おのにち

おのにちはいつかみたにっち

濃いファンタジーあります!-乾石智子『炎のタペストリー』

乾石(いぬいし)智子さんの『炎のタペストリー』を読み終えた。
『夜の写本師』というシリーズでデビューして以来、ずっとハイ・ファンタジーを書き続けている作家さんだ。
『炎のタペストリー』は一巻完結の物語なので、彼女の作品を初めて読む方にはちょうど良い導入部になると思う。

 

炎のタペストリー (単行本)

 

ソフトカバー300ページ弱。
程よいボリュームのこの本を読みながら漏れた言葉は「こゆい…」だった。

濃い、とにかく濃いのだ。
1~2時間、ゆっくりでも3時間程で読み終えられる物語の中に、少女の半生がぎゅっと濃縮されている。

 

ヒロインは5歳の時に、強大な魔法の力で山一つ焼きつくしてしまった少女エヤアル。
彼女の強すぎる魔力はその火の中から現れた伝説の鳥によって、持ち去られてしまう。

魔力を失ったあとも自分が滅ぼしたものを思い、贖罪の思いを胸に抱いて大きくなった少女の願いは家族と共に自分の生まれた場所を守っていくことだった。

しかし戦乱の波が家族を襲う。
戦う力のある男達、魔法の力を持ついとこたちは次々に徴兵され、二度とは戻ってこなかった。

魔力を持たないエヤアルも、14になる年に砦へと強制連行されてしまう。
砦のなかで忙しく立ち働くうちに、抜群の記憶力を見出され、歩哨の仕事を手伝うようになった彼女は、やがて王の祐筆となり、様々な言葉や文字を学ぶための旅に出ることになる…

 

物語のあらすじはこんな感じ。

魔法の力を失った少女は丘のある集落で家族と共ににぎやかに暮らし、やがて戦乱の波に飲まれていく。
思いがけぬ徴兵だったが、同じ年頃の少女が働く砦は活気に溢れ、洗濯や食糧庫の管理と慌ただしい日々に馴染んでいくエヤアル。
やがて歩哨として、戦場で見たことを全て報告することを教わり、自分の頭にある記憶を言葉にして伝えることを覚えていく…

と、ここまでの物語がたった50ページほどで語られてしまうのです!
これが『王家の紋章』だったら10巻は掛かりますがな。

その後も王の傍らで祐筆としての仕事を覚え、王弟の従者として長い旅を経て帝国へ、そこで様々な言語を学び、更に優秀な祐筆として育っていく。
しかし帝国にも戦火の波が。

エヤアルはかつて失った力を取り戻すことが出来るのか?
そして強大な力は、本当に彼女が求めるものに繋がっているのだろうか…というお話しである。

正直終盤はページ数が足りるのか⁉とドキドキしながら読み進めていたが、見事な幕引きでした。しかもエピローグまで。

 

これだけ盛りだくさんなファンタジーが1冊で読めてしまうって、かなりお得だと思う。特に壮大なファンタジーはシリーズ物が多いので、なかなか時間が、でも久々にファンタジ―読みたい!という方にはオススメしたい一冊。
多少急ぎ足ではあるけれど、良質な物語がぎゅっと濃縮されて詰まっている。

少女の成長という読みやすい題材、森の向こうの不落の砦、巡礼の旅、魔法の館と言った数々の魅力的な舞台。

何より玉髄(石英の細長い結晶が網目状に集まった鉱物)に例えられるヒロイン、エヤアルがいい。外側は何の変哲もない石ころなのに、中には尖った水晶がびっしりと詰まっている、そんな激しさを内に秘めた少女。

 

ボリューム的に、どうしても駆け足の物語になってしまうので、エヤアル以外のキャラクターの掘り下げ方が足りなかったなとか、魅力的な舞台をもう少しじっくり楽しみたかった、という不満は多少あるのだけれど、人物ではなく物語を描き切る方に舵を切ったと思えばこれはこれでありかと。

何より、こういう勢いのある物語は読んでいて楽しい!
乾石さんは多少癖のある、硬質な文体の作家さんなのだけれど、この本は少女が主人公なので読みやすく、物語もグイグイ進むからページをめくる手が止まらなくなる。

読むのが早い人なら1時間半、短い映画一本分くらいの時間で良質なファンタジー世界にどっぷりと浸かれる。本は自分のペースで読み進められるところがイイのだよな…と駆け足で架空世界を楽しんだ小野でした。

 

炎のタペストリー (単行本)

炎のタペストリー (単行本)

 

 

仮設と虚無で満たされて

仮設を甘く見てはいけない、という増田を読んだ。
なんか分かる、すごく良く分かる。

 

anond.hatelabo.jp

 

何かが壊れた時、間に合わせで手近なホムセンなんかの商品を買うけれどそういう品に限って思いかげず丈夫で、長く付き合う羽目になってしまったりする。

じっくり選んで買う商品は自宅のコンセプトにあったデザイン(色は3色まで、四角いのが好き)にするけれど、仮にはさすがに求めない。ところが思いがけず仮が本妻になってしまったがために、家のデザインが崩れていく。

一度どこかに仮設を導入してしまったらもうダメで、その後はなし崩し状態である。

温かいからいいか、と毛玉のつきやすいモフモフクッションを許し、かわいいからいっか、と無駄な下駄箱上のお土産系置物を許してしまう。

こうして夢のシンプルモダンハウスは実家になる。
許すまじ、仮設。

…でもニトリの抱きまくらいいよね。子どもがゲームする時、いつも下敷きにされてます。果たして我が家は無事脱実家できるのであろうか、モフモフモフ。

 

 

さて、私には仮設の他に仮の姿勢、という悪癖がある。

洗濯機があと5分で止まるから、スマホチェックしちゃおうとか、DSやろうとか、読みかけの本持ってきたりとか。
壁に寄りかかって、立ったまま5分潰した、はずの休日の朝。

…気がつけば立ったまま30分が経過。洗濯物は軽く皺がついている。
こんなときいつも思うのだ、こんなことならちゃんとコーヒーを入れてソファに深く腰掛けて、万全の姿勢でゆっくりと楽しめば良かったと!

 

我が家には快適なソファがあり、ラグが敷かれ、大画面のTVがある。
AmazonプライムビデオもTVで見られるし、映画を見るならそこでじっくり楽しめばいいはずなのだ。

なのに私は、ジップロックに入れた小さなタブレット画面で、風呂場で映画を見てしまう。そしてほんのちょっと、のつもりで最後まで見てしまう。

いつもお湯が冷めきってくしゃみが出た時点ではっ、と気が付き、物悲しい気持ちで風呂から上がる羽目になる。最初から風呂を早めに切り上げ、TVでゆったりと映画を楽しめばよかったのに!

他にも台所の折り畳み三脚に座って文庫本を読み終えたから尻が痛い、とか畳で正座でDSを一時間遊んでしまったから痺れて立てない、とか仮の姿勢が多すぎる。

そこに快適なソファがあるのに!
しかしソファに座ったら座ったで、やらなきゃいけない事を思い出しすぐ立ち上がる羽目になる。その時つい手元にあったスマホなり本なりを持っていって、読みながら済ませよう…なんて思うから仮姿勢はどうどう巡りである。

なんつーか、家事をやるときはちゃんと集中して一気に終わらせて、その後心置きなくダラダラすればいいだけの話なんですけど、それは分かってるんですけど!
実際は30分家事のハーフタイムに15分読書、実質45分かかる、という体たらくです。
ほんのちょっとの空き時間にスマホチェックしよう、と思ったら30分ネットサーフィンとかザラですし。

子どもがYouTubeで虚無動画見続けてるのこわい、みたいな話がありましたけど、その沼いいオトナもやばいっすよね?

我が家の子どもたちはちゃんと時間決めてやらないとホントにずーっと動画見てるし、私自身もそう。さすがに動画は見ませんが、仕事の出勤時間とか家事とか、差し迫ったことがないとスマホやゲームで時間を忘れてしまいます。
家族がいるからちゃんと決まった時間に食事作ったり掃除したりしているけれど、一人暮らしだったら絶対こんなに規則正しく暮らせる気がしません。

こんなに無料の時間潰しアイテムに事欠かない世の中で、一人でも『ちゃんとした生活』を送れている人はそれだけでスゴイと思う。
帰ってきて、ちゃんと着替えてご飯作って、後片付けやお風呂が終わってからゆっくり映画を見る、とか。
着替えの途中でスマホ見ちゃって、気がつけば脱ぎかけのまま30分経過…とかないですか?私の人生そんなんばっかりです…。

 

仮設とか虚無とか、色んなものに人生を食いつぶされてる気がする今日この頃。
この文章もお昼休みの15分だけ書こう、残りの15分は銀行行こう、とか思ってたのにもうすぐ勤務時間!

もうちょっと有意義に生きたい、と思ったけど今の私が時間作ってやりたいことって逆転裁判の古いソフト全部と逆転検事をもう一周したい、なのよね…(6終わったのでついムラムラと)。はたして有意義とは?

 

あーあ。とにかく今は除雪時間を減らしたいおのにちです。
家でも職場でもまずは最初に雪をかたさないと何も出来ない、ってどういう事なの?
肩も足も筋肉痛、そのうち立派な道産子(馬)が出来上がりそうです…。

 

頑張れドサンコ―釧路湿原トレッキング

頑張れドサンコ―釧路湿原トレッキング

 

 

幸福なエッセイ0時代

かつてエッセイとは、小説家とか詩人とか、選ばれしものが綴るものだった訳です、特に昭和の時代には。

銀色夏生とか原田宗典とかさくらももことか、学生の頃はみんな読んでましたっけ。
それから山田エイミーとか、龍の方のムラカミさんとか(当時はそんな風に対で評論されてましたね)、たくさん影響受けました。
今考えたらエイミーの真似してドレッドにしたり刺青入れなくてほんと良かった…少女の憧れは恐ろしい。

三浦しをんさんの腐りっぷりがめっちゃツボ!で、林真理子さんのキラキラバブルがどうも理解できなかったのは生まれた時代の問題なのか、それとも単なる気質の問題なのか。
あとは椎名誠さんとか、群ようこさんとか。
『本の雑誌』が元気だった頃で、目黒孝二さんの『笹塚日記』とかなぜか好きだったんだよなー。

今考えるとハタチそこそこの女の子が、仕事して昼メシ食べて、週末は競馬に行く(そしてひたすら本を読む)オッサンの日記を読んで何が面白いのか…と思うのですが、孤独のグルメみたいに、なぜか癖になる味わいがあったのです。

  

笹塚日記

笹塚日記

 

 

あの頃のエッセイって、名のある人が綴る普通の日記、だったんですよね。
もちろん文章としての楽しさや美しさはたっぷり詰まっていたけれど。

今でもエッセイ読むの好きです、角田光代さんとか、穂村弘さんとか。
穂村さんは下駄箱の上に親が置いた菓子パンをベッドで食べて寝落ちして、寝床をパン屑だらけにするオトナだったのに気がつけば結婚して、皿の裏が洗えない夫に進化していました。エッセイで書き手の成長を知る。それもまた楽しみ方の一つです。

  

君がいない夜のごはん

君がいない夜のごはん

 

 

はてさて、そんな幸福なエッセイ0時代を経て、今はエッセイ2.0時代。

要するにweb2.0と同じような定義です。
かつては送り手から受け手へ、発信の流れは一方的だった。
それが
今や、誰もがウェブサイトを通して自由に発信できる時代。
私もあなたも、誰でも無料で、手軽にエッセイストになれるんです。

 

けれどもそんな時代だからこそ、文章で生きていくことは逆に難しくなった。
phaさんでさえ、そんな話を書いています。

 

note.mu

 

 かつて『きらびやかな作家の暮らし』は子どもの憧れだった訳で。
でも昨今、実際に専業で生きていける作家さんは本当に一握りなのではないかと思います。

書店の棚を見ていても分かるけれど、平台に山積みされているのは賞を取ったり、映像化された一部の話題作だけ。根強いファンを持つ古参の作家以外は、新刊が出ても1、2冊棚に置いてもらえれば上々といった感じでしょう。
マンガや実用書といったジャンルはまだまだ活気がありますが、小説は年々スペースが減らされている気がします、特に地方では。

 

みんなが手軽に書けるようになって、文章は無料で読めて当たり前、の時代がやってきた。それはありがたいことなんだけど、本気で文章で生きていきたい、と願う人にはたまったもんじゃないよね。競争にすらならない。

だからみんな文章に付加価値をつけてなんとかやっていこうとする。
便利で役に立つもの、実用性があるもの。しかもそれらが短時間でスピーディに得られるもの!

検索に引っかかるように2千字以上書け、なんて話もありましたが、だんだんそうした長文伝説は終コンなんじゃないのかなぁ。

最近は1分程度で調理過程が全部分かる「レシピ動画」なんてものが人気ですが、ブログもいずれはそうした動画に食われてしまいそうな気がしています。

私は小説のレビューを書くのが好きなのですが、もともと検索流入の少ないジャンルな上に、タイトルにネタバレ!と書いてあらすじから結末まで、読まないで済むくらい詳細に書いてあるサイトにはもちろん到底かないません。

でもそうしたネタバレサイトも、『1分で分かる〇〇あらすじネタバレあり』なんて動画が出てきたら死滅しますよね。サイトも死ぬし、そんなに簡単に読んだ気になられたら本も死ぬ。このままじゃいずれ文章は焼け野原を迎えるんじゃないの?

 

もちろん、お金にならなくてもいいから趣味で自分の好きな文章を書いて行きたい、と思う人は残ると思います。私自身、正直そんな感じですし。

そりゃあ収益化したいけど、そんなに甘い世界じゃないっすわ。
稼いでる人は地道にコツコツ努力しているか、もしくは稼いでる事をアッピールしてそれを商材化しているか、そのどっちかです。
つまり楽して生きる人生を君に!なんて言ってる子はその本を買ったあなたを養分にして楽して生きてる訳です。

 

…話がズレました。
私が心配なのは、本も、素敵なエッセイも、いずれ動画に飲み込まれて消えてしまうんじゃないかってこと。

幸福な0時代には若くてお金が無かったから、読みたい本が多すぎて悲鳴を上げてました。今思えば、読みたい本が多すぎてお金が足りないなんて、どれだけ贅沢な悩みだったことか。

ようやく少しのお金が出来た今、好きな雑誌はどんどん休刊に追い込まれ、それらで連載されていた軽いエッセイは軒並み死滅状態です。
ネットで無料で読める、素敵なライターさん達のエッセイも、更新は途絶えがちです。そうだよね、みんな生活があるんだもん。

今の私に出来ることは、私だけの笹塚日記を探して、それを応援することだけです。
ブックマークなりSNS拡散なり、コメントなりスターなり。
読んでますよ、あなたの文章が好き!
これは簡単に繋がれる、今の時代だから出来ること。

 

全てが無料で毎日クオリティの高い文章が届けられて当たり前、なんて書き手の善意に甘えていたら、いつか全てが消えてしまいます。

私が大好きな文章を『もっと読んで!』と上手く拡散出来たらな。
本のレビューも基本そんな気持ちで書いています。どうか買って!読んで!
それが続編や、新刊に繋がるんですもん。

ただ個人で静かに運営されている方のブログだと、勝手に拡散しちゃっていいのかな、なんて腰が引ける部分もあるんですが。逆に邪魔になったらどうしよう、と思ってブックマークからTwitter連携を外すこともあります。ここらへんの線引きが難しいんですが、とにかく次回待ってます!が届いたらいいなぁ。

 

もはや『書く人』は神様では無くなってしまった。
儲からないし、SNSではダイレクトに叩かれたりやっかまれたりするし、不遇の時代。
だからこそ、私は読ませてもらった感謝を込めて、自分の好きな作家さんはチヤホヤもてはやしたいなぁ…なんて思うんです。将来の読みしろを確保するためにも、せめて好きな人には生き残ってほしい。私の2.0対策、とりあえずそんな感じです。

 

世界の終わりと増殖するポトス

先日SFチックな短編小説を書いた。壁で分断された世界の物語だ。
日本中、もしくは世界中が謎の壁に囲まれて、隔てられている。

要するにドラマ『アンダー・ザ・ドーム』(町がドームに覆われ、外部から遮断される)のような状況が、世界中で起きたらどうなるか?という話だ。
町や区、あるいは県単位。会社の一部、家一軒と言った小さな壁もあるかも知れない。

私は自分が住む田舎町を舞台に、手紙という形式で書いてみた。
とても短い、思いつきの物語である。

 

yutoma233.hatenablog.com

 

でも手紙を公開したら思いがけない返事が返ってきた。
別の壁に隔たれた町からのメールである。

 

死の壁に覆われた町からの短い手紙 - ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

見えない壁に覆われた町からの手紙 - ダメシ添加大戦

柔らかな壁の中からの手紙 - ダメシ添加大戦

 

言及が来て開いた瞬間、うわぁこちらの町はこうなっているのか、と本当に物語の世界に取り込まれたようで、楽しかった。

ブログは基本一人で書くものだけれど、こうやって誰かとナニカを共有できたような気分になるのも悪くない。私は遠い町に住む誰かと、共作したことがあるんだぜ、って誰かに自慢したくなる。

その後も謎のメーラーアプリの都市伝説や、このメーラーを見た人はメールせずにはいられなくなる、というかわいくて怖い強制文が続き、世界が広がっていって面白い。

 

ユーゴーリム(UGORIM) - ぼくと、むじなと、ラフカディオ。

メーラー - ダメシ添加大戦

 

これはたった三人の小さなブームだったけれど、トイレの花子さんとか口裂け女みたいな都市伝説も、元は小さな噂で、それを聞いた誰かがもっと怖く語ってみたい、と思ううちに枝葉がついて本当に伝説になってしまったのだろうな、と思う。
物語が伝播して、増殖していく感覚。それは少し怖くて面白い。

 

世界の終わりに何が残る?

 

私も終焉の町の続きか、別の町の物語を書きたかったのだが、実は終焉の町はいずれ本当に終わる、と書いた時から考えていた。

あの小説で描かれているのは終焉の町が上向きはじめた時の話だ。
実際ああいう状況下に置かれたら、出生率は一時上昇するだろう。
町は昔のような賑やかさを一時は取り戻す、かも知れない。しかし人口を増やし続けることは出来ない。それは外部から食料を輸入することが出来ないからだ。

やがて水や食料の限界値から、終焉の町が支えていける人間の数が導き出され、新たな子どもを得るために食料を与えて貰えない高齢者も出てくるだろう。

そうやって適切な人口や、コミュニティを維持するためだけに生きているような生活が長く続いたら、人は生きる意味も子を生す意味も失って、緩やかに滅びてしまうのではないか、と先の話を想像しながらあの物語を書いた。

 

壁に閉ざされ、限界のある終焉の町では生産性を持たない人間は排除され、生まれてきた子どもは未来の生産者としてカウントされる。それは年金支給年齢がどんどん遠くなり、未来の納税者として子どもが手厚く扱われる現代と何が違うのか、という話だけれど。

 

私は生き物が必ず死ぬように、お皿が必ず割れるように、人類はいずれ衰退するのだろう、と常識のように思い込んでいる。この思い込みはどこから来たのか?終末SFの読みすぎか?

何百年か、何千年後か。
とにかく世界から人がいなくなる時は、必ず訪れるのだろうと思う。
そしてその時町に何が残るのか?

 

私は植物だと思っている。
廃墟は必ず、緑に飲み込まれる。

世界で一番繁殖に成功したのは植物なんじゃないか、と毎年庭の草を刈る度に思う。
刈っても毟っても、除草剤をまいても、心地いい雨と光が通り過ぎた後は必ず柔らかな芽が姿を見せる。可憐な花で人の心を許し、気がつけば一面に増殖するあのしたたかさ。

チェルノブイリ周辺の町も、今は森に飲み込まれてしまった。
永い冬が訪れても、一粒の種が残っていれば彼らは増殖し続けるのだろう。

 

ポトス、という日本で一番ポピュラーな観葉植物がある。
あれは伸びた枝を節の下で切って、挿してやるだけで簡単に増えるのである。

ただ不思議なことに、元のポトスは白い模様や淡い色合いだったのに、切りとった枝は濃い緑に原種帰りしてしまうことがよくある。
そして濃い緑の葉は淡いものよりも成長が早く、たくましい。

かつて一つだったとは思えないくらい色の違う二つのポトスを見ながら、物語の伝播もそういうことなのかも知れないな、なんて思う。

いつか全てが緑に覆われる前に。
小さな言葉の種を世界にまき散らしていくのも、そう悪くないあがき方かも。
帰ってきた手紙を見ながら、一人悦に入る終末なのでした。

 

演劇病

今日は昔「短編小説の集い」用に書いた小説を上げてみます!
小説だけの別サイトに公開していましたが、なかなか更新する機会もないので、メインに移動。初めての方も一度読んだ方も、楽しんで頂けたら嬉しいです。

お題があって、そのテーマにそった短編小説を書く「短編小説の集い」。
この時のテーマは『病』でした。
テーマがあると普段では思いつかないような話が出てきたり、他の人の視点が参考になったり、色々勉強になりました。何より管理人様の批評が楽しみだったのよね。

今はnoteに移行してしまい、1月2月はお休み、とのことですが小説の練習がしたいな、感想が貰いたいな、という方は『短編小説の集い』に参加してみるのはどうでしょうか?私にとっては最高の入口だった、と今でも感謝しております。

 

note.mu

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 底が抜けたように寒い、冬の朝のことだった。
自販機から出てきた缶コーヒーは想像以上に熱い。漱也はお手玉のように手の中で缶を泳がせる。
「あっち!」
思わず上げた声、耳を触る仕草に通りすがりの知らない女子がクスクスと笑う。

漱也は自分の行動に愕然とした。
こんなの俺のキャラじゃない。自分は一体どうしてしまったと言うのか。
中学の時のあだ名は黒子、もしくはステルス。
ステルス迷彩をまとったような漱也の存在は、高一の今とうとう人の目には映らなくなったようだった。高校でのあだ名は無し。それどころか入学から半年、誰かと個人的な会話をしたこともない。


目立たないこと、人目をひかないこと、自分の感情を他人に推測されないこと。
それが漱也の日々の目標だった。

だから声を上げるなど論外。たとえ熱すぎる缶コーヒーに手の皮が剥けようとも、人目を引くような激しい動作はしない。

それがいつもの漱也のはずだった。
今日は何かが違う気がして、彼は不安そうに頭を振り、そして頭を振ったことにも激しく動揺した。

決定打は授業中。
消しゴムを落としてしまった漱也は漏れそうになった声を必死で抑えた。
おかしい。なぜ声が出る。なぜ目で追ってしまう。

普段なら身じろぎ一つせず、落としたことなど悟らせずに授業を終え、何事も無かったように素早く拾うことができた。

いつものTHE・忍者な俺どうした⁉

そんなことを考えていたら無意識に頭をかきむしってしまっていた。
「はいどうぞ」
机の端にコトン、と小さな消しゴムが置かれた。
振り返ると後ろの席の女子がニコニコと丸い目を彼に向けている。
「ありがとう」
名前なんだっけ、という戸惑いまで顔に出てしまったらしい。
彼女が答える。
「文香。熊谷文香。ねぇ、漱也君ってそんなにリアクション上手だっけ?消しゴム落として頭掻きむしる人、初めて見たよ」
面白過ぎる!と二つに結わえた髪を揺らして文香が笑う。その目が好奇心でキラキラ輝いていて、漱也は圧倒されてしまう。

そっちのほうがわかりやすいじゃないか、と興味津々のまなざしに悪態をつきたくなる。

でもさ。
漱也はふっと昔を振り返りたくなった。
俺だってほんの数年前には、あんな風に心の中身が筒抜けの目をしてたんじゃなかったっけ。すぐに笑って、すぐにふくれて、ぎゃあぎゃあ泣いて。

昔の俺は酷かったな、と漱也はあの頃を思い出す。

漱也がステルス・モードを手に入れたのは小5の冬だ。
それまでの彼は嘘のつけない、思ったことが全て顔に出る単純な子供だった。
よく笑い、怒り、泣く。喜びも悲しみも、すぐ口に出るか態度に現れた。

自分の目に映る世界はいつも真っすぐで分かりやすくて、それが真実だと信じていたあの頃。そんな思い込みがもろくも崩れたのは新担任、迫田のせいだ。

迫田はお気に入りの女子を特別扱いする、エコヒイキで陰険な教師だった。
クラスの殆どが彼を嫌っていた。もちろん漱也も。

しかし彼の嫌悪はあまりにも分かりやすかった。迫田はすぐにそんな漱也に目をつけた。
お気に入りの女子相手に猫なで声で話す迫田に、漱也が嫌悪を感じていると彼は必ず振り返り、
「その顔はなんだね、漱也君?」
と聞いた。

漱也の怒りも軽蔑も嘲りも、どんな些細な感情でも迫田は見逃しはしなかった。
そのうち漱也が無邪気に笑っている休み時間や、楽しい給食の時間にまで、
「その顔は何だね?先生を笑っているのかね?」
と聞くようになった。

追い詰められた漱也は笑わなくなり、怒らなくなった。
自分の感情全てを奥底に押し込んで、揺るがなくなった。

筒抜けちゃいけないのだ、と彼は悟ったのだ。
世界には敵がいる。思ったこと全てを伝えるのは油断であり、落ち度だ。

こうして漱也は感情を押し殺す術を学び、目立たないように逃げ延びる術を学んだ。
当時大好きだったゲーム「メタルギアソリッド」のスネークのような最強のスパイに生まれ変わったはずだったのに…。

「そこ、雑談禁止!」
いつまでも後ろを向いてぼんやりしていたから、教師の厳しい激が飛んだ。
突然現実に引き戻されて、うわっ、と漱也は両手を上げる。
そんな彼を見て、文香がまたクスクスと笑った。

絶対に、おかしい。

 


何かがおかしいんです、と言う不明瞭な相談だったのに、診断結果はすぐに出た。
病名は「演劇病」。

神経物質の伝達がナントカカントカで、感情が表に出やすくなったり、オーバーリアクションになってしまうらしい。
まるで舞台役者のように演技過剰になることから演劇病の名がついた、とのこと。

薬を飲めば抑えられるから出しときますね、と初老の医者は事もなげに言った。
それから漱也の目を覗き込む。
「主な要因は過剰なストレスだってさ。心当たり、ある?」

 

薬の袋をぶら下げながら、夜の河川敷を歩いた。
病院は混み合っていて、待ち時間2時間、診察はたったの15分。
暗い河川敷の道を、点いたばかりの街灯が弱々しく照らしている。

ふらふらと心許ない足取りで歩いていると、聞き覚えのある声がした。
誰かが河原で発声練習をしているようだ。

少し背の低い、丸い背中に見覚えがあるような気がして目が凝らすと、視線に気がついたのか男が振り返った。
小さな黒い瞳、丸い頬、温和そうな顔。
「雄太!」
まだ薬を飲んでいなかった漱也は、大股開きで指差し確認というオーバーリアクションをとりたくなる衝動と、自制心の間で千鳥足になり河原の斜面を滑り落ちた。

「久しぶりなのに相変わらずだな」
そう雄太は笑った。

昔、感情だだ漏れだった頃の漱也の親友が雄太だった。
いつも笑顔で、時折はっきり言い過ぎて角が立つ漱也を穏やかになだめてくれる優しい友人。彼が転校してしまったのは漱也が変わった小5の時だ。

漱也が迫田のターゲットにされたばかりの頃、なんとか漱也をかばおうといつもオロオロ、泣きそうな顔をしていた雄太。気の弱い彼は漱也以上に迫田の態度を気にし、とうとう胃を壊して給食の時間にひっくり返った。

そのまま転校してしまった彼と会うのは5年ぶりだ。
変わらない、丸い笑顔に漱也はホッとした。

「お前、こんなところで何やってんの?」
「実はさぁ…」
雄太は照れた顔で1冊のノートを差し出した。表紙にはゲスパー雄太ネタ集と書かれている。
「俺、高校でお笑い研究会に入ったんだ。今度発表会があるから、その練習中でさ。よかったら聞いてくれる?」

 

雄太のネタは最高だった。

ゲスなことしか見抜けない最低のエスパーと言う設定で、出てくる話はくだらないエロ妄想ばかり。雄太の穏やかな顔立ち、のんびりした話ぶりと、どぎつい下ネタが噛み合わなくてそこが余計おかしい。
これを学校でやるのかよ、と漱也は腹を抱えて悶絶した。


「良かったよ、漱也が変わらなくて」
コントが終わった後も笑いが止まらない漱也を見て、雄太が言った。
「5年の時、俺だけ逃げてごめんな。お前が迫田のせいで無表情ロボットになった、って噂聞いて心配してたんだ」

無表情ロボット。それは真実だから漱也の胸に突き刺さる。しかし今の「演劇病」状態では信じてもらえないだろう、と彼は話を適当に受け流そうとした。

「まぁ、あの頃は俺もひどい感情だだ漏れ野郎だったからさぁ」
「何言ってんだ?あんなの迫田がおかしいに決まってんだろ⁉」
お前は何にも悪くないだろ、と雄太は少し怒ったような声で言った。

 

あぁそうか。漱也は初めて自分の間違いに気がついた。

漱也は迫田に絡まれたのは自分のミスだと思っていた。考えがあまりにも筒抜けだから、あんな風な嫌がらせを受けるのだと。自分に付け入る隙があったから駄目だったのだと。

もしも俺が悪いんじゃなく、迫田がただのヤバい奴だったとしたら?

迫田のような存在を恐れて、漱也はアラームの鳴り続ける厳戒態勢中のスネークのように隠れて潜んで生きてきた。

いつアラームは解除されたんだろう?俺の任務はもう終わったのか?

 

「俺はあの頃赤面症で、人前が苦手だったからさ。お前の何でもはっきり言えるとこ、結構羨ましかった」
雄太があの頃と同じ、穏やかな声で話しだした。
「それで思い切って、度胸つけるためにお笑い始めたんだ。まだ全然だけどさ。今日笑ってもらって、少し自信ついたよ」
それからさぁ。雄太は少し息を吸って、言った。

「もし良かったら、俺とコンビでお笑いやらねぇ?いや、もしじゃなくて。是非。絶対。いつかお前とやりたくて、台本書いてあるんだ。漱也は手足長いしリアクションにもキレがあるから、舞台映えするし丸い俺とはいいコンビだろ。お前といつか組むために、左は開けといたからさ!」
「…俺はボケなのか?」
お笑い芸人の立ち位置を頭に思い浮かべながら、漱也は尋ねた。
ダウンタウンは左側が松本だった気がする。
「いや!俺たちが爆笑問題なら俺は田中の立ち位置だろ?お前は太田キャラだから左だよ」
自信満々で雄太が答える。

あれ?太田は右じゃなかったっけ?TV画面から見た話なのか、それとも自分から見ての話なのか、頭がこんがらかってくる。それに結局、太田はボケじゃねぇか。
漱也は可笑しくてたまらなかった。

 

ずっと段ボールを被って生きてきたのに、今までの警戒モードは何だったんだろう?
右側には親友がいて、左手には今日貰ったばかりの薬がぶら下がってる。

文香の丸い目、雄太の笑顔。
今日もいつも通りの一日だったはずなのに、世界はなんだか裏返ってしまった。
俺はホントに病気なんだろうか?それとも元に戻っただけ?

あの頃のヒーローに漱也は呼びかける。
スネークスネーク、聞こえますか。俺の任務は終わったのかな。それともこれは新しい始まり?

 

『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた』感想

東山彰良さんの『女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。』という本を読んだ。タイトル長い、しかし中身は軽妙。表紙も爽やか。

東山彰良さんの作品はまだ『ブラックライダー』と『罪の終わり』しか読んでいないので(どちらも終末世界を舞台にしたハードボイルドで重く、深い)余りのイメージの違いにええええ、と手に取ってしまった。

中身は表紙以上に軽やかなコメディで、明るく楽しく面白い。
こういうのも書けるのか東山彰良!引き出しが多すぎてびっくりする。

 

女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。

 

この本は有象くんと無象くん、という大学生を主人公にした短編集である。
二人はいかにも有象無象らしく、見事にモテない。
結構イイ奴らなのに、悲しいほどラブに縁がない。
それなのに(それ故に?)常時女の子のことを考えていて、すべったり転んだり所持金を失ったりする。

そんな二人と問題だらけの友人たちが、女の子のことを考え続けた春から冬までの物語が軽妙に綴られていて、楽しく可笑しく、なぜか爽やかだ。

 

モテない系男子小説、と言ったら森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』が思い浮かぶ。有象無象くん達の朴念仁っぷりは正にモリミーの「先輩」そのもの。

しかし魔都京都ではなく九州の大学キャンパスで繰り広げられる男女の物語は、あか抜けていてオシャンティーで、どこかモダンなのだ。レトロ感あふれるモリミ―テイストとは違う、現代感。

こういうのはきっと、作家自身のセンスが試されるのだろうなぁ、と思ったり。
いやモリミーにはモリミ―らしい、最高の大正モダン感があるんだけどね。

 

それから、登場する女子もモリミ―の『乙女』とは対照的だったりする。
黒髪の乙女は自由気ままで、のんべぇで、それでも天真爛漫だった。

東山彰良が描く女の子は、なかなか個性的。

見た目は清純、中身が女王様な『女王ちゃん』。
したたかすぎる『抜け目なっちゃん』。
そして全ての男を夢中にさせる『ビッチちゃん』…!

物語に出てくる女子は結局のところみんないわゆる『ビッチちゃん』である。
自分勝手でしたたかで、強くたくましい。

有象無象くんたちは、そんな彼女たちに翻弄され、あのアマとか、これだからオンナは…とぶつくさぼやきながらもその尻を追いかけていく。

 

黒髪の乙女とビッチちゃん。
真逆の女子におなじような愛おしさを感じるのは、著者の目線が彼女達をきちんと見つめているからだ。

昔の本には多かったよね、主人公のマッチョさを際立たせるためだけの記号のような美女。

男性をATM扱いする女性が毛嫌いされるのも、そういうことだと思う。
その人そのものが好きなんじゃなくて、自分に便利な相手だから好き。

お金があるとか色々やってくれるとか、従順だったり。
見た目がいいから連れて歩くと誇らしかったり、社会的地位があるから付き合うことで自分自身のステータスが上がった気がしたり。

けれどもそういう余分な雑味全部抜きで、ただ純粋な『好き』なんて保育園に忘れてきた気がする。…いや、保育園の時でさえ好きになったのは私に優しくてイケメンな男の子だったもんなぁ。純粋な愛なんてこの世に存在するのだろうか?

この本を読んで、そんなことを考えましたとさ。

世界の半分は異性で出来ている。
嫌いよりも好きな方が、人生は生きやすいよね。
とはいえ向けられる愛情は歪だったりよこしまだったり、素直に受け取るのはなかなか難しい。だから私たちは付き合ったり別れたり、毎日すったもんだしているのでしょう。今日はそんな感じです。

 

女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。

女の子のことばかり考えていたら、1年が経っていた。

 

 

 

終焉の町からの手紙

町の間の境界線が、本当の壁になってからもう随分経つ。
セルリアンとか陰謀説とか、難しい話は私には分からない。
とにかく私たちは町単位で分断されてしまった。
壁が通すのは水と光と空気だけだ。
どこかで誰かが調査しているのかも知れないが、外に出られるまでは時間が掛かるだろう。

 

幸い一部の通信機器は生き残っているからこうしてあなたに手紙を送ることは出来る。
ただ外部との接続は時間の流れがぐちゃぐちゃで、途方もない過去からの手紙や、遥か未来からの手紙が届いたりする。
私達の町だけではなく、全ての町が分断されているのだ、と分かったのもそうやって届いた情報からだ。

 

私の町は何もない場所だった。
映画館も美術館も、気の利いたスポットは何一つ。
それでも恵まれていた、と思えるようになったのは世界が分断されてからだ。

 

私の町には大きなダムと水力発電所、広い農地に畜産場があった。それから山と、学校に病院、工場。おかげで町からの出入りが出来なくなっても、電気や水に困ることは無かった。

 

米も野菜も肉も、川魚の養殖場に綿織場まであるこの町は、生きていくには最適な場所だった。かつて都会を支えるために存在していた町は、今は1万人の住人を支えるためだけに稼働している。
 

もちろん医療品など、足りないものは沢山ある。
それでも時折繋がる通信網から、少しづつ自給自足の手がかりを得ようとしている。
製薬工場に電子機器工場。
ただっ広い土地を持つこの町は、新しい何かを作り出す設備にはこと欠かないのだから。

 
時折閉塞感を感じることはある。
子どもたちはもう大学にも、都会に勤めることも出来ない。
将来の夢の多くは、本当に幻になってしまった。

 


それでも危機感からなのか、私達の繋がりは前より濃くなった気がする。
町が閉じられてから三年目、出生数が死亡数を超えた。
五十年ぶりの奇跡だと、広報は告げた。

 

私達の住む山あいの小さな町は、かつて限界集落とか、過疎の町だとか言われてきた。緩やかにいつか終わりが訪れるのだろうと、この町の未来をどこかで諦めていた。

諦められて見捨てられた終焉の町が、私たちを逃がさないために壁の内に閉じ込めたのだろうか?
町が意思を持つだなんておかしな話だけれど、時折そんな気もするのだ。
私がこの土地に感じる柔らかな誇らしさ、微かな安心感を、大きな誰かが飲み込んでいるようだ、と。

 
とにかく私たちは今、この町で生きています。
あなたは無事ですか?あなたの町はどうですか?
いつか返事が届いたら嬉しいです。
かつて終焉を迎えるはずだったこの町で、ずっと待っています。