三浦しをんさんの『白いへび眠る島』を読んだ。
古い因習が残る島で行われる儀式、島の人間が当たり前に受け入れる『この世ならざる者』という感覚。盛り上がりには欠けるが綺麗にまとまった佳作であった。
さて、この本を読んで思い出したのが私の祖父の話である。
仕事を終えた後はいつも山の小屋で木工や畑に勤しんでいた祖父だったが、時には家で大人しく過ごしていることもあった。
そんな祖父に今日は山に行かないのか、と尋ねると「風(ふう)が悪い」と答えるのが常であった。
『風(ふう)が悪い』というのはこの地方でよく使われる方言で、おそらく風評の風(ふう)、「世間体が悪い」といった意味合いでよく使われる。もしくは単純に天候が悪い事を指す時もある。
しかしながら祖父の言う『風』は世間体にも天候にも当てはまらないことが多く、子どもの頃の私はいつも不思議に思っていた。
大人になった今、山へと続く一本道は、ほぼ貸切の贅沢な散歩コースになっている。
鬱蒼とした樹々に覆われた、車一台分くらいの細い山道。
15分も歩けば行き止まりで、小さな小屋と山頂からの景色が見える。
私はその場所が好きで、実家に帰る度にちょっと抜け出しては一人で山に赴くのだが、時折なぜか樹々の向こうが恐ろしくなり踵を返すこともある。
勝手知ったる山なのに、迷いようもない一本道なのに、どうして?
…上手く言えないのだけれど、森の奥になにかいる、と感じる時があるのである。それは獣なのかも知れないし、私の知らない『ナニカ』なのかも知れない。
とにかく、当たり前の山が「恐い」と感じられる時があって、そんな時は登らない、足を踏み入れない。
もしかしたら祖父が言っていた「風が悪い」というのはこのような感覚なのかなぁ、と思ったりもする。
どちらかと言えば不信仰で罰当たりで、「お化けなんてないさ」と歌い出したくなる人間なのだけれど、それでもね。
ふいに訪れる恐怖や畏れのようなものには、大人しく従うようにしています。
きっと、風が悪かったのさ。
…まぁでも、神様に課金はしたくねーな、と宗教の勧誘には辟易したりもするのですが。
森の奥に住んでいるのはきっと、はした金ごときじゃ思い通りにならなくて、そのくせ儚いものだと思うので、拝んだって無駄だと思うんですよね。
いつか私は森の奥の何者かに出会えるのでしょうか?
全ては遠い霧の奥、雲の中。
ふんぐるい、むぐるうなふ…ああっ!窓に!まd…
(手記はここで途切れている