おのにち

おのにちはいつかみたにっち

怒りの森をすり抜けて

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四十を過ぎて、クロワッサンの表紙にやたらと魅かれるようになってきた。

お金、暮らし、着物…はまだちょっと早い。
ちょうどそういうことに興味が湧く年頃になってきた、と言うことなのだろう。
雑誌の見出し通りの生き方、なんてテンプレートな人生。

そしてついに奴がやってきた。
一番めんどくさくて、厄介なやつ。

ジェンダー・問題。
生きていく以上私たちは性差という問題から逃れられない。
それでも私はそこにずっと蓋をしてきた。
夫や息子たちを裏切るような気がしたし、今の自分が間違いだと思いたくなかったから。

 

ではなぜ覗き込んでしまったのか。
それはここ数日抱えていた怒りの根源がそこにあったからだ。

 

私は怒っていた。
でもなぜその人に対してそんなにムカつくのか、意地悪な気持ちになるのかが分からなかった。

私の怒りは大概私を傷つけたり侵害した人に向かう。
でもその人はそうではなかった。
いつも親切だったし私のことを友人として扱ってくれていた。

けれどもある言葉がきっかけで私は怒りを抱えて毒を吐いた。
幾夜も考えた今は分かる。あれは言葉をきっかけにして、昔抱え込んだ気持ちがフラッシュバックした怒りだ、と。

 

過去の私はなんだかとっても疲れていた。何もかもがめんどくさかった。
今思えばブックマークやネットの毒にやられていたのだと思う。

一緒に遊ぼうよ、と楽しいidコールの誘いが来ても、乗りツッコミをする気力もなく、もう疲れたんだパトラッシュ、みたいな気分だった。

その人は私のそんな気持ちを読み取って愚痴を聞いてくれた。
私はすっきりして自分なりの解決策を語り、それでいいやと眠りについた。

 

朝起きたら問題は全て解決していた。
その人は私に変わって嫌な役目を引き受けてくれていた。
まるで騎士のようだった。

 

でも私は、その時本当はものすごく嫌だった。
遠回りでも弱腰でも、私は私の思うようにやりたかった。


その人がしてくれたことは私の主義主張とは違うものだった。
だからその時私が言うべきだったのは、本当にありがとうございます、でもこれは私の真意とは違うから自分で解決させて下さい、という言葉だった。

でも私はそれさえも面倒だった、億劫だった。
せっかく丸く収まったものをまた拗らせるのは...と自分の本当の気持ちから逃げ出してしまった。

結局のところ、その人は自分の思うようにしてくれただけだ、全ては善意からだったと思う。私も、良かれと思ってしてくれたことを踏みにじりたくなかった。
その人のメンツを潰すのは…なんて余計なことを考えてしまった。

その人は押しつけがましいことは何も言わなかった。
私がその時正直にごめんなさい、こういう事は困ります、と自分の言葉できちんと話せばちゃんと理解してくれたと思う。

でも私は人の気持ちを害したくない、と自分の本音から逃げてしまった。

 

今取り消してしまったらこの人のメンツを潰してしまうことになる、と勝手に思い込んで余計な気を回したのは私だった。

私は私が心の底で、男性を立てておかないとめんどくさい、と思い込んでいることにようやく気がついた。たてて上げる、ってなんだよ、人間をイチモツ扱いかよ。それこそ最高にくだらなくて失礼だ。

私は勝手に自分の中の常識に縛られて、余計な気を回してしまった。

 

結局のところ、私の怒りは私の中の歪みが原因だった。
その人がまた騎士のように見えたからムカついた。
でも彼が悪い訳じゃない。

今思えば私のしたことは単なる八つ当たりだ。
私の本当の敵は聞き分けの良い自分だったから、唐突な怒りをぶつけられたその人にとっては最高に意味の分からない話だったと思う。本当にごめんなさい。

 

子どもの頃の私は、大人になることを大樹になることだと思っていた。
今ある傷や痛みは、私が大きくなることで自然と内包されていって、堅い樹皮に守られて感じなくなるのだと思っていた。

でも実際は違った。
私は私というおんぼろシステムのたった一人のエンジニアで、エラーコードを吐き出す度にその問題が外部にあるのか内部にあるのか、確認しなくてはいけないのだった。

時にはシステムの根幹から見直さなくちゃいけない時もあるかも知れない。
その時に全部修正するのか、それとも迂回路を選ぶのか。

新しい時代の波と言うバージョンアップがやってきた時には更新するのか、導入を見送るのか。かなり厄介でめんどくさいけれど、私は全部自分で決めたい。

それだけがいつだって私のアイデンティティだ。

 

子どもの頃の私は不器用でおどおどしていて、本さえあればいいような子どもだった。 それでも面白い話や怖い話を拵えて、数少ない友達に話して聞かせて喜んで貰うのが大好きだった。

今の私は40代の不遜な大人になって、誰にでも明るく感じよく振る舞うことが当たり前だと思っている。

見ないようにしてきた、考えたくなかった。

私は端っこに座るのが好きで、みんなに穏やかに接するのが好きだ。
でもそれは本当に私の生まれ持った資質なのだろうか。
自分の中に蓄積された女性らしさ、という思い込みに縛られた演技なのだろうか。

私はもう一度根幹から問いたださきゃいけないんだと思う。
やりたい事と、やらなくてはいけないと思っている事の違いを。

 でもそれは本当にめんどくさくて億劫なことだ。
出来ればマニュアル本で済ませたい。
誰かの受け売りで終わらせたい。

 

心理学、哲学、宗教。
本当の自分を見つける話は山程ある。

それでも私は全部を鵜呑みにするのではなく、自分なりの答えを見つけたい。
例えそれが何週目の道筋でも、読んだ言葉をきちんと自分に結びつけたい。

素晴しい建売住宅より、荒野に立つ自分だけの掘っ立て小屋がいい。
どれだけ信頼できる人がこれは100mlですよ、と言っても自分のビーカーで測りなおすまでは納得できない。

 

私は人生で一番めんどくさい壁は私だ、と今ようやく気がついた。
生きていくのは本当に面倒くさくておっくうだ。
それでもこの厄介でめんどくさいものが私の本質みたいだから、本当に自分らしい私を探して、生きていきたいと思う。

社交的な私と、気弱だった私と。
いつか全て一つになって、それでもいいと思えたらいい。

 

 

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