おのにち

おのにちはいつかみたにっち

誰がためのワタシが辛い

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忙しい忙しいばっかり言ってると自慢かと思われがちな世の中である。

確かに若い頃の忙しさは全部自分のためで、忙しいなりに成長が得られた。

だからあの頃の『忙しい』連呼には多少の奢りもあった訳なのである。忙しいワタシって意識高い子!みたいなプライド。

 

対して40代主婦、昨今の『忙しい』は、なんか違う。胸を張って忙しいとは決して言えない。だってなんか日々、とにかく待たざるを得ない待機時間が発生してそれが生活を圧迫してるんだもの…!

 

例えば週末。

子どもの遠征に付き添い片道2時間の運転、体育館で大会終了まで4時間待機。結局ほぼ1日を消費。

平日も週に3回子どものスポ少の送り迎え&待機で2時間消費。

 

これ、私だけじゃなくてたくさんの親御さんたちがやってる事だと思う。

習い事、学校、通院しているお子さんもいるよね。だからこんくらいの待機時間で弱音吐いてちゃいけないんですけど…

 

おおおおぅ!みんなも!私も!お疲れ様だーーっ!

 

もちろん、私が待っている時間は決して無駄なものではない。子どもにとっては絶対必要な送迎だし、彼らは日々何かしらの成長や、成果を得ている。子どもの成長を一部自分の手柄として捉えたら良い…のかも知れないけど。

 

でもこの忙しさはなんか自慢できない。

自慢出来ないどころかちょっと胸が痛い。

朝早かったから片付いていない家の中、忙しいのに取ってしまった有給休暇…。

必要だから確保した時間なんだけど、私が当事者として大会に出ている訳じゃない。あくまでも補助者として、応援の時間以外はひたすら時間を潰している訳で。

 

こんな時、なぜかいつも湧き上がる罪悪感。

誰にも、何も言われてやしないのに、今この場で暇そうに時間を潰している事への背徳感が押し寄せてくる。

とりあえず読みたい本や動画をダウンロードしたり、準備は色々してるんですよ。

でもそれってあくまで暇つぶしじゃん?

自分自身が成長出来ること何一つしてない訳じゃん?

勉強しようかな、とも思うんだけど最近ちゃんと机に向かって書きながらじゃないと全然覚えられないのです!痴呆でゴメン!

 

家族の付き添いで病院待ちとかホント辛い。

当事者本人は必要があって来ているから良いんだけど、職員さんが忙しそうに駆け回る中一人優雅に本読んじゃってすいません的なっ…!

 

そして片付いていない家の中の記憶が、私の心を締め付ける。なんでやるべき事をやらないままにこんなとこでゴロゴロしてんだクソがー!

 

もちろん、世の中みんな大変なんですよ。

独身も既婚者も老いも若きも、みんなそれぞれのしんどさを抱えてる。

 

ただ今日の私はひたすらゴトーを待ちながら家族の介護とか看病とか補助とか、そういうもので自分のために時間を使えない、外でも家の中でも待機やら何やら『誰かの為の時間が長い』人って大変だなぁ…と考えてました。

 

ホントは絶対に必要な時間のはずなのに、やらなくてはいけない事をこなしてるはずなのに、なぜか胸に押し寄せてくる『何もしていないことへの罪悪感』。

 

子育てや介護のために自宅に居る方とか、本当はとっても重大な役割を果たしているはずなのになぜか社会に参加できていないと思ったり、疎外感を感じる事はありませんか?

 

私は専業主婦だった時その手の罪悪感が押し寄せてきてダメでした。

働いてる方がよっぽど楽。自分の時間を自分の仕事に費やして、自分の報酬を得てはじめて何かを成し遂げた気分になり、気が楽になった。

 

ひきこもりとかもそうなのかもね。

本当は、家の中に篭っていても家族と協力して生きていられるならそれで良いはずなんです。

掃除とか料理とか、家事が出来れば更に良いし、小さな手伝いだけでも充分家庭という小さな社会の役には立てているはず。

 

でもなぜかそこの成果は見逃されがちで、当事者ですら上手く認められなくて、だから家庭の中だけで働くことは辛い仕事になってしまうのかも。

 

専業主婦が自己肯定感を持てる世の中が生まれたら、それはひきこもりも暮らしやすい社会だと思うんですけど、いかんせん今の世の中時間も金も人も、余裕が足りなすぎるのよね。

私だってニセンマン欲しいぃ!

 

社会を変えるのは大変だから、まずは私自身がこの何もしていないように感じる罪悪感から解放されなきゃ、と待ち時間にこの記事を書いてみました。

 

そんな訳で、私のゴトーはまだ来ません。

おなかが、空きました…

 

名づけえぬもの

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