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おのにちはいつかみたにっち

伝わる?共感余白文章術

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ブログを書くときに、小手先のテクニックよりも魂を込める!書きたいことを情熱込めてかきゃー必ず伝わるんだよ!というホノオモユル的ブログ論をよく聞く。

確かに、すごくこの話が書きたい!書かねば!というテーマがあるときには筆も進んですらすら書けるし、情熱が伝わるのか他者へも届きやすいような気がする。

だがしかし。
私は本音を漏らす。

みんなホントに、そんなに描きたいネタがあるのかよ!?

 

吼えろペン(1) (サンデーGXコミックス)

 


そりゃあ私だって、毎回たっぷり情熱を燃やして書きたい。
本や様々な情報をじっくりインプットして、きちんと消化してから心地良く「書きたくてたまらない話」を綴りたい。
例えるならばするっと飛び出すバナナ・ウンコ記事。

 でも、あの炎尾燃だって、毎回ネタ切れに苦しんでいたじゃないか。
毎日快食快便、野菜350g、はなかなか難しいのである。


書きたいことがなければ、書かなければいいじゃない、とマリーアントワネットは言う。

でもでもでもでも。
気合を入れた文章しか書かないぞ!なんてハードルを上げていたら、肝心のネタが降ってきたときに文章の書き方を忘れているような気がする。
私は2日に1度投稿の便秘ブロガーだけれど、それでも3日4日休んでいただけで文章が書きづらくなる。
毎日続けたウォーキング、3日休んだだけなのにすごく疲れた。
ブログもそんなふうに感じてしまう。

何より、書くことがなくても、重箱の隅をひっくり返してでも書きたい日がある。
私は結構、書くことが好きなのだ。

たとえ出なくても、便座に座りてぇ。
虚空からウンコを生み出したいんです、隊長…!(安西先生、的ニュアンスでよろしく)

 

初音ミクの『Tell Your World』という歌に

君に伝えたいことが君に届けたいことが

と言う歌詞がある。

時折君に伝えたい!届けたい!と思う時があって、そういう時は届け先が明確なせいか文章も書きやすく、読みやすくなる、伝わりやすくなる。

でもそんな風に熱い記事を思いつく日はごく僅かだ。
私が普段書きたいこと、書ける話は当たり前の日々の、ごく普通の話だ。
田舎の主婦のつまらない話、と揶揄されたこともある。

その通りなのだ。
私は年収2000万円以上の家庭で育ったピピ様じゃないし、警察官をクビになったハルオサンでもない。
ブログに普通のことを書いただけじゃ、面白くなるはずもない。


でも本当にそうだろうか?
特殊な経験を積んだ、特別な人の物語だけが面白い?


ブログで特別な経験を売りにしている人はほんの数パーセントだと思う。
後は学生だったり会社員だったり、私と同じ普通の人たちだ。


私が普段書けるのは、普通の主婦の普通の話。
でもその普通こそが、アドバンテージになることだってあると思うのだ。

 

シンプルこそが、心震わせる

 

ごちゃごちゃ言い訳を書いたけど、私はただ出来事だけがシンプルに描かれていて、それなのに心の震えが伝わってくるような、余白のある文章が好きだ。

冒頭に挙げた、全力投球!魂燃やす系の記事は、いろいろ細々書き込まなくちゃいけないんだと思う。いろんなシチュエーションを想定して、読む人のために万全を尽くして、文字数も増やして。そうすることによって色んな人の役に立つ、SEOにも強い記事になるんだと思う。

それがブログの王道なんだろうけど、私は文章として、心寄せられるシンプルな話も好き。


歌に例えるならエド・シーランのキャッスル・オン・ザ・ヒルみたいな。

あの歌、すっげえよな。
若かりし日、友達、城のある丘、もうゲロは吐かない。

私にも分かるやたらシンプルな歌詞なのに、故郷を目指す車が目に浮かぶ。
普遍的な言葉には、私たちそれぞれの胸にある懐かしい友達、もう戻らない日々を思い起こさせる力がある。

もちろん文章の技巧みたいに、音楽や歌唱力で効果的なテクニックを駆使してるんだろうとは思う。

それでもやっぱり、おかー!で泣かすから、その力技っぷりにかなわない、と笑ってしまう。

 

 


Ed Sheeran - Castle On The Hill [Official Lyric Video]

 

 

先日読んだ恒川光太郎さんの「無貌の神」という短編集の中に、少年と空から落ちてきた幽霊の物語がある。

幽霊は人には見えなくて、誰もいない廃団地で1人で暮らしている。
ふとした偶然で、自分の姿が見える少年と出会い、彼の自転車の後ろに乗って外へ出かける。

廃団地は高い坂の上にあって、町を見下ろせる。
自転車から感じる風も心地よくて、幽霊は「世界一美しい」と言葉を漏らす。

しかし少年は「これが頂点なら、今後の人生の希望がなくなっちゃう」と笑う。
幽霊は思う。
君は分かっちゃいない、と。遠い未来に気がつくのだ、と。


仕事や恋や子育てに、悩んだり笑ったりする、ごく普通の淡々とした日々のブログが私は好きだ。

自分にとっては当たり前すぎて、こんなことを書いても…と思うかもしれないけれど、私も思う。その日々の輝かしさが、最中にある君にはわからないのだ、と。


小さな発見や戸惑い、嬉しかったこと悲しかったこと。
些細な日々の出来事に、私たちはかつての自分を見つけて、共感したり懐かしんだりする。

「やれたかも委員会」が流行るのは、物語の全てじゃなくて、始まるかもしれなかった断片を描いているからだと思う。伸ばした手、掴めなかったあの日のオッパイ。


物事を詳細に書けば書くほど、それは「遠い誰かの物語」になってしまう。
書きすぎないことも大切なのだ。

個人情報を特定されないように、少しおぼろげに書いていけば『あなたの物語』が、かつての私の物語と重なっていく。

共感を呼ぶためには、サフォーク州フラミンガムの丘ー!じゃダメなのだ。
おかー!だけでいい。

そしてそうした普遍性を、普通の私達は最初から持ち合わせている。
それって、ささやかな武器なんじゃない?と普通の私は思うのだ。

 

という訳で今日は、普通の話こそ面白いんじゃない?という文章の話を一生懸命紡いでみました。(つまりまぁ、便秘だったのだよ…)

あなたが素敵だと思うブログは、どんな日々を綴っているのでしょうか?
そこにどんな記憶を重ねたのでしょうか?

いつかどこかで、教えて下さいね。

  

無貌の神

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