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三崎亜記と町の感覚

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三崎亜紀さんの「メビウス・ファクトリー」という本を読んだ。
ME創研という企業がすべてを統治する町にUターンしてきた一家の物語。

三崎さんが描く「町」はまるで生き物の様で、少し気持ち悪い。
「メビウス・ファクトリー」には集団に属しているときの心地よさ、その輪を外から眺めた時の気持ち悪さが鮮やかに描かれていた。

三崎さんは静かに淡々と、生理的な感覚を切りとっていく。

主人公が属する町と言うサークル、そこが外部からはどう見えるか。
面白いけれど読み終わった後に周りを見回したくなる、そんな後味の話だった。

 

私も、町はサークルのようなものだと思う。

私達が住んでいる町は私達家族には居心地が良く、暮らしやすい。
まだ縁故というものが生きている田舎では、私がどんな人間かということより誰の孫、誰の娘、誰の嫁であるかが重要視される。

「この町産」の娘である私は、それだけで受け入れられ尊重してもらえる。

でもこの町に他所から越してきた人からすれば、どこに行っても出身地、親の名前を聞かれるここは嫌な町だと思う。

つまり属しているものには心地よく、縁を持たないものは拒絶される町。

でもポスターでよく見る、「みんなが暮らしやすい、明るく健全な町」なんて本当に存在するのだろうか?

どんな町にも、大小の差はあれサークルはあると思う。

私の町のように昔の歴史を気にしすぎる町、若いファミリー向けの町、高齢者ばかりの町。

全部を受け入れてくれるような、雑多な場所はあるのだろうか?
昔はそれが東京なんだと思っていた。

 

都会のサークル

 

 

メビウス・ファクトリー

 

都会に遊びにいくのは楽しい。
にぎやかな街の中は、歩いているだけでアミューズメントパークみたい。
ずっと「ハレの場」にいる気分。

でも誰もいない無人駅に帰る時、この静寂こそが私のいる場所なんだと思う。
都会の街の中では子どものころ潜り込んだ押し入れのような「一人になれる場所」がなかなか見つからない。

若い頃は都会に憧れて東京で就活したりした。

でも面接帰りの電車の中で、私はここには住めないと悟った。

表通りの町並みは、みんな真新しくてピカピカしている東京。
でも電車の窓から見る町の裏側は、くたびれてボロボロで、全てがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

都会に縁故がなく、お金もない私は、この町に暮らしたらきっと日陰の人間で、手に入らない真新しいピカピカを羨んだりひがんだりして暮らすんだろうな、と思った。

田舎では感じたことのない貧富の差というものを、都会ではひしひしと感じる。
会津ではめったに見ないホームレス、その前を通り過ぎるピンヒールの人。

都会にもサークルはあった。
たださまざまな輪が無数に入り組んでいるから、自分がどこに属しているか認識しづらくなるだけ。

都会に住んだら、手の届かないモノにばかり憧れて辛くなるかもしれない、と貧乏だった若い頃の私は上京を諦めた。


今は自分が属する町が結構好きだ。
余所者と言う意識の歪さ、これから起こるであろう過疎地の問題も全て、自分のこととして向き合って行かなくては、と思っている。

それから心地いいサークルの中にいる時こそ、周りへの配慮を忘れてはいけない。

例えばカフェで旧知の友人と笑い合う時、少し声を潜めるような当たり前の気づかい。
サークルの外からはどう見えるか?という意識を忘れないようにしなくては。

今日はそんなことを「メビウス・ファクトリー」を読んで考えました。
町という意識の物語。オススメですよ。

 

メビウス・ファクトリー

メビウス・ファクトリー