おのにち

おのにちはいつかみたにっち

怒りと痛み

スポンサーリンク

誰にでもこういう人だけは許せない、こういう行為だけは見逃せない、という『生理的な地雷』があるのではないだろうか?

もちろん犯罪行為は別として、身近な誰かや自分自身が痛めつけられている訳でもないのに怒りがこみ上げてしまう、なにかを言わずにはいられないことって、ブログやらブックマークやらTwitterやら、現実とは異なる場所と付き合っている私たちならよくある問題なのではないだろうか?

そして怒りが湧いてくる『地雷地点』をじっくり観察すると、そこが自分の弱みや私的な痛みと結びついていることもあると思う。

少なくとも私はそうだ。

 

私は自分より若いとか女性であるとか、学歴が低いとか所得が低いとかいう理由で『見下せそうな人』、あるいは包容力がありそうとか優しそうとか『甘えられそうな人』、逆に自分より人気があるとか有名であるとか『立場のある人』、とにかくそういう遠い他者になら何を言ってもいいと暴言を吐く、他者に甘える人がこの世で一番大嫌いだ。

こういう人はSNSでも、現実社会でもよく見かける。

相手がキャバ嬢だろうが金を払っていようが、暴言を吐いていい理由にはならない。
酔っぱらっていようがなんだろうが、身勝手な理由で誰かを不条理に貶めて、自分の鬱憤を晴らそうとする人には軽蔑と憐れみしか感じない。

 

しかしよく考えてみると私の怒りこそが、身勝手な義憤なのである。
私自身や私の身近な人間が貶められているのではない限り、私に怒る権利は無い。

甘える側にも甘える側なりの理由はある。彼らは彼らなりに不当に社会に貶められていると思っていて、その不当さを理由に自分の鬱憤を不当に晴らしていいと思っている。

その不当の連鎖が私には本当にムカつくのだけれど、押しつけられる側は実はもっと逞しく、その不当を飯の種に代えたり、不憫だと憐れんだり無視したり、したたかに生き抜いている。

 

他者の痛みを勝手に引き受けて怒ったり、悲しんでしまう事は優しさでも正義でもない。そこに自身の痛みやトラウマがあるからこそ、私は怒るのだ。
それは私の側の問題なのだ。

 

40を過ぎて、未だに過去に囚われている自分が恥ずかしいのだけれど、私には中学生で自立しなければならなかった、という痛みが未だに残っている。

私の母は中学生の私に、もう中学生なのだから制服や学用品以外の私物、自分の下着や私服までお小遣いやお年玉で賄うように言った。

お小遣いは月3千円、お年玉は2万円程度である。長期休みは学校に内緒でバイトしたけれど(中学生のバイトは認められていなかった)、ほとんどは読みたい本に費やしてしまい、私服や下着にまでお金が回らなかった。

また、ちゃんとサイズを測って貰えば良かったのだけれど、そんな勇気も遠出するお金もなく、安さ優先で通販で買った下着ばかりを身につけていた。

勿論サイズはあっておらず、一度体育館裏にスクールカースト上位の女子に呼び出された。あなたの下着は小さくていやらしいと。

買うお金がなくて、サイズもよく分からない、と素直に言えばすぐに解放されたが彼女が呆れたように言った言葉は今も忘れられない。

お母さんに言えばいいでしょう!?と。
彼女の場合はそうなのだな、と心が凍り付いたことを覚えている。

でも母や、両親へ怒りを向けたことは無かった。

今でも悪いのは下着ではなく欲しい本を買ってしまった私、きちんとした下着を買う知識の無かった私だと思っている。

私の弟たちも、後に私物は自分で買うルールにぶつかったが、バイトをする暇がない、したくないなどの理由で親にねだり、きちんと買って貰っていた。

私は私の要領の悪さ、上手く甘えられない姿勢が悪かったのだと思った。

 

今自分が中学生の親になって、中学生の子どもが自分で自分にサイズのあった下着を買うことなど不可能だと思うし、不当だと思う。

でも私はそれをかつての私に置き換えて、甘やかしては考えられない。
私は私に厳しくして人生を乗り切ってきたし、それが正しくないのならば親を恨まなくはいけないからだ。

40過ぎて、今私を一番に頼る子どものような両親を恨むこと、見据えることはとても面倒くさい。できれば生涯目を逸らしていたい。仕方のない人として、しっかり者の長女として自分の子どもより甘やかして生きていきたい。

誰かを育てたり、厳しく向き合うには愛情が必要だ。
私は自分の親に対してその愛情に自信が無い。そしてそんな酷薄な自分と向き合えない。

 

今の私が、誰かに甘える人に強い怒りを覚えるのは、『他者に甘えなかった自分が正しい』と思いこみたいからだ。

そこには私が解きほぐさなくてはいけない自分自身の痛みや歪みがある。

甘える側には甘える側なりの理由があり、その甘えに火のついたような痛みを感じるのは私自身の問題だ。

 

この先も私自身に不当な甘えをぶつけてくる輩には、誰にどう思われようがヒステリックな怒りをぶつけるだろうと思う。

でもなるべく、他者への甘えには目をつぶりたい。
その怒りは正当ではない。義憤を装ったその感情が、私にとっての『他者への甘え』だと気が付いてしまったから。

 

結局のところ人生で一番大切なのは誰に認めてもらうことでも、誰に愛してもらうことでもなく、私自身が私に満足することなのではないか、と思っている。

歳を経て私はちょっとずつ取るに足らない私を、不完全な私を、それでも愛おしいと思えるようになってきた。

そう思えるようになったら、貶めの形をした甘えも少しは許せるようになってきた。

それでも多くの人は私より幸せに見えて、完全な形をしているように見えて、なのになぜ甘えるのよとやっぱり怒りを覚えるのだけれど。

 

世界で一番自分に厳しいのは、きっと自分なのだと思う。
だから誰かに愛されたり、優しくされた記憶だったり、そういう柔らかな暖かさを思い上がりだなんて思わずに、もっと素直に大事にしていいいのだ。

私にとっての私は『取るに足らない存在』ではないのだと気づくことが怒りを抑える一番の処方箋であると、最近ようやく気が付いた。

それでも時には怒りに任せて、自分を粗末に扱ってしまうのだけれど。

 

私はあなたに、もっとあなたを大切にして欲しい。
自分を大切に思えたら、自分を傷つけるような、何かを失うような怒りの発露は少なくなるように思えるから。

 討論はいいけど、そこに自分自身の怒りやトラウマをぶつけるのは違うよねと、私はたくさんの怒れる人たちの顔を思い浮かべながら呟きます。

自分自身、怒りが絡むと身勝手な推論が混じってしまってそこにある事実だけを見据えることは難しいのだけれど。

 

私たちは自分自身の身近な罪を正当に裁くことが出来ない。
だからこそ法や裁判があるのだろうと思います。

怒りを抑えることは自分を大切にすることです。
怒りっぽい私に言い聞かせるように、ここに書き記しておきます。