おのにち

おのにちはいつかみたにっち

たけのこを食べる祭り

週末にたけのこを丸ごと茹でて食べたので、そのログです。いあ、いあ!

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①たけのこが均一価格だったので、欲張って一番大きなたけのこを買ってしまう。

 

 

②鍋に入らないと言う絶望。

 

 

③皮を剥いても、切って茹でてもオッケーらしいので無理やり詰め込む。

 

④色々作っても減らないと言う絶望。

 

 

⑤たけのこ祭りセカンドシーズン。
姫皮とホタテのサラダ、スペアリブとタケノコのオーブン焼き、やみつきたけのこ、たけのこの唐揚げ。なおやみつきたけのこと唐揚げはどんぶり一杯分あります。


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⑥月曜日。まだ残っているという、三度目の絶望。

 

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今年のたけのこ祭りは以上です。
来年はもう少し小さいのを買おうと思います…それでは、くとぅるー・ふたぐん!

 

棘のある新卒

もう4月も半ば。
新しい学校、新しい職場。
まだドキドキの人もきっと多いはず。

私の近くの席にも新採用者がやって来たので、こちらまでワクワクです。
さて新卒といえば、数年前昔の職場で出会った青年を思い出します。
せっかくの新卒カードを棒に振って、半年程度で退職してしまった彼。

都会の町で、今も元気に暮らしているでしょうか?
彼の今の幸せと、彼のように少し不器用な人の幸せを願って、今日はちょっぴりおせっかいな話を書いていきたいと思います。

 

別の課の新卒である彼と話すようになったきっかけは封筒の宛名シートでした。
あまり字が上手ではなく、クソなんて悪態をつきながら書き損じた封筒を共用のゴミ箱に捨てている彼の姿を見た私は、ついおばちゃんの気安さで「宛名シート使ったら?」なんて話しかけてしまいました。

私はその当時総務課の備品係だったので、印刷封筒一枚何円すると思ってるねん!?と血が騒いでしまったのですね。
宛名シートの置き場所、使い方。その他便利な備品は総務課にもあるから取りに来ていいんだよ、みたいな話をしました。

それからちょこちょこ、分からないことについて聞かれるようになりました。
私は総務課、彼は営業にいましたが、そもそも営業はあまり新人を育てるには向かない場でした。

30代の働き盛り、仕事出来るぜ!俺は俺が俺の出番!みたいな自分三段フル活用の自信家男性が多く、常に自分の仕事のことで頭が一杯。進んで他人の面倒をみるような優しい先輩は少数でした。

それでもコミュニケーション上手な新卒は、上手く相手を立てて先輩意識をくすぐったり、親切な人間に甘えたりしながら仕事への知識を補って前に進んでいきます。

しかしウニの棘のように堅い黒髪のツンツン頭、黒ぶち眼鏡と見た目からも堅い彼は真面目だけれど不器用で人に頼るのが下手くそ、その上プライドが高いから余計人に聞けない…と、どんどん『分からない』を拗らせていきました。

また彼の上司が彼に輪をかけてごすのきかねぇジローで(気の利かないおにいちゃんの意)仕事を与えるけれど事細かに説明はしない、そのくせ締め切りだけは厳しくて教えもせずに催促ばかりする、人前で叱る態度だけはいっちょまえ、という体たらくでした。

私くらいの年の人間なら、この使えねージローが態度ばっかりいっちょまえでぇ!とケンカしながらやっていけるのですが、新卒の彼には難しい話です。

結局態度の悪い上司には聞けず、忙しそうな周りにも聞けず。

締め切りギリギリになって部署の違う私に職場内メールで助けを求める、というかなり辛い進行状況でした。

 

私も他部署の業務までは分からず、そこの課の面倒見の良い先輩にヘルプをお願いしたのですが、その方も私生活でトラブルを抱えていてその後すぐに休職。

教えてくれる人がいなくなって営業はゴタゴタに。
結局新卒にきちんと教えない姿勢が祟り、前年度に異動した新卒が処理の間に合わなかった請求書をシュレッダーに掛けていたことが発覚。

危うく裁判ざたになりかけ、後始末で残業続きの日々となり現在の新卒には更に手が回らなくなりました。

ウニ頭の新人君は結局誰にも指導してもらえないまま、使えないという酷い評価を受けて心を病んで休職、元気になった後は都会へ転職してしまったのです…。

 

このゴタゴタがあった当時、私は上司の責任だ、と少し憤っていました。
直属の上司には彼を指導する、教える義務があるはずだ、と。
右も左も分からない若者を荒野にほっぽりだすのは余りにも無責任な話です。

でもその後、その上司と飲み会の席で話したら、なんだかよく分からなくなりました。

 

彼の指導責任者である係長は、飲み会で会ったときには大人しく、気弱にも見える人でした。そしてその年、ウニ頭君を上手く指導出来なかったことは彼の心にも悔いとして残っていました。

なぜそんな人がウニ君に対して上から目線で、人前で叱責したりしたのか?
私は疑問をぶつけてみました。
何故彼とは上手くいかなかったのですか?原因はなんだったのでしょう?とあくまでも柔らかに、優しく。

 

…彼の質問が鋭すぎたのだ、と係長は言いました。

係長自身も営業は2年目。
周りに聞きづらい風土のせいで、曖昧なまま乗り切っている部分も多々ありました。
ウニ君はそのグレーの部分、よく分かっていない部分ばかり突っ込んでくると。

分からないことを正直に認めて、周りに聞けば良い話だったのに、係長自身も周りに頼ることが下手くそで、近くに信頼できる人間も居なくて。

それからウニ君へのコンプレックスもあったのだそうです。
自分よりいい大学を出ていて、真面目そうで厳しそうで。
いつも真顔なウニ君に質問されると、分からないことを責められているような、見下されているような気分になったのだ、と。
その反動もあって、つい偉そうに振舞ってしまったと。 

叱っている時もウニ君は無表情で何を考えているか分からず、自分が馬鹿にされているのでは、という被害妄想から彼の扱い方が分からなくなってしまい、結果放置してしまった、と。

 

もちろん一番悪いのは、新卒を営業に突っ込んでダメにした会社です。
それから指導者としての認識が甘かった係長です。
こんなクソな会社はとっとと見限って正解だったと思います。

 

…でも結局世の中って、不完全な会社だらけで、不完全な上司だらけで。
絵に描いたような理想の職場、理想の上司と巡り合う確率はどのくらいなんでしょう?

 

私は今まで、様々な人から色んな打ち明け話を聞いてきました。
その経験から語らせてもらうと、結局本当に自信に満ち溢れて他人を見下しているような人間って、全体の2割程度しかいない気がするんです。

あとの8割はどんなに偉そうに見えても実は自信が無くて、それぞれに悩みや不安を抱えた人ばかり。

だから無表情という鏡のような仮面のむこうに、自分の不安を勝手に投影して、一番怖いもの、本当はそこに無いものをみてしまうんじゃないか。
そんな風に思ったりします。

 

私自身、かつて上の息子を本当に大切なことで強く叱責した時に、彼の無表情に不安を感じて(きちんと伝わっているのか分からなくて)更に強く叱ってしまったことがあります。

結果としては私の珍しいガチ怒りに責任を感じすぎてしまっての真顔だったことが、夜泣きする息子の様子で分かったのですけれど。

後悔しながらも、怒られた時の真顔は更に火に油を注ぐのかも知れないと危惧して、怒る時褒める時、必ず思ったことをきちんと言葉にして言いなさい、と伝えるようにしています。私たちはエスパーじゃないんだから、気持ちはきちんと言葉にしないと伝わらないよ、と。

ウニ君と係長も、互いに無表情と言うトゲを少し和らげたなら、思ったことを素直に言葉に出来たなら、もうちょっと上手く行ったのかも知れません。

 

今の彼がちゃんと良い上司と出逢って、上手く弱音を吐いたり、愚痴を言えていますように。みんなの前で、正直にクソったれとぼやいていますように。

誰だって最初は出来なくて当たり前。
勤めはじめたばかりの頃は周りの人間がみんな完璧に見えて、情けない所を見せたら軽蔑されるかも知れない、なんて緊張するかもしれません。

でもあなたの隙に安心する、親近感を覚える人間はきっといるはず。
あんまり完璧を求めすぎないで、凹んだことやしくじったことも時折顔に出していきましょうよ。

欠点も時には親しみやすさに繋がったりするよね。
ウニ君のガチで汚かった文字を愛おしみながら、そんなことを思い出しました。

 

遠いあなたの夢を見る-山白朝子『私の頭が正常であったなら』

山白朝子さん(いまだに乙一、と呟いてしまう)の短編集「私の頭が正常であったなら」を読みました。

喪われた人を想う短編集、と言ったらいいのでしょうか。
読みながらずっと、死と私を隔てるものについて考えていました。

 

私の頭が正常であったなら (幽BOOKS)

 

冒頭の『世界で一番短い小説』は、ある日突然見知らぬ幽霊を見るようになってしまった夫婦の物語。

唐突に姿を見せる、見知らぬ中年男の幽霊。
理系の夫妻は彼の出現パターンを調べ、心霊現象の再発防止を図るのだが…。
あらすじはこんな感じ。

お祓いや神頼みではなく表計算ソフトで幽霊の出現パターンをリスト化、自分達の行動と照らし合わせて幽霊に取り憑かれたのはいつか?と調査していく過程がコミカルで面白い。

そうしてラストにふっと紛れ込む、喪われた者を愛おしむ気持ち。

魂はどこに宿るのか?私たちがお墓参りをしたり、死者を悼んだりするのは、喪われた人たちに側にいて欲しい、見ていてほしいという願いが込められているのかもしれないな、なんて思ったのです…。

 

突然定期的に幽霊が現れるようになる…というあらすじから、最近読み終えた宮内悠介さんの『ディレイ・エフェクト』を思い出したりもして。
こちらは現代の東京に、75年前の東京の景色が映り込むようになってしまう、というスケールの大きな不思議な話でした。規模は大きいんだけど、悩みの答えはとても近くにあって。そんなところも好きな物語です。

 

ディレイ・エフェクト

ディレイ・エフェクト

 

 

他にも「私の頭が正常であったなら」には、『幻夢コレクション メアリー・スーを殺して』(中田永一、山白朝子他、乙一別名義の作品集)に収録されていた「トランシーバー」という相当切ない短編も再録されています。
これヤバいのです、相当泣けます。私は二回目なのにやっぱりダメでした。
なんで言葉を覚え始めたばかりの子どもはうんちとおっぱいにハマるんだろう…。

なお『幻夢コレクション メアリー・スーを殺して』は創作経験のある人間にはかなり突き刺さる物語でしたので、何かを創っている人に絶対オススメ!

 

メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション

メアリー・スーを殺して 幻夢コレクション

 

 

最後の書きおろし、『おやすみなさい子どもたち』も終幕にぴったりの物語で、とても素敵でした。

思わぬ事故で命を落としてしまった少女が、天国の映画館に迷い込む。

私にも貴方にも、喜びと悲しみに満ちた自分だけの物語があるのでしょう。
自分には何にもない、なんて虚無や孤独に満ちた人生でさえも、天使が愛を込めて物語に仕立て上げてくれる。

私は私の人生を生きることしか出来ない。幽霊を見たこともない。
それでも物語は奇跡を創り出して、心が癒える瞬間を優しい言葉で切りとっていく。

物語を読むって、つまりはそういう事なんでしょうね。
ではでは、今日はそんな感じです。

 

私の頭が正常であったなら (幽BOOKS)

私の頭が正常であったなら (幽BOOKS)

 

 

ファッションはやっぱり愉し/千早茜『クローゼット』

今日は一万点以上のアンティークドレスが眠る、私設美術館を舞台にした物語『クローゼット』の感想です。

いつも完璧には程遠い、いわゆる『ファッション道』を語れない私ですが、それでもこの本はとても楽しかった!
母親のスカートをまとってロングスカートを気取ったり、こえだちゃんの着せ替え玩具に激ハマりした幼き日々を思い出しました。

素敵すぎるお洋服って体型を選ぶし、お値段だって想像以上。
それでもやっぱり楽しさや喜びを連れてきてくれる、そして私を変えてくれる『物語』なのですよね。

ちょっとギュッと締め上げて、気合をいれてハイウエストのフレアスカート履きたい!クラシカルなヒール合わせたい!そんな風に『頑張って着る服』を楽しんでみたくなる、そんな素敵な一冊でした。

 

物語のあらすじ

 

クローゼット

 

物語の主人公は二人の男女。
前半はデパートのカフェで働くオサレ男子芳(かおる)の目線から、後半はファッションの私設美術館で縫子として働く女性、纏子(まきこ)の目線で物語が語られていきます。

二人が出会う場所は二百年、三百年前の人が着た本物の洋服がたくさん収められた特別な美術館。

ジェンダーや過去のトラウマ、様々な問題を孕んだ物語なのだけれど、とにかくこの舞台が素晴らしすぎて、そして登場人物たちの『洋服が好き!』という気持ちが清々しすぎて、物語の後味はとても爽やか。そして優しい。

なにより自分の服を大切にしたくなる、靴を磨きたくなる、そんな衝動に駆られる一冊でした。

お洒落だけど色々拗らせている芳も、才能があるのに上手く他者と付き合えない纏子も、それから物語を引っ張っていく館長の娘晶も、登場人物みんなが服への愛に満ち溢れていて、その勢いが物語を引っ張っていくようでとても楽しかったです。

こんな素敵な美術館、世界の何処かにはあるのでしょうか?
行ってみたいな…なんて思いながら本を閉じました。

 ではでは、今日は短いけれどこんな感じです。
お洋服を楽しみたくなる『クローゼット』という小さな天国の物語。
もし見かけたら、読んでみて下さい!

 

クローゼット

クローゼット

 

 

町と、私の領域

子どもが中学生になったら、自転車で学校へ通う中学生のことが目につく/見守るという意識が芽生えてきた。

小学校も新一年生が増えたので、連絡物を配布するために新しい家の場所をたくさん覚えた。

子どもが育つにつれて、自分の領域が広がっていくような感覚がある。
ゲームで新しいエリアに踏み出すと、グレーだった領域が更新されたマップになる。そんな感覚。

 

かつての私は人見知りで、ママ友もPTAの役員業務も勘弁してくれ、って感じだった。
それでも必要に迫られて仕方なくこなしていくうちに何事も場数なのだな、と気がついた。そんでもって知り合いが増えていく、保育園児やら小学生やら中学生やらに親近感を持つようになる…その度に町に対して責任やら義務感やらを抱くようになった、そんな感じ。

私のめんどくさい義務感は地域への所属性や親近感を伴っている。
いわゆる『私の町』という感覚。

高齢者の孤立を防ぐためにボランティアや地域の付き合いに参加させよう、というのはこうした集団所属性効果を狙っているのかな、なんて思う。
おらが町に暮す、我ら。

私たちは群れでありたい、何かに属していたいと願う生き物なのかも知れません。そうして所属することによって得られる安心感というものはなかなか消えない感覚なのでしょう。

よく知らなかった私の町は子どもの成長と共にどんどん『自分の町』になっていく。
都市に対して自分の領域を感じる、不思議な感覚。
こうして自分の領域が増えていく事は世界への心強さにも繋がっていきます。私の所属性、世界への帰属感。

 

…でも実は町の全てを自分の領域にしたい、とは思えなかったりして。
世界にはグレーな部分があった方がいい、その方が美しい、と感じる自分もいるのです。

 

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かつて暮らしていた北海道から今の町へ向かう時、フェリーで日本海を渡りました。
朝日が照らす海の上から本土を眺めた時、私は結局一人で、世界から孤立していて、いつだって心許なく揺れているのだ、と自分の本当の寂しさや孤独を強く理解しました。それはいつだってそこにあって、どんなに今が賑やかでも幸せでも、私の旅が終わる日をただ静かに待ち受けている、そう思えたのです。

 ドラクエで初めて船に乗った時、余りにも遠くまで旅しすぎて険しい岩地に囲まれて上陸できなかったり、毒の沼続きだったりしませんでしたか?
あるいは出没する雑魚敵が強すぎて一撃だったり。

海の上から見た『本土』も、あの頃の私にとっては心許ない『毒の沼のむこうの町』でした。あの感覚は知らない町に対する『畏敬』だったのかも知れません。

そうして、あの時海の上で感じた怖さや心許なさを、忘れたくないと願う私も心のどこかにいるのです。

 

私はまたいつか、知らない町に住むのでしょうか?
そうして新しい場所で、心許ない気持ちで世界を眺めるのでしょうか。

 もう一回、世界の全てをグレーの領域から始めたいという気持ちはいつだって心の底に隠れているのですぞ…(ムック拝)

 

前方からMISIA

 まだ肌寒い春の朝、道の先から音楽が聞こえてきた。

黒っぽいスーツを着たお兄ちゃんが、リズムと共に近づいてくる。
これは春のアレな人か…と道路の反対側に逃げたくなったが交通量の多い出勤時間帯、道を渡りようもなくメロディがやってくる。

この曲は…聞いたことがあるけどなんだっけ?
雨上がりの道を傘さして歩いた?

音楽を聴きながらずっとタイトルを考えてしまう。
近くで見ると、有線のイヤホンを付けたサラリーマン風の人だったので少しホッとする。 おそらくジャックにきちんと刺さっていないことに気が付いていないだけなのだろう。

すれ違った瞬間、曲のタイトルを思い出す。
『ミーシャか!』

曲はなぜかミーシャの昔懐かしい名曲『つつみ込むように』だった。
男性が通り過ぎた後、思わず口に出してしまうと前方を歩いていた女性も『ですよね!』と軽く振り返ってくれた。

多分通り沿いの別の会社に勤める人だ。
いつも見かけているけれど、こうやって二人でイントロドン?をすると親近感が湧いてくるような気がして、なんだか嬉しい楽しい大好き(これはドリカム)。

 

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最近年度始めのどったんばったん大騒ぎで、ゆっくりブログを書く暇も無ければお茶を飲む暇も無かったのだけれど、こうやって『忙しさ』に追い立てられていると文字通り心を無くすんだよな、と最近のイライラモードな私を反省する。

自分のことで手いっぱいすぎて、周りを眺める余裕もなかった。
こうやってクスっと笑ったり、小さな驚きを口にするだけでも世界は暖かい空気に包まれて、なんだかホッコリする。
心が柔らかくなる。
優しさに包み込まれているように。

日々に運動瞑想野菜を、そしてフォースを我に与えたまえ…。

 

春休みの必死モードは変わらないけれど(5時起床、朝ごはんと昼ごはんを作り晩ごはんの下ごしらえまでやって出かけるんですぜ?朝だけで一日の仕事が終わった気がする…)フリだけでも心に余裕が欲しいよな、なんて思いました。

 

それでももうすぐ入学式!新学期! 給食ってホント神。
ごはん作りが結構好きなはずの私ですが、一日三食(それも全部朝に)作っているとさすがに虚無が見えてきます。

一食ぐらいはフルグラで良くね?的な。いっそプロテイン飲まね?的な。

そんな感じで、思考もどったんばったん大騒ぎして今日はおしまい。
思考とはつねに分岐して分散して混沌としていあいあ!叫びながら前進したり後退したりしてゆくものです故に本日のブログはマジ脳内っぽいおっとととっと春だぜ…。

 

物語の歩み-孤独から境界の物語へ

かなりぼんやりとした雑感だけど、最近の物語について思うことをメモしておく。

 

1970年代生まれの私、ちょうどふすまで仕切られた家族の空間から、ドアで仕切られた個人の空間へと住居が移り変わった時代に生まれ育ってきた。
一人に一つの子ども部屋、が建売住宅のキャッチコピーだった頃。

家族から個人へと、移り変わる時代の空気に合わせるように、物語も一人称で語られる『私の物語』が流行っていた時代だった。
赤川次郎が大ブームとなり、のちに16歳の新井素子が独自の文体で一時代を築いてゆく。

 

…絶句〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

…絶句〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

高度成長、バブル経済…上がっていく生活水準の中で、子どもの権利や自由が認められはじめた時代でもあった。

子ども向けのマンガも実に多種多彩。
少年ジャンプや少年マガジン、コロコロコミックにりぼんなかよし、週刊マーガレット花とゆめ…様々な子どもの年齢、趣向に合わせて大人が読んでも楽しめるエンタメが毎週発売されるような、豊かな時代だったと思う。

 

しかし『個室』という堅牢で恵まれた孤城は後に『引きこもり』という現代にも繋がる社会現象を生むことになる。

机にベッド、コンポやテレビにゲーム機…恵まれた家庭の子ほど個室は居心地の良い空間となり、引きこもってしまう要素は高かったように思える。
そうして生み出されてきたのは恵まれているはずなのに何かが足りない、空虚な時代を生きる子どもたちの物語。

代表作として頭に思い浮かぶのは、1995年に放映が始まった『新世紀エヴァンゲリオン』だろう。

 

新世紀エヴァンゲリオン(14) (角川コミックス・エース)

新世紀エヴァンゲリオン(14) (角川コミックス・エース)

 

 

主人公碇シンジが何度も口にする「逃げちゃダメだ」という強迫観念に襲われたような台詞は、阪神大震災や地下鉄サリン事件といった社会的不安を抱えた世紀末の鬱屈を現しているように思えた。

バブル崩壊後、2000年代初頭には記録的な就職氷河期が訪れる。
ちょうどその前後に就職した私は先輩たちからの『昔は良かった』を聞きながら下り続ける社会を生きる、という厄介な時代を生きることとなる。
知らない誰かのツケをずっと支払わされているような、不思議な感覚。
そのツケは現代の子どもたちにも、更に高負荷となって続いている。

 

しかし今思い返せば、景気の波はちょうど私という人間のバイオリズムに重なっていた。20代頃に細胞の成熟期を迎え、あとは緩やかに衰退していく。

不遇の時代と呼ばれがちな1970年代生まれだけれど、子どもの頃に少しだけ登りゆく時代の空気を経験し、そしてその崩壊や世紀末という『てっぺんとドン底』を両方経験できたことは幸いだったと思える。

 

 そして現代、いわゆる平成の世がやって来る。
2000年以降、21世紀に生まれた子どもたちは日本が登り調子だった頃を知らない。

昭和生まれの人間が抱く、日本は先進国であり日本で生まれた事は幸せである、といういわゆる日本ファースト思考に毒されていない世代。

 個室、『個』という贅沢な感覚も時代の流れと共に終わりを告げ、家も車も持ち物も『シェア』という新しい価値観に塗り替えられようとしている今、物語の味わいも異なってきたのではないか、と私は感じている。

最近の物語には人間と機械、日本と世界、ジェンダーや価値観といった様々な境界を巡る物語が増えて来たような気がする。

一人称の『私』の物語からその先へ、私と世界の『境界』の物語へ。

 シェアによって個は失われ、では私と世界を隔てるものはなんだろう?と物語の主語が変わってきたのではないか。

多分森博嗣がその先鋭で(この方は1996年デビューだからあまりにも早すぎると思うのだけれど)その後を海猫沢めろん、宮内悠介と様々な作家たちが新しい感覚の物語を紡いできた。

 

ディレイ・エフェクト

ディレイ・エフェクト

 

 


海外の文学が新しい翻訳によって、より私たちの感覚に近い物語に訳されるようになってきたことも、時代の変化なのだと思う。

私がかつて愛した翻訳小説はどれもかなり文体が古めかしく、読み下すには多少の訓練を必要とするものだった。

現代はどうだろう?
少年少女向けのファンタジー小説『トワイライト』や『タラ・ダンカン』はライトノベルを読む感覚で、世界の差を感じずに、普通に読み進めることが出来る。

 

タラ・ダンカン 1 上 若き魔術師たち(YA版)

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非英語圏の様々な物語が翻訳されるようになってきたことも、大きな変化だ。
北欧、中南米、そしてなにより東アジア。

一時期流行った韓国ホラーを見て、私たちと彼らの違いが分からない、と感じていたのだけれど中華ミステリには更にそう感じる。

私たちと彼らを隔てるものは無いし、優劣をつけるものも無い。

当たり前の言葉で世界の物語が読めるようになるということは、私たちの『境界』を限りなく薄くしてくれる効果があるのだと思う。

 

 差別は無くならない、と昔から言われている。
でも物語はたった40年で個から境界へと辿りついた。

この先40年、50年、100年。
シェアの時代に生まれついた子どもたちなら、きっと限りなく薄くなった境界のその先の物語へとたどり着くのではないか、私はそんな風に期待している。

最近40代の人間は100歳まで生きる可能性が50%、という長すぎる未来の話を聞いてげんなりしたのだけれど、これから先も新しい感覚の物語が待ち受けているのなら長生きも悪くないな、と思っています。

もちろん、本をちゃんと読み下せる脳味噌を所有してなきゃダメなんだけどね…。
それでは私は素敵な読書生活のためにウォーキングに出かけてきます!
駆け足で雑な考察でしたが最後まで読了ありがとう。

あなたは40年後にどんな物語が読みたいと思ってますか?
聞かせてくれたら嬉しいです。