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ネガティブ・ケイパビリティが教えてくれる、萌え絵嫌悪論への抗い方-その2

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さて、前回はシュナムル氏によるTwitterでの発言から始まったラノベ表紙問題、NHKの特設サイトに登場したキズナアイが批判されたキズナアイ騒動…そういった萌え絵嫌悪論はかつての有害図書問題の焼き回しなのではないか、そして出版側は待つこと耐えること、つまりネガティブ・ケイパビリティという力で事態を乗り切ってきた、という所までお話ししました。

 

yutoma233.hatenablog.com

 

 

今回は萌え絵嫌悪派はかつてのPTAのような一大勢力となり得るのか?そしてPTAが行った有害図書規制は本当に正しかったのか?というお話です。

 

そもそもかつてPTAが行った有害図書問題とは、本当に子どもを暴力や性的表現から守るためだけのものだったのでしょうか?

もちろん本当に、子どもの事を考えて行動した親も存在したのだろうと思います。

しかしヤングサンデーなどの青年誌にまで規制の手を伸ばすのは明らかにやりすぎですし、1950年代の悪書追放運動では手塚治虫の「鉄腕アトム」までもが焚書の憂き目に合わされています。

私が疑問に思うのは、鉄腕アトムを燃やした人が、月刊マガジンの「いけないルナ先生」を回収に追い込んだ人たちが、本当にその作品のことを知っていたのか?ということです。

1950年代は漫画全てが、そして1990年代にはちょっとエッチな漫画が、その内容に関わらず槍玉に挙げられていたように思えます。

その根底には新しいコンテンツはとにかく避けたい、見たくないという「生理的な拒絶」が隠れていたのではないでしょうか?

 

私自身、なんとなく子どもにYOUTUBEを見せたくない、という不条理な感情に囚われたことがあります。しかし小説に良書と悪書があるように、YOUTUBEが全て悪である、などという不条理な事態はあり得ない訳です。根底にあるのは私自身がYOUTUBEを見慣れていない、という拒否反応だけ。

そんな拒否反応もYOUTUBEのフィットネス動画を見慣れたら止みました。
アニメもマンガもVチューバー動画もラノベの表紙も、あくまでコンテンツの外側にしかすぎません。本と同じく、良いものも悪いものもある。
大切なのは自分の感情が不条理であると気が付くこと、そして苦手なものを学んでみることだと思うのです。

 

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 さて、現代の萌え絵問題に移ります。

 ラノベ表紙問題、バーチャルアイドル騒動は単に萌え絵だけの話ではなくジェンダー論争と複雑に絡み合っています。
今回はシンプルに、萌え絵への嫌悪感だけを議題に上げたいと思います。

 

例えばこちらの児童書の萌え絵化というTwitterまとめ記事。

togetter.com

 

基本は最近の絵本に萌え絵が使われているのは時代の流れである…というもっともな話ですが、中にはやはりこの絵柄は酷い、こうした本を与える親の気が知れないとおっしゃるかたもいます。愕然としたり、違和感を覚えたり。

これもまた、新しいコンテンツへの「生理的な拒絶」なのでしょうか?

  

「なんとなく、気持ち悪い」

 

萌え絵の問題はマンガよりも複雑です。

萌え絵についてはマンガのように見慣れないもの、新しいものという意識よりも、表舞台に出てきてはいけないものという禁忌感を抱いている人が多いのではないかと思うのです。

 もしかしたらその「禁忌」は1990年代の、苛烈なオタクバッシングから生まれた感情なのではないでしょうか?

 

“宮崎勤”を探して

“宮崎勤”を探して

 

 

実は私自身、地元の山中を走る萌え絵のラッピング電車を初めて見かけた時は少したじろいでしまいました。猫と女の子が描かれた可愛い電車に、何故羞恥を覚えてしまったのでしょう?

私の中にも未だ、オタク的要素を表に出すと叩かれるというあの当時の禁忌感が残っているのだと思います。

 でもそれはあくまでも1990年代の苛烈なオタクパッシングを生きた人達、そしてそういう親に育てられた子どもだけに通じる価値観です。今を生きる子ども達は過去の事件など知りません。ただ流行りの絵柄を消費しているだけ。

 昔の絵本も現代の絵本も、絵柄が多少変わっただけで内容は同じです。
人魚姫の露出も同じ、子ども向けですから過度に性が強調されている訳でもない。

 

もちろんエログロ暴力はゾーニングされなくてはいけません。
でも絵本の絵柄が今時だからと言うだけで子どもに与える人の気が知れない、とまでおっしゃるのは行き過ぎではないでしょうか?
きっと鉄腕アトムを焚書にした人達も、その当時はこう信じていたのでしょう。

この本は子どもに悪影響を及ぼすに違いないと。

 

 

私は昭和の有害図書問題も現代の萌え絵嫌悪も、根底にあるのは知らないもの、そしてかつて忌み嫌われていたものへの生理的な拒絶だと思っています。勿論有害図書問題から時が過ぎ、性的なコンテンツが台頭しすぎた感は否めませんが。

しかしこうした拒絶は新しいコンテンツが一般的に普及し始めた時によく起こり得る問題です。NHKに登場したキズナアイに関する騒動などは、正に新しいものへの抵抗感を覚えた方も多かったのではないでしょうか。

 

 さて、では萌え絵嫌悪派はかつてのPTAのように多数派になり得るのでしょうか?
それとも萌え絵やバーチャルアイドルはかつての漫画のように当たり前のコンテンツとしてお茶の間に君臨するのでしょうか?

 

これもまた、時間の問題のような気がするのですよね…だって会津の山中でさえ、かわいい萌え絵電車が走っているのですよ?誰だってそのうち見慣れてしまうと思うのですが。

 

現在Twitterなどで萌え絵への抵抗感を表明しているのは30代over、オタクへの誤った価値観を植えつけられた大人と、そんな彼らに育てられた子ども達ではないでしょうか?

10~20代、多くの若者たちからは既に、オタクは恥ずかしいという意識が消えているように思えます。

 

勿論萌え絵を用いたコンテンツにもゾーニングは必要だと思いますが(成年向けよりも過激な作品が最近増えて来たのでは?)萌え絵のすべてが気持ち悪いなんて論調は10年後には発言者にさえ理解しがたい、古びた感覚となっているはずです。

漫画への抵抗感を時間が解決してくれたように、萌え絵が常識となる未来は多分すぐそこです。

慣れないもの、嫌いなものに抵抗感を覚えてしまうのは仕方がないことですが、もしもそれが言語化しようのない「なんとなく気持ち悪い」という感情論ならば、時間が解決してくれるかも知れないと信じて、曖昧なままにしておくのも前記事で紹介したネガティブ・ケイパビリティ、この世界を生き抜く知恵です。

そして萌え肯定派の私たちもまた、かつての漫画がそうだったように時間が解決してくれる問題だと信じて、口を噤んでおくのが良策なのかも知れません。

 

本当に素晴らしいもの、私たちが愛するものはどんな規制にあってもきっと、滅びないのだから。 

 

 

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)

ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書)