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『考え方が変わった』と揶揄されるブログの特徴

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山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』という本が好きで、時々読み返している。

文章の細かなテクニックより、他人と向き合う、人の心を動かすにはどうしたらいいのか?という基本的なコミュニケーションに重きを置いている一冊。

上手く人に寄り添うための心の在り方まで伝わってくるから、ストレスで心が凝り固まってしまった時にはピッタリなのである。

 

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

伝わる・揺さぶる!文章を書く (PHP新書)

 

 

本の中に、こんな一節がある。
『お互い心のどっかに揺らぎみたいなものがないと議論にならないな』

これはズーニーさんの知人がメールで寄越した言葉だという。

とても良く分かる。
他者と議論する、というのは『絶対』を持たずに相手の言葉、社会や周りの状況に応じて自分の内面にもう一度問いかける、という事だ。

考えることを放棄して、自分が過去に得た『納得』にドカンと腰を下ろしてしまったら、心は揺らがない、議論にならない。
自分の絶対に固執する人とは、話し合いにならないのだ。

私はそういう人間だから、と思い込むのは簡単だ。
いつも時代に迎合しなくちゃいけない訳じゃない、新しいものに巻かれないようにするのも一つの生き方だ。

でも波が寄せるたびにもう一度、改めて自分の生き方を考えるのは大切な事だと思う。
寄せては返す波に誘われて、飛び込んでみようかな?やっぱりやめようかな…?
そうやって立ち止まったり、進もうとしたり、波に合わせて『揺らぐ』ことが人間らしさなんじゃないか、と私は思う。

絶対に自分は動かない!変わらない!とドーンと座り込んでしまえる人は、浜辺の石だ。
大きくて揺らがない石は、誰かの目印にも、心休める場所にもなってくれる頼もしい存在でもある。
でも、私はまだどっしりした石になれない。
確固たる信念…という自信がまだないのである。

できればもっと歩いていきたい。泳いで行きたい。
違う浜辺まで、遠くの島まで。

そうやって揺らぐことで自分の考えも変わっていく。
でもそれが成長なんじゃないか、樹木のように枝葉を伸ばすってことなんじゃないか。
私はもう少し『揺らぐ』私でいたい、今はそんな風に考えている。

 

『考え』が変わるのはいけないことなの?

 

『揺らぐ』自分でいると、語る言葉が変わったりもする。
最近少し炎上していたのは、はあちゅうさんのこんな記事。

 

lineblog.me

 

 売れ残り独身!と言われたはあちゅうさんが、そんな言葉に言い返す。
他者をモノ扱いするのは失礼だし、反論自体は正しいと思う。

しかし炎上の理由は彼女自身が4年前に『36歳以上で結婚していない男性は何かしらの問題が?』というタイトルだけでアレ?な記事を書いていた、という事実で。

 

am-our.com

なんか、なんか、なんか…だよね。
これは揺らぎの分かりやすい見本で、自分がその年を迎えたから考えも変わった、ってそれだけの話なんだけど。

あのね、未だに年齢で差別する人がいるけど、当たり前だけどあなたが今『恵まれている』と思う10代、20代だとしても、それには必ず終わりが来る訳で。

『あなた』の延長線上に、ババアもオッサンも老害もあるんですよ。
だから、人を年齢で区切ってしまったらいつか自分にブーメランが来る、って言うのは自明の理じゃないっすか。

私は揺らぎたいし、しなやかに変わって行く人は素敵だと思ってる。
でもなぜか、はあちゅうさんの変容には少しだけ『アレ?』って思ってしまう。

なんで、違和感を感じるのだろう?
成長と共に考え方が変わるのは当たり前のことのはずなのに。

 

考え方が変わった!と責められる人を見ていると、言い切り型の文章の弊害、みたいなものを感じます。

  

 

ちょうどはあちゅうさんがこんな言葉を呟いていて。
傷つく勇気…つまり叩かれてもいいから言いたい、強い言葉を書く、ってことですよね?

確かにそんな風な強い言葉に惹かれる人は多いと思います。
でも『傷つく勇気』のある人の強い言葉は、一方で誰かを傷つけて、ネガコメが帰ってくるほど強いから、勇気が必要な訳であって。

傷つく勇気を奮い立たせて書いた方はいいかも知れないけど、傷つけられた方はどうなの?って思ってしまいます…。

自分の主張を強く書く!そうしないと言いたい事は伝わらないし、反響も帰ってこない、って言うのがイケハヤ理論、そして一部の文章術のメソッドではあります。

私もそれに則って書いてしまった記事が幾つかあります。

例えばこんな記事。

 

yutoma233.hatenablog.com

 


内容自体は本当に私の思ったことだし、今もこんな風に考えています。
言い切りが強い分、反響も大きかった。

ただ異論反論を恐れすぎて、自分の考えは正しい!と固執しすぎて、自論自論自論!ばかりになってしまっているなぁ、と。

自分で書いてみて分かったことは、強すぎる言葉は自分が傷つけられることへの勇気なんじゃなく、己の『正しい正しい正しさ!』の理論武装なんじゃないかと。

今は少し考えが変わってきていて、もうちょっとふわっと緩く、他者に寄り添って書いた方がいいんじゃないのかなぁ、と思ってます。

その緩さに付け込まれたり、反響を得られないとしても、誰かを傷つけるよりはいいよね?

 

 

 黒でも白でもないことを、はあちゅうさんはクサしていましたが…。
とりあえず今の私はグレーで、灰色に書いて行きたいかなぁ。

別にはあちゅうさんやイケハヤさんに、恨みや妬みがある訳じゃありません。
ただ私の考えは違うよ、っていう、これは小さな議論です。

言い切らないで、灰色のままで書いて行きたいと願う私のスタンスは甘いっすかねぇ?
でも私は、そんな風な時代の波を確かに感じているのです…。