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養老孟司「他人の壁」と私の壁

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養老孟司さんの「他人の壁」を読みました。

結論は一番最初に書いてあって、自分と他人は違うのだから理解できなくて当たり前。ぶつかり合わないように回避すればいい、という話だった。

そして自然とそういう風に思えるようになるにはどうすればいいのか、というメソッドが語られている。

 自分と他人は違う、はよく分かる。
そして自分と違う、自分の道義に反しているように思えても、他者の考えを一方的に改めようとしてはならないのだと思う。

 

ただ幼ない頃から「あの子は違う」が指針になる世界で育った私たち。
私自身、転校生として『お前は私たちとは違う、異物である』とがっつんがっつん削られながら大人になった。

今の私が同調圧力にめっぽう弱く、その場に適した服装、目立たない態度を好んでしまうのはその頃の経験が一因だと思う。

本の中には自分と他者の違いに苛立ちを覚えないように、自分の世界を複数持つこと、広い視野が大切であると書かれていた。

 

これは私の勝手なイメージなのだけれど、他者の小さな逸脱や歪みが絶対に許せない、強い言葉で罵倒せずにはいられない人の根底には『過剰な我慢』があるような気がする。

現状に不満がある、しかしこの場からは逃れられない(と思い込んでいる)。
仕方がない、それが責任であり果たすべき勤めで当たり前のことだ、と知らず知らずのうちに度を超えた我慢をしてしまう。
そうすると自分とは違う立場の人間の逸脱が、自分の努力を不当に踏みにじっているように思えて憤るのではないか。

しかし苛立ちをぶつけられた相手はあなたとは違う人間なので、法的なものでもない限りあなたの正義は適用されない。
また、いくら罵倒をぶつけても、相手を粛正したとしても、あなたの根底にある不満は消えない。

大切なのは、本当に我慢し続けなくてはいけないのか?と自分自身に問いかけることだ。

私たちはもう狭い枠の中に住む中学生ではない。

家庭と職場の往復だけではなく、自然な息が吐ける趣味の場を探してもいいし、退職も転職も、してはいけないだなんて規約はどこにもない。

もう少し自分に自由を、違う世界を許してあげられたら、他者の違いも素直に認められるような気がする。

 

森というスイッチ

 

本の中でもう一つ面白いと思ったのは養老孟司さんは定期的に森に行く、という話。
都会を離れることがちょうどいいリフレッシュになるそうで、会社員は都会と田舎両方で過ごす、参勤交代の生活をしたほうがいい、とのことだった。

都会の人間は時に田舎に行くべきで、田舎の人間はたまに都会に出てきたほうがいい。
都会と田舎のトレード、という話を聞いて気が付いたことがある。

私も家族も田舎が大好きだけれど、年に数回都会に行きたーい!という衝動に駆られるときがある。 そうして意気揚々と出かけて行くのだけれど、くたびれ果てた帰り道には街灯の少ない、暗闇と静寂に包まれた我が町の様子にやっぱりここが一番、と思う。

私にとって年に数回の都会は、良いスイッチの切り替えになっているのかも知れない。

 

ちなみに私が一番リフレッシュできる、脳のスイッチが切り替わったな、と実感できるのは山の散歩。

近くの山道を、誰もいない時間帯を狙って軽く登って降りるだけ。
自然の中で一人という環境、それから上り坂の軽い負荷が私の頭を真っ白にしてくれる。

時折何かの気配がして(熊、サル、鹿、キジは見たことがある)心臓がギュッと縮みあがるのもまたいい。時間が止まったように感じられて、頭や体は機敏に動く。

外敵に仕留められそうになった動物が奇跡的に逃げのびる時も、自分の体をこんな風に感じているのではないだろうか。

山ではどんなに健康に留意しても、自分の命すら自分の思い通りにはならないのだ、と実感させられる。 ましてや他人の思考に口出ししようだなんて。

 

それでも、養老孟司さんの本にすごーく納得できる!と溜飲が下がった私は。
誰かの思考や感情を理解したい、という欲求から逃れられないのかも知れないなぁ、と思いました…。

 

あなたと私は別の人。
思考を画一化するのは気持ち悪い。
それなのにあなたがそう思った理由が知りたい、理解したいと思うのは、甘ったるい感傷なのかなぁ。でもそれでも私は。

 

今日はそんな感じです!

 

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