宮内悠介さんの短編集、『彼女がエスパーだったころ』を読んだ。
ライターの「私」が様々な事件に取材を通じて関わっていく、ノンフィクション風のSF短編集。
筆致は冷静でリアルなのに、扱われる題材は疑似科学ばかり。
火を扱う猿にスプーン曲げの出来る美女、ロボトミーめいた脳手術、言葉で浄化した水…
ライターである『私』は当初、科学的なリテラシーを持ちながら事件に関わっていく。
内心ではいわゆる似非だと疑いながら。
しかし物語が進むにつれて彼の認知は曖昧になって行く。
そして主人公が感じた迷いに決着を付けないまま、物語は幕を閉じる。
科学の真偽を暴くこと
さて、この物語はスプーン曲げや水への声かけ、セックスカルト宗教などの非科学的なものをモチーフとして扱っている。しかも、ものすっごくリアルに。
このお話はあくまでもノンフィクションなのだけれど、スプーンも水もカルト宗教も、現実の事件が即頭に浮かんでくる。
…正直、すごく面白くて色々考えさせられたのだけれど、感想が書き難くて困った。
放射能によって汚染された水が声掛けによって浄化されるとか、Twitterに上がってたら正論で大炎上するヤツでしょう⁉
ギリッギリを攻めすぎですよ宮内センセー!
結局この物語が内包している『問題』こそが、物語が曖昧に終わる理由なのだと思う。
あとがきでも著者本人が語っている。
信じることの出来ない『手かざし』での治療現場を見たこと、しかしその場には第三者が踏みにじってはいけない何かがあると感じた事。
けれどもその一方で、得体の知れない水や癌は放置しても治るといった数々の情報から私たちは身を守らなくてはならないと思う事。
つまり科学的な知見を大切にしながらも、狭間にあるものを受け入れることは出来ないか?という知的実験を描いたのがこの小説なのだ。
『薄ければ薄いほど』という短編では、末期がんなどの患者のためのホスピス「死を待つ家」の話が描かれる。
普通のホスピスとは違い、そこでは『量子結晶水』なる謎の生理食塩水が配られる。
「薄ければ薄いほど効果がある」という原則に基づいて配られるその生薬は十の六十乗倍以上に希釈されていて、計算上元の薬剤はほぼ含まれない。
つまりは単なるプラセボなのだけれど、その薬についてライターである主人公が記事に書いてしまったこと、そしてその薬を用いることへの世間の反発が物語の主題となる。
ホスピスで静かに死を待つ女性、かずはの「外部の声が聞きたい」という希望に応じて主人公はニュースに寄せられた『世間からの声』を読み聞かせる。
『患者は希望を欲するものだと思いますし、それはやむを得ないと思うのですが、科学的真実が覆い隠されるようなことになるなら、残念なことと言うよりありません』
『個々の信仰は自由ですが、親が子どもに医療を受けさせないような事態は避けねばなりません』
次々と寄せられる正論に、死を待つ彼女は何と答えるのか。
その答えこそが、一番胸に刺さる。
私自身、疑似科学には批判的な方だと思う。
反ワクチン主義やレメディ、宗教的理由による輸血拒否なんかで助かるはずの命を落とした話を聞くとこの科学の進んだ時代にどうして?と思ってしまう。
でもその一方で、反ワクチン主義を表明した人のTwitterがガンガン炎上していく様子や、寄せられすぎる正論はむっちゃ怖いとも感じる。
みんな命を大事にして欲しいと思うからこそ、意見を寄せているはずなのに、『ウィルスまき散らすなとっとと〇ね』ってどういう事やねん⁉
他人の迷惑即デスなの?
アレルギーで予防接種出来ない人とか、肩身狭くて言えないよね?
それから年代的には『あなたの知らない世界』育ちなので、霊能力者も超能力者もいない世界はちょっと寂しいなんて思ってしまう。
カルト宗教とか詐欺は確かに怖いんだけど、グレーなもの全てを撤廃した『科学的に正しい世界』も病院の廊下みたいに空虚でかなり怖い。
誰もがいつかは必ず死ぬわけで、でも望み通りの大往生なんてなかなか叶わないから、やっぱり神様とかご先祖様がいたらいいよななんて、たまに仏壇とお墓に手を合わせるだけの人間でも思うんですよ、きっと最後は祈るんですよ。
…まぁそんな時に『病気が治る水』売りつけられたらブチ切れると思うんですけど、でもそれを買う人を嘲笑っちゃいけないんだと思いました。
ホントに色々考えさせられる一冊。
いつか、神様に縋りたくなるほどの経験をしたら科学との距離感も変わるのかな?
そんな訳で、もっと年を取ったらまた読み返したいと思います。
それではまた!