぱりもやっとしないですか…?

 

「というもの」とは付き合わない、という表明


男と言う概念、女と言う概念を書いて、彼らはこうだから自分は彼らとは上手くいかない、と言葉にするのはとても容易い。

ネットにはそんな「私が異性と付き合わない理由」が溢れている。

でもあなたは、叩かれている「男というもの」の概念の中に、本当の自分がいると思った事はあるだろうか?
叩かれている「女というもの」の概念の中に、本当のあなたはいる?
結局本当の自分なんてネットの中にはいないのだ。


それを知っているのに異性に対しては「というもの」というつまらない型枠を嵌めてしまう。

男なんてそんなもの、女なんてそんなもの、と知った気になるのは簡単だ。
でもあなたは『そんなもの』の中に住んでいますか?

自分が違うなら、相手だって違うかもしれない。
小さな想像力を持つだけで、世界の見方はガラッと変わる。

男子校育ちだったり女子校育ちだったり、異性に距離があると近づくのも怖い、という気持ちは分かる。

でも異性と言う森を遠くから眺めて、あんな場所!と毛嫌いするのはどうだろう。

森の中には大きさも、枝ぶりも、品種だって異なる木がたくさん生えている。
1つとして同じ木は無いのに、森だけを見て木を眺めないでどうする。

私は森に分け入って、たった1本、自分によく似た木を探したい。
そしてできたら、手を取り合って平原に歩いていきたい。

 

たった1つの木の選び方

 

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私は年も価値観も雰囲気も、よく似た人の隣にいるのが一番心地いいと感じる。
でも相手に過剰な夢や理想を追い求めてしまう人もいる。


森の中でも1番目立つ、華やかな木ばかり追い求めてしまう人。
そうして森の中に入る前にどうせ理想の木は手に入らないから、と諦めてしまう。

そういう人たちは、自分が思い描く理想の自分と、現実の自分とのギャップが大きいんじゃないかと思う。
だからすごく大きくて立派で、華やかな木を手に入れたら、人生に大逆転が起きるんじゃないか、本当の自分になれるんじゃないかと考えている。

 

私は恋愛も結婚も、人生を一発逆転させる宝くじじゃなくて、もともとある幸せをほんの少し上乗せしてくれる、小さな底上げみたいなもんだと思う。

自分をちゃんと好きになって、日々の暮らしが幸せだと思えるようになったら、身の回りにいる自分と同じ価値観を持つ人、見栄を張らずにそのままの自分でいられる相手を、自然と好きになれると思う。(身の回りに本気で相手がいないパターンもよくありますが…)

 

実は私は、恋愛も結婚もあんまりフェアじゃない、と思っている。

私は相手に快適でいてほしいとか、喜んで欲しいと尽くしてしまうし(そうすると家事は均等割じゃなくなる)向こうも何でも半分、と言いながら私の苦手なことを知らない間にやってくれたりする。

私たちはお互いに自分の方が損をしている、でもこの人だから仕方ないか、とほんのちょっとの特別扱い(結局それを愛と呼ぶのかな?)を認めながら暮らしてるんじゃないか、と思う。

誰かと共に暮らすと言う事は、自分の心なり時間なりを、わたあめみたいにちぎって差し出してあげることだ。

わたあめを同じサイズ、同じグラム数で均等割り!なんてギチギチに測っていたら縮んでしまうし、誰かに分け与える余裕のないサイズなら、まずは自分の心を満たすことが一番だと思う。

一緒に並んで花火を見たくて、大きいほうのわたあめを躊躇せずに差し出してあげられる人。その人はきっと男とか女じゃなくて、私にとって特別な名前を持っている。

 

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まずは自分を好きになること

 

私の知っている一番素敵な独身女性は、保育所の所長先生をやっている。
子供だけではなく、お母さんのいいところまでたくさん見つけて、いつも褒めて愛しまくってくれる、素晴らしい先生だ。

みんなの愛に包まれすぎて、たった1人に絞れなかったのよ。
そうやって笑う彼女のことを、独身だから不完全だ、なんて誰が貶すだろう。

『お母さん、今日も笑顔が素敵!』『颯爽としてかっこいい!』
所長先生は、朝の玄関でいつも子供たちより、私たちを褒めてくれた。

もういい大人なのに先生に褒められるとなんだか嬉しくて、慌ただしい中でも笑顔で子供とバイバイが出来たことを思い出す。

先生は私たちに、毎朝ひとかけらのわたあめをちぎってくれたのだ。

 

私たちは、実はみんなすごく頑張ってるんだと思う。
でもネットのおかげで、世界が見えすぎるくらいに可視化されちゃって(それも上位数%が大多数みたいに見える偏った世界が)結果が得られないから、評価されないから不幸だと思うようになってしまった。

確かに、恋愛で承認欲求を満たすこともできるだろう。寂しいとき隣にいてくれる誰かが欲しい気持ちもよくわかる。

でもその前に、もっと自分の「すごーい!」を認めてあげても良いのではないだろうか?
恋愛は生クリームみたいなもの。
自分の土台がしっかりしていなければ、崩れ落ちてしまう。
私が『私』を好きじゃないなら、どうして誰かに自分を好きになって、と言えるの?

 

自分を一番幸せにできるのは、結局自分自身だと私は思う。
異性にたくさんモテる人より、自分で自分を適切に認めてあげて、自分の幸せを周りにふわふわまき散らかせる人が一番素敵。

 

私にとってのわたあめばら撒き系ブロガーは加藤はいねさん! (なにあの盆と正月がいっぺんに来たかのような更新の喜び!?)

d.hatena.ne.jp

あの域にはどうやって…?しかもはいねさんもしかして年下…?