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おのにち

おのにちはいつかみたにっち

他人の便利にNO!と言いたがる人たち

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最近cakesで連載している子ども向けのマインドフルネスの本が面白そうなので買ってみた。まだ途中なのだが『ソフィーの世界』マインドフルネス版みたいで面白い。

cakes.mu

 

今は子ども向けにこんなメンタル本がある、とたまたま遊びに来た母親に話したところ、私が子どもの頃にはこんな便利なものはなかった!今の子はこうやって楽ばかりしているから打たれ弱いんじゃないの、なんて甘やかすな理論が発動された。

私は正直「私が子どもの頃にはこんな便利なものはなかった論者」は滅びたらいいのに、と思っている。

 

例えばDSやスマホは自分の時代には無かった、それでも生きられたんだから要らない、と自分の子を自分と同じ旧石器時代に引きずり込もうとする人たち。

誤解しないでほしいが、DSやスマホを買わないことが全て悪い、と言いたいわけじゃない。
DSもスマホも高価なものだし(特にスマホは毎月大変)、経済的事情の中で申し訳ないけれど自分でバイトして買って欲しい、という家庭もあるかもしれない。それは仕方のないことであり、教育でもある。

または子どもの時はゲームや電子機器に触れる時間より、自然や本に親しむ時間を大事にしてほしい、と言う教育方針の人たち。
みんなが持っているものを買ってもらえない、と言うのは子どもにとって辛いことなので、寂しさを覚えることがないように家庭での時間を充実させ、自分も一緒に自然や本を楽しむならば、それも教育だと思う。

問題だと思うのは子どもの周囲を見もしないで、頭ごなしに自分の時代はこんな便利なものはなかった、苦労しなければ立派な大人になれない、と『苦行』を強いる人たち。

子どもにDSや携帯をいじっている暇があったら外で遊べ、と家を追い出すけれど外にいる他の子どもが皆それらで遊んでいることに気がつきもしない。
昔はこういう遊びをしたもんだ、なんて高説たれるけれどもその素敵な遊びで子どもと一緒に遊ぶこともしない。

自分の子どもが飢えた魚のようにゲームのある家を周遊していることも知らずに、「皆さん早くからゲームで遊ばせすぎじゃないですか?うちはいつも外で遊ばせてますよ」なんて口だけ教育熱心を気取る親を私は軽蔑する。
真実を言えば被害者である子どもがいっそう追い詰められるだけなので、いつも「すごいですね」と笑っているけれど。

 

医学の進歩に伴い、死亡率の高い疾患も変わってきた。
結核がなくなれば肺炎、肺炎が少なくなればガン。
私たちの「便利な生活」も同じようなものじゃないかと思っている。

1つのトラブルが解決しても別のトラブルが起こる。
「今の人は楽をして」なんて怒られるけれど、楽ばかりできないようなシステムになっているから大丈夫ですよお母さん。

小さな頃から携帯を持たせていたら電話番号を覚えないから記憶力が低下しないか、なんて心配になる。でも電話番号を暗記させ、お金を持たせいざというときには電話しろといっても公衆電話はどこにもない。
それに彼らは電話番号の代わりに、様々なIDやパスワードを暗記していたりする。

 

便利になりすぎると贅沢になってしまうのではないか、それがない状況の時に困るのではないか、と心配になるのはわかる。

だけどいつか困らないためにいつも困っておけ、と言うのも妙な話だ。
無洗米を使うと米が研げなくなる、と言う人はそれが電気炊飯器を使うと鍋で米が炊けなくなるレベルの話だと気がついたほうがいい。
どうしても研がなくてはいけない時は調べればわかる。
いざと言う時のために不便に暮らすより、そうやって乗り切るほうが楽だと思う。

 

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子育てをしているといたる所で『昔を大事にしろ教徒』に出会う。

育児中にエルゴで前抱っこをしていたら、当時住んでいたアパートの大家さんが『善意で』子どもがよく寝るから、と昔自分が使っていたおんぶひもをプレゼントしてくれた。

実際に試着してみると夏なのでTシャツにひもが食い込み、子連れSM嬢のような姿になり愕然とした。これでは外に出られない、しかも肩がむちゃくちゃ辛い。

しかしはっきりとは断れずに困っていたら、大家さんの娘が「私が要らないって返したおんぶひも押しつけられたの⁉ごめんね、捨てていいから!今どきあんなの使う人ただのMだから!」と言ってくれたので助かった。

 

乳児向けの液体ミルクが法改正で使えるようになるかも、と言うニュースをみた時も私はこんなに便利なものが!と歓喜したのだが、便利すぎて母乳育児をしなくなる人が増えるのではないか、という意見があった。

母乳がちゃんと出るならばそれが1番だし、しかも楽なのである。それはかつて母乳神話に悩まされた人ならみんなわかっていると思う。

出かけるときに哺乳瓶、お湯を持ち歩く煩わしさ、消毒のめんどくささ。
しかし出なかったり足りなかったり、産後数ヶ月で働かなくちゃいけなかったりと、みんな致し方なく『母乳じゃない』と言う背徳感と闘いながら、深夜に80ミリリットルの粉ミルクをスプーンで計りながら作っていたのである。

粉ミルクが液体になったら10分余計に眠れるし、荷物も軽くなるかもしれない。
そのくらいの便利、賛同してくれよと私は思う。

 

楽をするな、昔どおりに生きよ、と言う人たちを見ると私は中学のときに歌った校歌を思い出す。

私の所属していたバレーボール部では、1年生の時『度胸試し』と言う謎の儀式があり、新入部員は皆ステージの上で校歌を歌わなくてはいけなかった。しかもブルマで。
歌っている私たちを上級生がコートから「小野!声が小さい!」と叱り飛ばすような恥辱プレイ。

みんな嫌がったし、これが恥ずかしくてバレー部に入らない人もいた。
人数の足りない試合で苦労した私たちは、自分たちの代にはこの謎儀式を廃止しようと言っていた。

ところがいざ3年生になると、新部長はやっぱり儀式をやろう、と言い出した。
度胸試しがないと締まらないし。今思うとやっぱりアレも必要だった。
様々な意見が出るなか、結局多数決で儀式は行われることになった。

部長の言った「私たちの代で辞めたらなんか損じゃん!」と言う言葉が今も忘れられない。

 

大家さんはなぜエルゴを持っている私におんぶひもをくれたんだろう?
まだ使えてもったいないから?単純にひもの方が便利だと信じていたから?

当時は若かったから迷惑な善意だと思って流してしまっていたけれど、今思い返すとあれはいったい何十年前のひもだったのだ、と背筋が凍る。
そんなもので私は生きている赤子を背負ったのだ。


昔のままで生きましょう、という人たちは便利になることで失われてしまうものに気がつき、手間をかけたからこそ得られるものを愛しているのかもしれない。

丁寧に生きるために、手間暇をかける生活を選ぶのはその人の自由だと思うし、豊かなことだと思う。

 

でも自分が既に通り過ぎた道を、違う歩み方で進む人たちにいちいち「アウト!」と笛を吹いたり忠告したりするのは本当に『良かれと思って』なのか。

「私たちの代でやめたら損じゃん!」と言う言葉が脳裏をよぎる。

 

私は私の時代より物事が便利になっていくと自分の苦労が報われた、と感じる。不平不満を言いたかったことが解消されて、便利になっていくのは心地よい。

あの夜私が眠気と戦いながら計っていた粉ミルクを思い出す。よく意識が飛んでスプーン何杯目だったかを忘れ、ファック!と叫んでいたっけ。

もしかしたらそんな悪態が神様に届いたのかもしれない。
そう思うと今の私が恩恵を受けられなくてもすっきりする。

それにその恩恵は、私の若い友達や子ども達を幸せにしていってくれると思うし。

 

他人が「便利になる」こと、「楽をする」ことは悪いことなのか。
本当にデメリットはあるのでしょうか。何事も昔のままが一番なの?

あなたはどう思われますか?

  

本の紹介はまた今度。

スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック

スタンフォードの脳外科医が教わった人生の扉を開く最強のマジック

  • 作者: ジェームズ・ドゥティ,荻野淳也,関美和
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2016/11/12
  • メディア: 単行本
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