大会を控えた上の息子が、練習中に足首を痛めてしまった。
夫婦で心配して、テーピングの巻き方を勉強したり、整体に連れて行ったり。
そうやって構っていたら今度は下の息子がいじけた。
夜中に突然、足が痛いと泣きだしたのだ。
慌てて様子を見るものの、外観には何の異常も無い。
とりあえず湿布を貼って、丁寧に包帯を巻いてやったら安心して眠りにつき、次の朝にはケロっとしていた。
寂しい思いをさせたのだろうか、愛情が足りなかったのだろうか…
と一瞬反省しかけたがすぐに思い直した。
愛情なら!コッテコテに足りまくってるわヴォケ!
年の離れた末っ子として両親からも兄からも愛されまくっている下の息子。
単にいつもの自分のポジションが兄に奪われた気がして不安だったのだろう。
上の息子も弟が生まれてからしばらくは不安定で、愛情を確認するかのように問題行動を繰り返した。
子ども特有の行動?と思ったけれど大人でもあるよね&いるよね…
他人の不幸話に張り合う人とか、自分のポジションを守りたいがために他人に仕事を教えない人とかさぁ。
チヤホヤされたかったり、地位を守りたかったり。
それらは人の原始的な衝動なのかも知れません…
そういえば昔参加した幼児教育の講演会でも、子どもが親の愛を求める欲求には底が無い、という話があった。
幼児教育の専門家が指導していた家族の中に、とても教育熱心な父親がいた。
忙しい仕事の合間を縫ってキャンプに連れて行ったり、スポーツの遠征や大会に付き添ったり。
傍から見ている側にも伝わるような熱心さで、子どもはさぞや感謝しているのだろう…と思っていたらある時その子が「うちの父は仕事にしか興味が無いんだ」というような愚痴をこぼし、その場にいた人たちは皆「ええっ!」と驚愕したそうである。
家の中と外では違うのか?と思っていたが本人の母親も驚愕していたので『親の心子知らず』は本当なのだと思いました、と話をまとめられていた。
実際、その専門家の方が教える保育士の卵達も、実習に出てはじめて親の愛や有難みを実感したと語るらしい。
子どもの内は、自分の家庭の事しか知らない。
愛情への欲求は基本底無しだから、親がどれだけ愛情を注いでもそれが贅沢な事だとは知らない子どもは満足できない。
社会に出て、様々な環境を知って初めて、自分が今まで置かれていた場所の本当の価値を知る。
だから最初から色々な境遇を知ってしまった養護施設育ちの幼い子ども達は、驚くほど親に謙虚で、献身的なのだそうだ。
そしてこうした講演会を聞きに来る親御さん方は普通より子育てに熱心なはずだ、だから親の愛情が足りないのではないか?などと思い悩む必要は無い。
ただし子どもには出来るだけ多様な経験をさせてあげて欲しい、彼らは社会の中から多くの事を学ぶのだから、と講演は締めくくられていた。
ぼんやり、元事務次官の息子の話を思い出す。
愚母という憎しみに満ちた言い方や大事なプラモデルを破壊された、なんてエピソードから最初はほんの少し子育てが厳しすぎたのかな、と思ってしまった。
でもそれは一方の話にしか過ぎない。
経済的には充分すぎるほど恵まれていたはずだし、プラモデルを破壊するほどの怒りに至るまでには親の側にもそれなりの鬱屈もあったはずだと思うのだ。
彼の家族の一番の過失は、暴力を振るわれたときに警察を呼ばなかった事だと思う。
ネットでは製造者責任を果たした、なんて賞賛の声も上がっていたけれどそれはおかしい。
たとえ親子でも人を裁くのは人じゃない、法でなくてはと思う。
そうじゃなければ世界最古の法典から、私たちが何千年も考え続けてきたことが無駄になってしまうではないか?
依存気質の人間に全力で縋り付かれ、こちらまで病みそうになったので慌てて身を引いた…みたいな話を聞いたことがある。
人と言う字は支え合って出来ているけれど、多分一人の人を一人の人間だけで支えられるほど、私たちは強くない。
DV気質の人間がまず行うことは支配したい相手を孤立させる事だ。
たった一人がその人にとっての全てになるから、不条理な暴力から逃れられなくなる。
私も、あなたも、当たり前だけど世界の全てにはなれない。
神様になるには1億年早い。
母しか出来ない己の身の程をわきまえ、教育、スポーツの指導、果ては万が一暴力を振るってしまった時の対処法まで、間違っても自分一人で解決できるだなんて思い上がらない事が重要だ。
閉じたままの貝にはならない事。
多分病まずに生きていくために一番重要なのがその事で、でもそのためにはある程度の社会貢献も必要なのかなと思ったり。
とりあえず今日も思考は飛び飛びですが、人は一対一の関係性だけでは生きられない生物なのだ、というのが今の私の結論です…。