おのにち

おのにちはいつかみたにっち

ネガティブ・ケイパビリティが教えてくれる、萌え絵嫌悪論への抗い方

スポンサーリンク

 黄金頭さんのこの記事を読んで、帚木蓬生氏の『ネガティブ・ケイパビリティ‐答えの出ない事態に耐える力』という本を買ってみた。

 

goldhead.hatenablog.com

 

これがしみじみ面白い。
作家であり、精神科医である著者が「人生を生きやすくする負の力=ネガティブ・ケイパビリティ」について語っているのだが、このネガティブ・ケイパビリティという能力こそが、逆境を生きぬくために必要不可欠な力なのではないかと思わされる。


では具体的に「ネガティブ・ケイパビリティ」とはどのような能力なのか?

本の中では『「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」あるいは「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味する』と書かれている。

世の中に溢れている「こうすれば、簡単に、苦労なしで問題が解決できる」系の本はネガティブ・ケイパビリティの逆、ポジティブ・ケイパビリティと呼ばれている。

簡単にいえば自分の悩みをスッキリ解決できる、すぐに得られる答えを求める能力がポジティブ、逆に解決しない答えを抱えていても持ちこたえていくことが出来る能力がネガティブ、ということなのだろう。

 

私はずっと、例えば強制収容所のような過酷な環境で、生き残る人と命を落とす人の違いはなんなのかと考えていた。

体力や年齢の違いは勿論、それ以上に不条理を生き抜く意志の力が必要なのではないかと。その意思の力に「ネガティブ・ケイパビリティ」という名前をつけてみれば、実にしっくり収まってくれる。喝采モノである。

早急な解決だけが良策ではないと語る本に、スッキリを覚えるのは我ながら短絡的で矛盾しているのではないか、と苦笑したくもなるのだけれど。

 

萌え絵とネガティブ・ケイパビリティ

 

まぁそんな訳で、簡単に解決できない問題に対して性急に答えを求めない能力「ネガティブ・ケイパビリティ」は多種多様な価値観が言語化されるようになった現代にこそ、必要な気がします。

例えばシュナムル氏によるTwitterでの発言から始まったラノベ表紙問題、NHKの特設サイトに登場したキズナアイが批判されたキズナアイ騒動。

こうしたジェンダーに関わる炎上を見るたびに、短文で簡単に自分の言いたい事だけを発言できるTwitterで、複雑な問題を語るのがそもそもの間違いなのではないかと思ってしまうのです。

強い言葉を吐かざるを得ない意識の根底にはその人が過去に経験した出来事ー強い干渉、もしくは非干渉があるのではと思います。でもそうした根底にある物語はたった140字では書き表せません。そもそも書いている当人ですら、自分の根底にある痛みから目を逸らしている場合もあるのかも知れません。

 

男女共に自分が生理的不快感を感じるものを探し、その根底にある「なぜ」を追求することこそが、各々の解決に繋がると思うのですが、見たくないものからは目を逸らしたいのが人間のサガと言うものです。分かりやすい悪を探し、お気持ちで自粛を要請する。ポジティブで現代的なやり方です。

そもそもTwitterというコンテンツそのものが分かりやすく、インスタントにーつまり「ポジティブ寄りに」出来ている。こうした場所は、置かれた価値観、常識によって答えが変わってくる複雑な問題を語るには向かない、議論の場に適していないと思うのです。

では、どうするべきなのでしょうか?いくらネガティブ・ケイパビリティが大切だと言っても、分断を放置しっぱなしにしておくのはどうも落ち着きません。

 

過激なラノベの表紙や、バ―チャルアイドルのノースリーブ衣装は本当に女性の権利を侵害しているのでしょうか?
私は過去に起きた事件に答えがあるような気がしています。

 

キズナアイと有害図書問題

 

f:id:yutoma233:20181013194635p:plain

そもそも萌え絵は本当に、女性の権利を侵害するものなのでしょうか?

私自身はラノベ、アニメ、ゲームといったオタクコンテンツにどっぷり漬かった萌え肯定派の人間です。

ラノベの表紙は昔からあんな感じだし、キズナアイちゃんはマシーナリーとも子の次にカワイイ。衣装だって普通としか思えません。

しかし私の考えがオタク文化に親しみすぎた、歪んだ物なのではないか、と危ぶむ気持ちも多少はあります。

 

権利侵害という言葉を聞いて真っ先に頭に浮かんだのは1950年代ごろから始まった有害図書問題です。

PTAが主体となったエロ、グロ、暴力表現への抗議活動により、各都道府県で青少年保護育成条例が制定され、各知事の指定を受けた性や暴力に対して露骨な表現のある作品は18歳未満に対しては販売してはならない、という制定が出来ました。

1990年代には有害コミック運動が勃発。
当時人気だった「北斗の拳」や「ドラゴンボール」まで暴力的であると批判を受けたそうです。

そして特に槍玉にあげられたのが性的な描写を含む漫画。
月刊マガジンの「いけないルナ先生」やヤングサンデーの「ANGEL」などは書店から回収される騒ぎに。今考えると少し不思議ですね、両誌とも子ども向けではないのに。

今一部のコミックに付けられている「成年向けマーク」はこのときの騒動を受け、それぞれの出版社の自主規制、自主判断でつけられたものなのです。

 「いけないルナ先生」が回収だった時代から考えれば、確かに昨今のラノベの表紙は少々過激であると言わざるを得ません。

シュナムル氏の「ラノベ表紙を気持ち悪いと娘が言った」発言はジェンダー、性の抑圧と一見現代的な要素をまとっているように見えますが、主張自体は1950年代からPTAが言ってきた内容となんら変わりありません。

子どもに性的なものを見せるな、というゾーニングの問題です。

 

有害図書~有害コミック問題は主に子を持つ親が中心となって全国的な騒動になり、多くのマンガが槍玉に上がりました。
親たちが子どもに暴力的なもの、性的なものを見せるなと要求し、その結果多数の本が回収や発禁に追い込まれ、有害図書や成年向けマークと言ったゾーニングが当たり前になりました。

現代のPTAにはあの頃のような活気はなく、マンガもまた子どもに対する強い影響力を失いました。

あの頃のPTAに変わって盛り上がっているのがフェミストと呼ばれる女性達、そしてマンガに変わって槍玉にあげられているのがバ―チャルアイドルや萌え絵のような、子どもたちに強い影響力を持つコンテンツなのではないでしょうか?

全ては形を変えて、同じことを繰り返しているだけなのです。

 

1990年代、マンガに対する強い弾圧に出版社側は本を回収し、販売を停止したりマークを付けたりと配慮の姿勢を見せました。

そして年月が経ち、今や大人も子どもも、マンガを当たり前のコンテンツとして受け入れています。作品の内容に関わらず「マンガを読むとバカになるから子どもには読ませたくない」そんなことを言う親が、かつては本当に実在していたのです。

こうやってかつてはさんざん悪書扱いされたマンガへの評価が変わったのは、やはりネガティブ・ケイパビリティ、すぐに解決できない問題に耐える力だったのではないでしょうか。

マンガを読んで育った世代がそのまま大人になり、マンガが悪いものだという価値観を持つ者が居なくなった。早急に答えを求めず、待ち続けることで事態は改善されたのです。

では萌え絵嫌悪論者にも、そんな風に待つことで立ち向かえばいいのでしょうか?
しかしそもそも萌え絵嫌悪派はPTAほどの勢力を持つ多数派なのでしょうか?
そして子どもを守れとPTAが行った有害図書規制は、本当に子どものためだったのでしょうか?

 

長くなりすぎたので続きはまた次回。
次回は見慣れないものを拒絶する心理というお話です。

  

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)