おのにち

おのにちはいつかみたにっち

大人になることは、人生の主役を降りることなのかも知れない。

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40過ぎて今更、と思われるかも知れないが、ある朝ふっと大人になったことに気がついた。

他人に譲れるようになった。
自分が目立たなくても役立たなくても、全体が上手くいっていればそれでいい、と思えるようになった。

人を自然と褒められるようになった。
追い抜かれても妬んだり、やっかんだりしない。当たり前に祝福できるようになった。

自分の時間が欲しい、と苛立っていたけれど、子どもたちが巣立ったらずっとそうなのだ、と気がつき今はきちんと食べさせたり、家の中を片付けたり、彼らと向き合うことが一番大切なのだと思えるようになった。


たぶん、道を譲ったのだ。
まだ歩き続けてはいるけれど、レースを退いて歩道からのんびりと、声援を送りながら歩いている感じ。

コースをひたむきに走っているのは私の息子や後輩たちで、彼らに声援を送ったり、体調管理をしたり、サポートをしたり。
それもまた大切な仕事で、今の私がやるべきことなんだ、と自然と思えるようになった。

つまり自分の人生の主役ではなく、社会の歯車になりたいと思ったということ。
はっきり言えば枯れた、のかも知れない。

 人生の主役をやめて、小さな歯車になる。
大人になんてなりたくねぇと、ロッカー達が歌う理由がようやく分った。
大人って、全然ロックじゃない。
でも大人って、結構楽。

 

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大人になってからは、人に求めなくなった、期待しなくなった。
褒められるのはもう充分なのだ、と思ってしまった。

今までただ若いというだけで、いろんな人に立てて貰ってきた。
何も無いくせに何者かでありたくて、アイデンティティーがぐらんぐらんの私を褒めたり、引き上げてくれたのは、今の私より少し年上の素敵な女性達だった。

彼女達の方が明らかに出来るのに、なぜ褒めてくれるんだろう?
あの頃は本当に不思議だった。
褒めてもらえることが素直に嬉しくて、自分もそのボールを返したいと思うのにおべっかじみてしまうことが怖くて、上手く言えなくて。

いまこの年になって思う。
彼女達はレースから手を引いて、観戦者になったのだ。
だから妬いたり自分と比べることなく、素直に褒められる。
今の私が他人を素直に褒められるのも、そういうことなんだと思う。

 

今の時代、枯れるのはちょっと早いのかな、と思うこともある。
自分が主役から身を引くのは、いつが適当なんだろう?

昭和の小説、たとえば松本清張なんかを読むと、登場人物が30代でも既に個人より公人でびっくりする。成熟の度合いが今よりもずっと早かったんだと思う。

現代は公より個の時代。
いつ大人になったらいいのか分からない。
40を過ぎても、大人の実感のない人はたくさんいると思う。
死ぬまで自分の人生は自分が主役の人も、これから増えてくるのかも知れない。

エネルギーがあるならば、歯車より自分が主人公の時代を生き続けるほうが、幸せなのかも知れないとも思う。なにより、ロックだし。

 

まだまだ自分への愛、見返りが必要なのが子ども。
そういうものはもう沢山貰ったから、今度は与える側に回りたい、と自分が主役のゲームを降りた人が大人。

私はそんな風に思っている。

単純に愛されたから、だけで私は舞台を降りた訳じゃない。
死なない程度に、いい具合に『人生にへし折られた』んだと思う。
自分が世界の中心だなんて思えないほど、コテンパンに。

いくつになっても世界の中心でいられる人は、まだ負け足りないのか、本当にスターなのか。

ずっとスポットライトの真ん中の人生は、どんな気分なんだろう?
でも心地よい椅子の上で、ポップコーンを食べながら無邪気に拍手できる今も、そんなに捨てたもんじゃないと思う。

 

レースから降りると楽になれる。
でも大人にならなくちゃ、なんて諦めでステージを降りるのは絶対にダメだ。
燃える火が心にあるのに、傍観者になるのは辛い。

ネットで中傷を書き込むのは30代既婚の男性が多い、という本を読んだ。
今の時代、30代はまだ若い。
しかし誰かの庇護者となり自分の人生の主役を降りた鬱憤が、大人にならなくちゃいけないという思い込みが、怒りに繋がるのかも知れないと私は思っている。

体力があれば、夫や父であり、主人公であることも両立できる。
まだ負けられないと思うなら、大人げない親だっていい。

年が近くても、まだまだ戦いつづける女性も知っている。
誰かを妬んだり、羨むことは悪い事じゃない。
前へと進むための大切なエネルギーでもある。

自分への愛が必要な人がゲームを降りてしまったら、とても苦しい。
戦いつづけるエネルギーがあるのなら、続けるべきなのだろうと思う。

 

燃えているものを無理に消そうだなんて思わないで。
自分の心を捻じ曲げて大人ぶるのは、大人のする事じゃない。
時が来るのを、ちゃんと待とう。


子どもの時、サザエさんのフネさんの幸せを考えた。
料理上手でしっかり者で、夫を立て家庭を守る。
でもフネさんがデパートに行ったり、遊びに出かけるシーンは数えるほどしかない。
フネさんは本当に幸せなのだろうか、と。


自分が人生の主役だと、周りに過剰な期待をしてしまう。
私が苦しいと言ったのに、親も友達も何の手助けもしてくれなかった。
友達を支えたのに、彼女は私が辛い時側にいてくれない。
こんなのおかしい、こんなの不公平だ。
私は努力をしたのだから、世界は私に答えるべきだというのが子どものフェアな世界なんだと思う。

大人になると、自分が色々問題を抱えているように、相手にも色々事情があるのだ、と分かる。だから周囲に過剰な期待をしなくなる。

私を救えるのは私だけ、他人を100%救うことなどできやしない。
子どもに何を尽くしても、つかみ取るのは彼らであり、私がしていることは自己満足に過ぎない。そう分かっているから見返りなんて求めない。
誰かを支えることが楽しくてやっているのだから、それでいいのだ。

ヒーローを辞めること、他者に正しさを求めないことが大人なのだと言ったら、子ども達はがっかりするだろうか。

フネさんの幸せが、ようやくわかる年になったのかも知れない。

 

でもいつか子育てが終わったら、子どもに心配を掛けないためにも私はまた「自分中心の人生」に戻らなくちゃいけない、と思っている。

その頃まで心ファイヤは残ってる?
誰かに勝つとか、嫉妬するとか、そんな強いエネルギーを燃やせるだろうか?
それともボランティア活動とか、誰かのために生きる?

実は60過ぎたら人のことなんかお構いなしで、がっつんがっつん燃やしまくるのも楽しいよな、と思ってる。好き勝手に書く。思いきり、身勝手な悪い奴になりたい。

自分のために生まれて、他人のために生きて、自分のために死んでいく。

これが私の考える私の人生、私の大人像です。
あなたの人生、あなたの思う大人はどんな人ですか?
もしよかったら、聞かせてください。