9・11、アメリカ同時多発テロ事件について、elve姐さんが記事を書いておられた。
姐さんはあの日からなんだかおかしい気がする、と語る。
『飛び出してみたら、ずれた世界』と。
私にとっての『あの日』とは?ずれた世界とは?
記憶に残る、強い衝撃を受けたニュースとはなんだったのだろう?
自分に問うてみて、浮かんできたのはイラク戦争でした。
20代後半、たまたま深夜にTVをつけたら、モニターに映っていたのが良く分からない光の点滅だった時のショック。
そして翌朝の新聞やニュースで、あの光の下でたくさんの人が亡くなったのだ、と理解した時の衝撃。 昨日のTVに映っていたのは、まるでゲームの画像のようでしたから。
その頃の私は名ばかり店長として仕事に追われていて、更に結婚3年目で不妊治療も始めたばかりでした。職場→自宅→病院の繰り返しの日々の中で、自分のことを産む機械みたいだと自嘲するばかり。
病院の診察って当たり前だけどシステマチックで、どんどん尊厳が剝ぎ取られていくようで辛かったことを覚えています。
働いたり、子を生したり、そうした生産的な価値を失ったら私の意義などないのだろうか。
そんな風に思い悩んでいたころイラク戦争があって、たくさんの人が死んで都市が陥落して。
それでも次の朝も、いつも通りの日常が続いていることが、はじめて感じた『ズレ』だったのかも知れません。
さて、elve姐さんの記事に話を戻します。
記事の中で姐さんは『ずれた世界』という言葉を書かれています。
『あの時、おかしくなったんじゃないだろうか』と。
『ずれた世界』って何?
私の頭に浮かんだのは、村上龍さんの『五分後の世界』という小説でした。
物語の舞台は世紀末の日本。
箱根でジョギングをしていたはずの主人公小田桐が、第2次世界大戦後もゲリラ戦を繰り広げている、5分時空のずれたもう一つの日本に迷い込む…というストーリーです。
小田桐は暴力的な衝動を抱えていて、現代の日本に息苦しさ、生きづらさを感じている。だから彼の感じていた『ズレ』は、5分後の世界に行くことで解消されていきます。
ではelve姐さんの『ずれた世界』は?
他者の感覚は共有し得ないものですが、20代の私はモニター越しの戦争と、次の朝も変わらずに続く平穏な生活に強い違和感を覚えました。
私が死んでも世界は続く。
もしかしたらそんな当たり前のことをはじめて実感したのが、イラク戦争だったのかも知れません。 そしてズレや違和感は、自分自身や自分の身内が罹災しなかった、遠い場所の出来事にこそ強く感じられるような気がしています。
『五分後の世界』は、あくまでもよくできた構造の物語です。
だから小田桐が日々感じていた『ズレ』は物語の内に収束される。
では現実を生きる、私たちの中のズレは?
…中学生の時に見た、TV版エヴァの最終回を思い出しました。
深夜に一人、 間に合わなかった?気が狂った?なんて思いながら見たあの最終回は本当に怖かった。自宅にパソコンがないのがまだ当たり前の時代だったから、答え合わせも出来なくて。
もしかしたらサブミナル映像が織り込まれていて洗脳されるのかも…なんて怖い妄想まで浮かんできてしまって、その夜は眠れませんでした。
今は動画のコメント欄や、各種SNSを通じて自分の思考の答え合わせが簡単に出来る時代だけど、あの時代はそれぞれがブラウン管を通して庵野VS俺のエヴァを観ていたのですよね。
だからこそ予定調和から大きく外れた物語の終わりが、そしてその異常さを誰とも共有できないことが、とてつもなく怖かったのでしょう。
私が感じる『ズレ』と、elve姐さんの感じている『ずれ』は、きっと少し違うのだろうと思います。
SNSや各種コメント欄で、多数派の意見ならいくらでも確認できる時代だけど、自分の感覚全てを言い表すような言葉は、きっとどこにも落ちてはいない。
共有できないズレを抱えたまま生きるのは怖い事だけど、このうすら寒い『ズレ』こそが、私たちを現実に結びつける楔なのではないのかな、なんて無責任に思ったりします。
笑い合うことも、手を繋ぐことも出来る。
それでも振り返れば一人、崖っぷちに立っているのが私たちの生なんじゃないか、そんな風に思うのです。