自分の中でもあまり上手く消化出来ていない事を書きます。
なんとなく罪悪感を感じたり、理解は得られないかも知れない、とも思うんですけどそれは分かった上で。あくまでも私はこう思うんだって話なので悪しからず。
私は花屋に10年以上勤めていたんですけれども、花屋ってのは人生のハレを装うための場所なんですね。
だから結婚式の花を生け、葬儀用のスタンド花をエッチラオッチラ運び…の繰り返し。
亡くなった人の顔周りを飾る花の首を切り落とした手でプロポーズの花束を作るなんて事もよくありました。
不幸の中には幸せという文字があるように、これらは限りなく近いものなんだ、と学んだのは花屋での日々からであります。
仏教でも、葬儀と結婚式は両方ハレと呼ぶのだそうです。
死も生も、両方尊いものなんですね。
でね、日々限りなく不幸な事と幸せな事が続く訳なんですけど、そうなってくると他者にとっては一生に一度のドラマのはずなのに、花売る側からしたらどこか似通った物語に見えて来るんですよ。
そうやって沢山の幸せと悲しみを見て行くうちに、人の生も死も単なる電気信号に過ぎないんじゃないか、本当に特別な私だけの幸せなんてないんじゃないかと思ってしまって…。
もう花屋は辞めましたけれども、電気信号にしか思えなかった悲しみと幸せのことは今でも思い出します。
今思えば同じ花屋や、出入りの式場に勤める人達は死生感がおかしいというか、サバサバし過ぎた人が多かったような。
ハレというのは、あまり接し過ぎると人の心を麻痺させるものなのかも知れません。
今でも私は私がどう見られるのか?と言う自意識にあまり拘れません。
もちろん『自分が自分自身である』と言う意識はとても大切な事だと思うんです。
それは孤独を耐え抜くための自我ですから。
けれども『他者から見た自分』については、そこまで拘れない。
だってどれだけ美しい花嫁さんでも、悲しい葬儀でも、365日見ている私達は一瞬で忘れてしまうんですもん。
だから自分という人生のドラマを見ている他者については、そんなに思い悩む必要はないのでは無いか、と。
そう思えばプライドなんてなきに等しいもんで、とっても生きやすくなりました。
けれども生も死も単なる電気信号に過ぎないと感じた事については普段の生活では口に出しません、出せませんよね…。
誰もが大切な人を持ち、特別な人生を送っていると思っている。
だからこそ贈る赤い薔薇で、私はその棘を何百本も落とし、サテンのリボンで結びました。
今日も誰かが泣いて笑って、その脇で仕事に励む人が居る。
それはちょっと感覚を麻痺させるような奇妙な経験なんですけど。
それでも私は悲しみと喜びの傍にいた日々の事を愛おしく思い出せます。
そして花束にはすっかり慣れきったはずなのに、子どもが大事に背中に隠したカーネションの色は忘れられずに覚えていたりする私の矛盾も。
結局人は電気信号であり、そしてそれだけでは割り切れない生き物なのでしょう。
そんなファジィなこの世界を、私はとても美しいと思うのです…。