おのにち

おのにちはいつかみたにっち

相沢沙呼『medium 霊媒探偵城塚翡翠』・まんまと騙されました

遠田志歩さんの美しい表紙に惹かれて、ミステリー『medium 霊媒探偵城塚翡翠』を読みました。

遠田さんの表紙といえばAnotherや屍人館の殺人が浮かんできます。
どちらも独特の世界観を持つミステリーですが、このメディウムもめっちゃ良かった…!

 

霊媒の能力を持ち、過去の経験から心に傷を負っている儚いヒロイン、城塚翡翠。

そんな彼女を支えていくのは、その洞察力により警察の捜査にも協力しているという推理作家、香月史郎。

翡翠は自身の霊媒能力から事件の犯人を見抜く事が出来るのですが、その過程や証拠を見つけることが出来ません。

そんな彼女の結果論ありきの推理のアラを埋めていくのが作家の香月史郎。

霊媒探偵、というタイトル通り、犯人を見抜くホームズ役はヒロイン翡翠なのですが、犯人が分かっているミステリを推理力で繋げていくワトソン役、史郎の影の力が凄いのです!

 

霊媒という主題自体はちょっとトリッキーですが、警察に協力する作家というキャラクターや、幽霊が出ると噂される呪われた館でのパーティーなど、新本格ミステリを思い出す物語の作りはとってもツボ。

そして三つの事件を解いていく合間に、ラストに姿を表す殺人鬼の話が挟み込まれて行く…という物語の構造も、先が気になってとても良い。

 

久々に一気読みできたミステリでした。
やっぱりこういう正統派ストーリーが一番好きかも?

 

 

medium 霊媒探偵城塚翡翠

 

 

…以下、多少のネタバレがあります。

正直、これ以上の前情報はナシで読むのが一番楽しいタイプのミステリだと思うので、完璧に味わいたい人はここらへんで離脱だ!

 

 

medium 霊媒探偵城塚翡翠

medium 霊媒探偵城塚翡翠

 

 

 

 

…さて。正統派ミステリだー♡と無邪気に楽しめていたのは最終話の途中まででした。

 

えっ?
いやいや、犯人が〇〇くらいまでなら想像つきますけど、まさか〇〇まで⁉

 

古典的でシンプルなミステリだと思い込んで読んでいたので、オチが思いがけず麻耶雄嵩でクラクラしました。

よーく推理に目を凝らせば、ヒントはたくさん落ちていたはずなのに…
そうと知った後に見直せば表紙の儚い表情さえ違って見えるような気がして奥深い!

 

とにかく『medium』、私はめっちゃ楽しめました。
古典的で好きな雰囲気のミステリだけど、正直新しさには欠けるな?なんて思いながら読んでいた2時間前の自分を嘲笑いたいです。

お前は読後驚愕する羽目に陥るんだぜ…

ああこれだからミステリって楽しーー!

 

相沢沙呼さんの本はデビュー作『午前零時のサンドリヨン』以来でしたが、こんなに読ませる作家さんだったとは。これから他の作品も追いかけていきたいです。

もちろん霊媒探偵シリーズの次回作も気になる。
エピローグで語られていた次の事件は孤島の館の殺人事件。
むっちゃツボじゃないですか!

  

medium 霊媒探偵城塚翡翠

medium 霊媒探偵城塚翡翠

 

 

人間活動には向かない日

よく晴れた日曜日。
やりたい事はたくさんある。

まずは洗濯機を回して、部屋を片付けて掃除機を掛けて。
気温が上がってきたら布団も干してしまおう。
衣類の洗濯が終わったら、シーツも洗濯機に放りこんで。

お買い物は午前中に済ませたい。
必要なものが揃った冷蔵庫を前に、お昼の献立を考える。

簡単なランチを済ませたら、コーヒーを飲みながらゆっくり読書。
焼き菓子を拵えるのもいい。

家じゅうに甘い香りが充満して、幸せな気持ちになれる。
今の季節ならさつまいもやカボチャをたっぷり練り込んだパウンドケーキが最適だ。

まだ日は高い。
午後は何をして過ごそうかと悩むのもまた楽しい。

ウォーキングに出かけようか、それとも近所の日帰り温泉でまったり?

こうして充実した休日は過ぎていく…

 

f:id:yutoma233:20191109150146j:plain

 

 

…というのが理想なのだが。

 

もちろん気合入れて早起きして、充実した休日を過ごせることも多々ある。
家事を10時までに終わらせてしまえば一日はホントに長い。

子ども達が外に出かけた後は一人でのんびり図書館やカフェ、今の季節は温泉を満喫することが出来る。

 

 

けれども…!

月に一度は予期せぬ怠惰モードが訪れてしまう。


朝は布団の中でダラダラとスマホ。
なんとか起きて、パジャマのままで朝食は準備したものの、子どもたちが出かけた後はまたソファに寝転んでスマホで読書。なろう小説を読み終えたらまたオススメの小説を読んで、そのうち二度寝して…気がつけばお昼。

帰ってきた子どもたちにあわててインスタントラーメンを食べさせ、忘れかけていた洗濯物をようやく干し、夕ご飯直前に掃除機をかける。

あれ…今日は一日中パジャマだったわ…?

 

こういう日はちょっと凹む。
特に疲れている訳ではない、嫌な事があった訳でもないのに。

でもホント―に動きたくない、頭が働かない、こんな日もあるんだってばよ!


顔洗って髪セットしてメイクして、なんて毎朝当たり前にやっている事なのに今日に限っては地獄。洋服を考える事すらめんどくさい。

本当に申し訳ないけれどこういう日の約束は体調不良でキャンセルしてしまう。

 

今日の私はダメなんです…人間としてのネジが切れた状態なんです…

 

でもこの『ネジ切れ』、外交的なダンナや子ども達にも時折は訪れるようで。

 

休日は必ずマラソンに出かけるダンナが、一日中リビングでゲームをしていたり。いつも遊びに出かける子どもたちも、友達からの誘いを断ってソファでゴロゴロしていたり。

 

ぼーっとしてないとダメな日、ってきっと誰にでもあるんですよね。
そう気が付いたらネジ切れデイも時には仕方がない、と割り切れるようになりました。

 

こういう日があるからこそ、コタツを出して衣替えも終えた完璧な土曜日の自分が余計誇らしく思えるってなもんです。

 

…今日頑張ったから明日はネジ切れしたいんですけど早朝体育館の予定が…

おおむね人間、時折ポンコツ。
休日の私はこんな感じです。

 

 

 

体育館探訪の日々

11月はなんだか慌ただしい。

仕事に家事、子どもの文化祭やら大会やら三者面談やらに追い立てられてバッタバタだ。

中二は既に高校受験の話が始まっていて焦る。
中学に慣れるまではまったりと…なんて悠長に構えていたのに三年なんてあっという間。

長めに設えたはずの制服のズボンも、いつのまにやら八分丈になっていた。
冬休み中にお直しにださなくては。

入学式の時は私と並んでいた背も、いまや父親を追い越しそうだ。

 

中学生の長男は急激な成長とハードな部活のせいか、膝や足首を痛め様々な整体、接骨、整形に通う羽目になった。

運動嫌いの私にはまるで縁のなかったジャンル。

子どもがいると知らない場所に足を踏み出す機会が多くなり、否が応でも経験は増えていく。

 

ただしそれらを外部の人間から子どものおかげで人間的成長ガ―、なんてキレイごとでまとめられると非常に胸糞が悪くなるのだが。

おかげ、じゃねぇよ!確かに場数は増えたけど成長したのは私自身の実力でしょうが!(どうやら忙しさで心が荒んでいる模様)

 

とにかくまぁ、子どもがいると色んな場所に行く機会が増えるのはホント。

最近は体育館やらプールやら、運動施設にばかり付き合ってますが、精神が荒みがちな今は幼児の頃よく行ったデパートのキッズ向けゲームコーナーが懐かしい。

 

低くて小さい椅子、原色と大きな瞳のキャラクターで埋め尽くされた空間、寝転がりたくなる柔らかなクッションフロア。永遠に繰り返される戸田恵子のアナウンス。
やぁ、ぼくアンパンマン!って知っとるわ!(ええ、荒んでます)

 

昔夏休みのイベントかなにかで、広大な駐車場を開放してパンダカーとか消防車とか、いわゆる100円で乗れるおもちゃの車が、無料で乗り放題!時間無制限、みたいなイベントもあったのだが…

真夏で、日陰がなくて、どこまでも続くアスファルト、子どもを飽きさせない多種多量な車種!みたいな感じでそこそこな地獄でした。

休憩を挟みながら3時間くらいは遊んだだろうか…3時間いてもやっと引き離した記憶が…

パンダカーは3分間だからかわいいのだ、と思い知らされた事件でした。

大盤振る舞いは時に地獄を招くこともある、みたいな。

 

あれ?懐かしかったはずの幼児期がそこまで愛おしく思えなくなってきたぞ?

変だな、どうして辛い記憶ばかりが蘇るんだろう…もしかして育児って単なるスポコン…

 

いつか記憶が完璧に美化されるまでは色々封印しておきたい。

時が経てば楽しい思い出のはず…(吐血

 

とりあえず今週末も、高速乗って知らない体育館に行ってきます。

子どもの試合やら何やらはプライバシー上公開しませんが、最近ガチで体育館しか行ってないのでネタがっ…!

 

おのにちはそのうち体育館レビューブログになるのかも知れません。
この体育館のココが凄い!(誰が読むんだ

 

『僕は会社員という生き方に絶望はしていない。』を読んだ

人気はてなブロガー・フミコフミオ氏の著作「僕は会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴が開きそうになる」(タイトル長げぇよ)を入手したので今日はその感想を書いてゆく。

 

まずは数ページめくって思ったこと。

よ、読みやすい…!

いつもの通りの改行ナシ・変態的文章濃度なのだが、縦書き、文字下げ、空白を設けた構成なので10割増しで頭に入ってくる。

これが編集の力なのか?

 

内容もいつものブログよりは穏やかで、夫婦や家族の話が多めのエッセイ集(ただし皮肉はいつも通り満載)。

私はフミコ氏の奥様が好きなので、妻エピソード満載が嬉しかった。

皮肉と愚痴に満ち溢れた、いつも通りのフミコ・ペーソスなのだが夫婦の話はほんの少し柔らかで、暖かい…ような錯覚を覚える。

これは奥様の人柄がなせる技に違いない、といつも影の立役者だけを尊敬している。

 

 

 

ぼくは会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴があきそうになる。

 

 

フミコフミオの『妻』ファンの私としては貴重な奥様が登場する連載「フミコフミオの夫婦前菜」も毎回楽しみにしていたのだが、夫婦がテーマなのに『一人で食べてきてよ』と言われた第7回目から度々、今回は一人で…という説明がつくようになり、終盤に至ってはサラリーマンがお昼にちょっと豪華なランチ食べてるだけ、という単なるブログに。

そして偉大な奥様を頻繁に召喚しなかった呪いのせいなのか、企画どころか「みんなのごはん」というコンテンツそのものが終了してしまった。

やはり奥様怖いスゴイ。
これは崇め奉るしかない。いあ!いあ!

 

最終回。とっても良い話なのだがやはり妻の姿はない。いない理由すら、ない。

r.gnavi.co.jp

 

 

さて、この本の帯にはフミコ氏のコメントが書かれている。

普通の人間が普通に生きているうえで感じる納得のいかないこと、もどかしさならイヤになるほど知っている、これはそうした日々のやり過ごし方を真空パックしたものだ、と。

その言葉通り虐げられつつもどこか穏やかな日々の様子が独特の(ひねくれた)視点で描かれている。

しかしかつては『さえないオッサン(オプション:ED)』という最底辺代表として健やかに己を自虐していたフミコさんも、時代の変化で時には『既婚者のくせに!会社員のくせに!』と僻まれるようになってしまった。

更にはEDという立たない宝刀も、時の流れと共に病ではなく常態となりつつある。

き、きっつー。

 『普通』がもはや普通じゃない、そんな時代が来てしまったのかも知れない。

 

それでもフミコ氏はいまも変わらず、ケータイを恐るべき速度でポチポチ打ち続けておられる。

 

その筆致は今日も、のびやかに陰険だ。

 

ほぼ同世代の私としてはフミコ氏が書き続けておられる事がなんだか心強く、有難い。

そんな訳でこれからも奥様と御夫人と細君のご活躍を心待ちにしております。

 

そしてそんな素敵な奥様がガンガン登場する一冊「僕は会社員という生き方に絶望はしていない。ただ、今の職場にずっと……と考えると胃に穴が開きそうになる」とってもオススメです!

 

 

『恋する以前に普通の男がいない』という話と恋愛の凶暴性

最近、こんな記事を読みました。

『恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因』。

 

note.mu

 

…なんつーか、タイトルからきっつー。

『普通の男性』として箇条書きされた11の条件は、道徳的にとっても正しい。
でも正しすぎて色々ツラたん!

コミュ力あって、清潔で、常識的で。
こういうレベル高杉の人材が『女子の求める普通』で、でも普通の人がいないのよね、と盛り上がる女子会って地獄味が深すぎません?

  

なお、私の職場にもこうした『普通』基準を全部満たしたうえで更に長身イケメンというバチェラー・ジャパン的男性がいるのですが、数年前に結婚した奥様は仕事と育児を両立させた上で趣味のヨガまで極め、ついには自宅でヨガ教室をはじめてしまいました。

 

奥様は、ヨガマスター。

  

ストリートファイターII/ ダルシムさん家のカレー レトルトパック

ストリートファイターII/ ダルシムさん家のカレー レトルトパック

 

 

 

 休日パジャマでカップラーメンを貪り食らっていたら親族のアポなし訪問を受けウミガメのような涙を流す私とはクラスタが違うのです、人間としての階級が!

 

11の普通項目を全部満たす一般男性や、真面目で金銭感覚のしっかりした働く女性が『普通』、バチェラーやヨガマスターが『上級』なのだとしたら、下級の他に人外枠を設置して貰わないと(ナマケモノとかナメクジとか)私なんぞは寄る辺がありません、ガチで。

 

それから筆者が彼氏に「人参はそんな切り方しないよ?」と言ってしまい別室送りにするエピソードもしんどかったです。

ちょっと前まではなにか一品作れるだけでも料理男子!ともてはやされていたのに、今やキッチンに立つのは当たり前。人参の正しい切り方まで求められるのかよ…と時代の変化にゲンナリしました。

あと筆者、もしかしたら頻繁に「人参はそんな切り方しないよ?」的イヤミな詰め方してません?

いちいちすねるな、打たれ弱すぎ的な事言ってましたが、もしかしたら言い方が悪くて落ち込ませるのでは...などと勝手に妄想してしまいました。

 

ただし。

かつてはモテない女子だった、今も非モテ魂を捨てきれない私はこうも思います。
私も昔はこんな事言ってたかも…?って。

『普通の男』がいない、ってのは余りにも思い上がりの激しい言葉だとは思いますが、皆さん一度くらいは言ったことありませんか?

理想の相手がいない、好みのタイプがいない、って。

 

「好きになれる相手がいない」ってのは男女問わず不変の悩みだと思うので、冒頭の記事も『恋する以前に普通の男がいない』ではなく、『恋する以前に好みの男がいない』だったらこんなに燃えなかったんだろうなぁと思います。

 

  

比較対象を探してみた

 

さて、物事の検証には正確な比較対象が必要だと骨しゃぶりさんも書かれていました。そしてデータを基に論じること。

その結果、巨乳VS金と地位。

 

honeshabri.hatenablog.com

   

ならば女性の考えた恋愛対象には男性が想像するそれをぶつけなくてはいけません。

そんな感じでデータを基にざっくりと最近Twitterで話題になった男性の婚活ブログに関する記事を拾ってきました。

こちらになります。

 

togetter.com

 

 

このツイート、リプライ欄が阿鼻叫喚で埋まっております。

狂人の所業、一切の需要が無い、本物すぎてスゲェ…。

 

しかしながらこちらの婚活ブログと「普通の男がいない」と書いたnoteは同じ構造だと思います。

だってどちらも自分の条件に合う相手がいない、という話を書いているのですから。
巨乳献血ポスター対ギルガメッシュと同じ図式です。

社会的配慮があるかどうか、性的欲求が前面に出すぎていないかという差異はあれど、突きつけている欲求は同じです。

自分の好みのタイプがいない、オマエラもうちょっと俺に媚びろよという上から目線。

 

noteの記事は一見社会性が高そうに見えます。
コメント欄もザワザワしているようです。一般的な女性はこのくらいの『普通』を要求されているのか?このくらいのレベルじゃないと一般的な男性とは呼べないのか?

 

…そんなことは無いと思うっすよ、とナマケモノ枠の私が言ってみます。

 

これはあくまでも婚活市場のセンターを張れる「真面目で仕事も頑張ってる私たち」が求める『普通』という極めて狭い世界の話です。

それに、普通を目指すための方法論も、じっくり読みこんでいくと筆者のエゴが見え隠れしている気がします。

・金銭感覚が合う の結論が男性の方が多めに出せ、ってどういう事なの?思いやりや協調性を持てと言われてもじゃあ人参の切り方くらい許してよ、って話だし…。

ね?結局40代婚活男性と言っていることは同じなんですよ。

 

けれども、noteのminami-itさんも40代婚活男性ぽこ助さんも、恋愛市場にいるためにはこのくらいの攻撃性や自己愛が必須なんじゃないかとも思ったり。

私自身その年頃には『私に相応しい相手がいない』なんて思い上がりも甚だしいこと割と本気で思ってましたし。

振り返ればホントにクソバカ餓鬼なんですけど、でも恋愛ってそもそも気の病なので、そのくらい常軌を逸して自信満々で行かないと相手なんて誘いようがないんですよ。

悪名高い「恋愛工学」でも言われてますよね。自信を持って、いちいち相手に気を使わずに数をこなせ。

この『嫌われても次に行ける強さ』こそが恋愛市場にいる人間の持つ逞しさであり、今回は『普通』という言葉で人を傷つける傲慢さに繋がってしまったと思うのです。

 

婚活、恋愛。
良い相手と最善の繁殖をしたいという本能は時に理性を追いやり他者を傷つけます。

現代の非婚化の主な要因は経済的な余裕のなさだと言われていますが、SNSなどで『口説いている時のバカっぽい様子を拡散されてしまうかも知れない』という危惧も、もしかしたらあるのではないでしょうか?

 

だって誰だって嫌だもの、『こっちにだって選ぶ権利はある!』と知らない人から叩かれたり、こうやってブログで言及されたりさぁ。

そう思うと、この現代に恋愛市場に参戦できる男女って、全員がバチェラージャパンに申し込めるくらいの勇気を持った選ばれし戦士に見えてきました…。

晩婚、非婚化していく現代の理由が分かりますね。

 

さて、今回の結論としては『普通』で周りのメンタルをボッコボコにした女性はライオン級の猛者なので大人しく草食べてる私たちは気にすんな、恋愛市場は戦場だから怖えぞ!覗くときは気をつけろ!です。

 

とりあえず今の私はバチェラージャパンで他人のプロレスを覗き見してるくらいが一番楽しいかな…どうなる、シーズン3(まだ最終回見てないのでネタバレ厳禁)!

 

 

「まぁいっか」な日々

最近TwitterやLINE、リアルでも同じ言葉を使うことが増えた。
新たなる口癖の出現である。

 

しかしその言葉がちょっぴりネガティブ。

「まぁいっか」「まぁいいや」

 

諦観やないかーい!

年を取り、相手の事情やら何やらを勝手に察して配慮したり遠慮してしまうことが増えた。

 

だから

「えー!また大会の弁当注文と配達ウチなのー!○○さんちの番じゃない?」

「○○さんちのお母さんちょうど入院するらしくて…」

「あーじゃあ仕方ないね、まぁいっか、今回もウチでやります!」

と言った会話になりがちなのである。

(なお自分の失敗など一人で完結する話はまぁいっか、とはならない。反省するべしするべきオヤツ抜きよっ!)

 

そもそも他者が関する人生は思い通りにならない事が多すぎる。

 

だから争いごとを避けて
「まぁいっか」「まぁいいや」と気持ちを切り替えながら前に進んで来た訳なのですけれど…

 

最近ちょっとモヤモヤモヤ。

(多少)丸くなったのはいいけれど、私の怒りはどこに行ったの?
まぁいっか、ってちょっと色々諦めすぎなんじゃない?

 

でもね?最近そんな話を同僚に愚痴ったら、すごく前向きな答えが返ってきたんです。

 

自分一人じゃどうにもならない問題は「まぁいっか」と区切りを付けて前に進んで行く姿勢大事!自他の区別を付けて他人の事は早めに諦める。それって一番いいストレスの対処法だよ。

まぁいっか、はストレスの対処法?

 

そう考えたら、後ろ向きなはずのまぁいっか、がなんだかとても良い言葉のように思えてきました。

 

もちろん自分・家族・友人など、大切な人との係わりは「まぁ」なんて言葉で済ましちゃダメなんですけど。

一見さんは、まぁいっか…。あえて苦言を呈してやる義理もない(やっぱり諦めモード、そして冷たい!)。

 

それに最近、元々は人見知りで胃が痛かったはずの人付き合いやボランティアが、子どものため!と思って嫌々参加していくうちに慣れてきて、逆に楽しめるようになってきて…

他者や社会のために働くって、搾取じゃなくてwinwinなのよね。
そう気づいたら、いろんな役柄を押しつけられるのもそんなに苦じゃなくなって来た、というか。

そんな訳で最近は日々まぁいっか、まぁいいや!で過ごしております。

 

…えーと、ここで終われば多分良い話、で収まると思うんですけど…

あまりにもモヤモヤするんでやっぱり愚痴っていいですか?

大会の時は入院中だから、と弁当の配達や注文を肩代わりしたお母さんと退院後にお会いしたんですけど、明らかに鼻が高くなっていて…

皆はっきりとは言えないんですけど(え⁉手術箇所ってソコ⁉)とザワザワしておりまして…いや、入院には変わりないし良いんだけど、いいんですけどね?

鼻筋、通ってますよね―――!

 

ま、まぁいっか、なのです…

 

まあどうせいつか死ぬし ~清野とおる不条理ギャグ短編集~ (小学館クリエイティブ単行本)

まあどうせいつか死ぬし ~清野とおる不条理ギャグ短編集~ (小学館クリエイティブ単行本)

 

 

薔薇と電気信号

自分の中でもあまり上手く消化出来ていない事を書きます。

なんとなく罪悪感を感じたり、理解は得られないかも知れない、とも思うんですけどそれは分かった上で。あくまでも私はこう思うんだって話なので悪しからず。

 

私は花屋に10年以上勤めていたんですけれども、花屋ってのは人生のハレを装うための場所なんですね。

だから結婚式の花を生け、葬儀用のスタンド花をエッチラオッチラ運び…の繰り返し。

亡くなった人の顔周りを飾る花の首を切り落とした手でプロポーズの花束を作るなんて事もよくありました。

 

不幸の中には幸せという文字があるように、これらは限りなく近いものなんだ、と学んだのは花屋での日々からであります。

 

仏教でも、葬儀と結婚式は両方ハレと呼ぶのだそうです。
死も生も、両方尊いものなんですね。

 

でね、日々限りなく不幸な事と幸せな事が続く訳なんですけど、そうなってくると他者にとっては一生に一度のドラマのはずなのに、花売る側からしたらどこか似通った物語に見えて来るんですよ。

 

そうやって沢山の幸せと悲しみを見て行くうちに、人の生も死も単なる電気信号に過ぎないんじゃないか、本当に特別な私だけの幸せなんてないんじゃないかと思ってしまって…。

 

もう花屋は辞めましたけれども、電気信号にしか思えなかった悲しみと幸せのことは今でも思い出します。

 

今思えば同じ花屋や、出入りの式場に勤める人達は死生感がおかしいというか、サバサバし過ぎた人が多かったような。

ハレというのは、あまり接し過ぎると人の心を麻痺させるものなのかも知れません。

 

 

f:id:yutoma233:20191008200210j:plain

 

今でも私は私がどう見られるのか?と言う自意識にあまり拘れません。

もちろん『自分が自分自身である』と言う意識はとても大切な事だと思うんです。
それは孤独を耐え抜くための自我ですから。

けれども『他者から見た自分』については、そこまで拘れない。

 

だってどれだけ美しい花嫁さんでも、悲しい葬儀でも、365日見ている私達は一瞬で忘れてしまうんですもん。

だから自分という人生のドラマを見ている他者については、そんなに思い悩む必要はないのでは無いか、と。

 そう思えばプライドなんてなきに等しいもんで、とっても生きやすくなりました。

 

けれども生も死も単なる電気信号に過ぎないと感じた事については普段の生活では口に出しません、出せませんよね…。

 

誰もが大切な人を持ち、特別な人生を送っていると思っている。
だからこそ贈る赤い薔薇で、私はその棘を何百本も落とし、サテンのリボンで結びました。

 

今日も誰かが泣いて笑って、その脇で仕事に励む人が居る。

 

それはちょっと感覚を麻痺させるような奇妙な経験なんですけど。
それでも私は悲しみと喜びの傍にいた日々の事を愛おしく思い出せます。

 

そして花束にはすっかり慣れきったはずなのに、子どもが大事に背中に隠したカーネションの色は忘れられずに覚えていたりする私の矛盾も。

結局人は電気信号であり、そしてそれだけでは割り切れない生き物なのでしょう。

 

そんなファジィなこの世界を、私はとても美しいと思うのです…。