子どもが食卓の上に出しっぱなしにした国語のプリントにふと目をやってみると、志賀直哉の「城の崎にて」という短編が課題になっていた。
自分が高校生の頃にも読んだことがあるのだが、当時は変なところがひっかかってしまってイマイチ響かなかった。
四十を過ぎた今は、しみじみと分かるようになってきた気がする。
生と死はとても近く、誰にも平等に訪れる。
いつか死ぬ、という一点においては私たちは限りなく同じなのだ。
中学生の頃、子猫が息を引き取る様子を見たことがある。
春先のよく晴れた日、部屋の窓は開いていて座布団が心地よく温まっていた。
当時家で飼っていた猫が子猫を三匹生んだばかりで、座布団の上で子猫たちの毛づくろいをしていた。
食事かトイレか、ふっと母猫が離れていき、子猫たちが心もとない声で鳴いている。
そんな様子を、宿題をしていた私は近くに置かれた学習机から見守っていた。
突然鳴き声が止み、座布団に目をやると子猫が一匹、腰高の窓に飛び乗った知らない大きな猫にくわえられている。
驚いて席を立つと大猫はそのまま外に飛び出してしまった。
慌てて家族に声を掛け、大猫と子猫を探す。
大猫は家の車の下に潜り込んでいて大きな声を出すと子猫を離して逃げ出していった。
車の下に置き去りにされた子猫は首を噛まれて血を流し、ピクピクと頼りなく震えている。
家族が慌てて動物病院に連れていく準備をするも、命は瞬く間に失われて冷たくなってし
まった。
子猫の墓を庭に作った時、私はその短い時間の不平等さに憤った。
ひと月も生きられなかった猫と、限りない時間が待ち受けているような気でいた中学生の私と。
あの頃は人生なんて六十年もあれば充分だから、残りの時間を子猫にあげたかったと本気で願っていた。
人生をほぼ折り返した今は、その不平等さこそがデフォルトなのだと、分かったようなロを利く。
私たちは異なった環境に生まれ、異なった容姿や資質を持ち、異なった道を生きていく。
ただ死だけが平等だ。
絢爛豪華な葬式も、無縁仏も、結局は同じだ。
どうせ私たちは己の死の先を知りえないのだから。
さて、久しぶりに読んだ「城の崎にて」はしみじみと面白かったのだが、昔感じた違和感はそのままだった。
物語の終盤、直哉は川原で見かけたイモリに石を投げるのだが、イモリは『偶然』死んでしまう。
偶然?偶然とは?
イモリは偶然死に、自分は偶然生きた、というように生と死を対比しているのだが偶然、という書きぶりがずっと引っかかっていたのだ。
…その件についての私の思いは、今も昔も今日のブログの表題どおりである。