昨日読んだ、山岸慎平さんのインタビューがとても良かった。
シスレコードから月イチで届くオーダー用のFAXが面白いんだけど、視聴もできないから名前や写真がなんとなくかっこ良いものをチェックして購入したり。するとね、たいていハズレたりして(笑)。それも込みで、都会を側に感じられていたんだと思います。
失敗しても、時間が経つと、「あれ? 面白いんじゃないか?」に変わる瞬間があることに気づくんです。今になって都合よく考えれば、僕自身が、自分にとって“都合の良いもの”だけで形成されてこなかったことを、ありがたいことだなと思います。
「これをわからない自分はイケてない。イケてる連中はこの良さがわかるんだ」っていう寂しさが湧いてくる、田舎コンプレックスが根っこにあった。憧れの高橋盾さんがピストルズをかっこいい、宮下さんはニルバーナを良いと言うけど、自分には「わからない」。「わからない」という“都合の良くないもの”との摩擦だらけだった。これは自分に対する洗脳なのかもしれないけど、そういう都合の悪いものをなんとか理解しようとよくわからない考えで、自分の中に取り込んでいく作業を、田舎の隅っこで繰り返していた。
『わからないもの』を理解しようとする努力。
すごく良く分かる!
自分自身が子どもの頃の話を思い出した。
子どもの頃、北海道の片田舎に住む私の楽しみは誕生日やクリスマスに本を買ってもらう事だった。
そのうち小さな書店の品揃えでは満足できなくなり、予算内で好きな本を注文して良い、というのが私へのプレゼントになった。
書店で貰った様々な出版社の目録を何度も読み返し、タイトルや短いあらすじから内容を想像して、欲しい本のコードをたくさんノートに書きつけた。
勿論想像とは違う本が届くこともある。
しかし読む本が常に足りない田舎暮らし、つまらないから読まないなんて贅沢な選択肢は無かった。
それにその頃はこんな風に思っていたのだ、この本が理解できないのは私がまだ子どもだからだ、と。
そうやってわからなくても何度か読み返していくうちに好きになった本もあったし、わからないままの本もあった。
山岸慎平さんのインタビューにあった『わからないことを理解しようとした』という言葉に、昔の私と同じだと思った。
あの頃、わからない本をわかろうとする努力をしておいて良かった。
結局楽しめないまま置いてきてしまった本もあるけれど、少し難しい本、理解が及ばなかった物語を何度も読み返すというのは、あの頃の私にとって『世界を拡げる努力』だったと思う。
翻って、今の私はどうだろう?
インターネットの発達で、Amazonプライムのおかげで、今の私の周りには無料もしくは定額で楽しめる本が溢れている。
そんな恵まれた時代になったものだから、合わない本は冒頭で止めたり、自分好みの似たようなジャンルばかりを読み漁るようになってしまった。
昔の私は合わない本に自分を合わせる努力をしていたのに、今の私は自分に合った本ばかりを読んでいる。
成長の伸びしろを自分から無くしてしまったようで、少し寂しい。
今年の夏は、本棚の片隅(とは言えない冊数)に置かれたままの『失われた時を求めて』に挑んでみようかな。
カラマーゾフの兄弟も苦戦したけれど(本読んでマンガ読んで、奇書・新カラマーゾフの兄弟まで読んでようやく面白さが腑に落ちた)古典を知ると他の物語が更に楽しくなると思うので。
…FF7リメイクもクリア出来てないのに最近リングフィットアドベンチャー買っちゃって、いつ読むんだよという気もしてますが…
とにかく今日は、わからないことをわかろうとする努力ってのは大事なんじゃないか、と思い返した次第です。
それではまた!