こんなツイートが非常に話題になっておりました。
子どもは泣くもの、騒ぐもの。
それは大前提として、放置する親、叱らない親、甘い親、親になりきれない親が嫌い、という内容でした。
俺の気持ちをまとめてみた。 pic.twitter.com/5SNKgiDeWs
— ロアイク (@begard_reni) 2018年6月6日
まず最初に感じたのは親側と、子を持たない人の感覚は乖離しがちであるということ。本当に現代社会は『親失格者』で溢れているのか?
子どもを持たない人間の、親への期待値が想像以上に高すぎるのではないか?と。
前提条件として、私は子どもがいるのでどうしても子持ちの肩を持ってしまいがちです。フェアではありません。
そして子持ちは親子しかいない非常に乳臭いイベントに行き慣れているので、子どもの泣き声への耐性が異常に高くなっています。
申し訳ありません、よその子どもが泣いても正直気がつきません。
子どもがいる親は子どもに対して鈍感になりがちで、子どもがいない人にとっては放置プレイで信じられない、と感じられることも多々あるのでは、と思います。
私も不妊治療をしていた時期はそう感じていました。私が親ならもっと愛情を持って育てられる、子どもが可哀想、って。
…今思えば非常に思いあがった不遜な考えでした。
実際に男児を二人育ててみたら五歳まで五体満足でいてくれただけでも感謝祭を開きたくなりました。
そんな風に、子どものいない頃に想像した理想の親像と、自分自身が子を持つようになって抱いたリアルな親像には、かなりの乖離があります。
ドラマに出てくるようなマンションに一人暮らしすることは絶対にあり得ませんし、少女漫画のような恋もめったに落ちてません。
それが分かっていながら、親子関係に関してはドラマや小説に出てくる理想像が普通なのだと思いこんでいたあの頃の私が、今となっては不思議に思えます。
それだけ日本の母子信仰が根強いということなのでしょうか?
親のくせに、なんてつい思いがちですが親だって子どもが三歳になるくらいまでは正直新卒と同じです。大卒のフレッシャーズに、完璧なビジネスマナーを求めるのは厳しすぎやしませんか?
正直、理想の親に遭遇する確率は曲がり角でトースト咥えた女子高生とぶつかるくらい低い、くらい期待値を下げていただけるとこちらも非常にありがたいのです。
もちろん親の側も、自分が子どもに慣れすぎて無神経になっていることを自覚する、子どもが嫌いな人間は多いのだ、という意識は常に持たなくてはいけないのだと思っています。
子ども嫌いは当たり前の意識
私自身、独身の頃は子どもが嫌いでした。
うるさいし、どう扱っていいか分からないし、なんかベタベタしていて汚いし。
特に昔は、親はキレイな格好をしているのに子どもは汚れているタイプの親子が嫌いでした。 もうちょっと子どもの身なりも気にしてやれよ、なんて不遜なことを思ってました。
…知らなかったんです毎日風呂に入れていても夏場は昼には頭が臭くなるとか幼児のお出かけは着替えが2~3着ないとパーフェクトな美しさは保てないとか過酷な現実を。
その後も色々心が折れまして、正直今は5体満足ならいっか、ぐらいまでハードルが下がっています。
今は割と、子どもが好きです。勿論気の合う子どもと、合わない子どもは居ますが。
子どもだって一人一人個性の異なる人間だから、仲良くなれる子とイマイチな子がいて当たり前。子持ちになって初めて気づいた、当たり前の現実です。
大人と言う括りで縛れる凡庸な人間がいないように、子どもって名前の素直で真っ白な生き物なんて、この世の何処にもいないのです。
ただ、かつての自分が子ども嫌いだったように、子どもへの免疫が無い人が子ども嫌いだと言うのは当たり前の現実だと思います。
なんでも、好きに言っていいんです。
迷惑だと感じたら素直に声に出せばいいし、 嫌いでいいし、親は何してると思ったっていい。
子持ちが傍若無人に振る舞っているように見えるなら、あなたも睨んだり怒鳴ったり、好きに振る舞う権利があるのだと思います。
あなたは社会の規範をきちんと守ってそこに居ます。
そこが子どもに塗れた動物園であれ、奇声に満ちたファミリー向け居酒屋であれ、あなたはうるさいと思っていいし、ちゃんと躾けろと声を上げてもいいのです。
それはあなたに認められた当然の権利だと私は思います。
親の気持ちなんて、あなたの知った話ではありません。
先ほど期待値を下げて、などどお願い申し上げましたが結局子育てなんて私自身独身の頃には想像もつかなかった話です。
あなたはあなたの想像する親の規範からはみ出した親を、バンバン失格扱いにして、見下して貰って構いません。
もちろん社会は子どものためだけにあるものではありません。
それはきちんと理解しています。
だからあなたに苦情を言っていい、と言うのです。
ただしそれと同じように、大人のためだけにあるものでもないと思うのです。
泣いたりじっとしていられない乳幼児期は、美術館や静かなコンサートなど、大人向けのイベントはなるべく避けるのが他の大人のためにも我慢を強いられる子供のためにも必要なマナーなのではないか、と私は思います。
ただその一方で、まとめ中にあったような子どもがドタバタと走り回っている居酒屋は、そもそもファミリー層向けなのではないか? とも思うのです。
あなたが子どもを嫌うのは自由ですが、子どもが走り回るのを許されているような場所でも、親は常に申し訳ない顔をしていなくてはいけないのか?と少し疑問に感じます。
正直、親から見てもアレはないわ…と感じる親は確かに存在しています。
このツイートで怒られているターゲット層も、なんとなく分かります。
金や茶色に髪を染めて、子どもの髪まで同じように染めちゃう親ですよね?
居酒屋で子どもを放置して、母親までタバコをふかして…。
私もかつては、金髪の親が信じられないと思っていました。
でも実際に親になったら、そこまでイライラしなくなりました。
不妊治療をしてまで子どもを作って、ずっと夢見ていた親になっても、結局私は私の延長線上にしか進めませんでした。
命を賭けて産んだ子への母性、なんてドラマで見るような特別な魔法は、結局現実には存在しないのです。
ただ淡々と日々積み重ねる地道な努力と根性が、人を親じみた疲れた顔にするだけで、理想の親なんてどこにもいないんだ、と3ヶ月の徹夜の果てにようやく実感しました。
10代の頃、25歳になったら松嶋菜々子みたいな綺麗なお姉さんになるんだ、と信じていましたが結局無理でした。私の延長線上に菜々子は存在しなかったからです。
同じように、延長線上に真面目な親が存在しない人もいるのだと思います。
だったら子どもを産むな、子どもが親になるなと罵りたくなる気持ちも分かりますが、それって優生保護法と何が違うのでしょう?
子どもが嫌いで構わない、だけど…
さて先ほど私は、子どもが嫌いで構わない、と書きました。
では子ども嫌いの言い分の、何に文句があるというのでしょう?
私が要求したいのは二つだけ。
あなたが想像する親の規範を、一般的なマナーにしないで欲しいんです。
あなたの理想の親子像を見せろと強要しないで欲しいんです。
例え子どもを叱ったとしても、ある人から見れば甘すぎる、もっときつく叱らなければ意味がない、と思うかも知れません。逆に公共の場であんなにきつく叱らなくても、と思う人もいるでしょう。なにより子どもを叱るのは周りに理解してもらうためのPRなんかじゃありません。その子自身の将来のためです。
私は子どもが泣いたり、騒がしくしたときは周囲に謝ります。
でもそれは私自身が申し訳ないと感じて、その気持ちを何とかしたいと思ったから謝っているのです。
『子ども嫌いの言い分』の中で、子どもは泣くもの騒ぐものという言葉は親が言うものではない、と言う記述がありました。同じように子どもを叱れ、親は謝罪しろという言葉も、他者から強要されるものではないと思います。
近年、人前で部下を叱責する上司は無能だ、と言われるようになりました。
最近の親も同じです。
叱り続けることは子どもに無力感を植えつけたり服従させる効果しかなく、それは教育ではないという考え方が主流になってきています。
それでも勿論、必要に駆られて子どもを叱るときはあります。
ただし、それをたまたま居合わせた全ての人が納得できるように見せることは難しいと思うのです。現実社会の親も子どもも、理想の親子ドラマを演じる役者にはなれないのですから。
(なお子どもがソフトクリームで服を汚した話がありましたが、そういう時はさすがに弁償するのが義務だと思います。しかし普通は座るまで子どもにソフトクリームは持たせません。絶対に落とすからです)
確かに親が謝罪をすればほんの少し空気は和らぎます。
子どもの泣き声は苦手な人には騒音なのだから、そのくらいはしてもいいのではないか、と思う時はあります。
けれども他者には騒音にしか聞こえない子どもの泣き声には、色んな意味が込められているのです。
たとえば半覚醒状態でふにゃふにゃと泣き声を上げた時など、下手に揺するよりもそのまま手を出さず、息を飲んでいた方が静かに寝てくれる場合もあります。
ただ静かに息を飲んで三分待つだけで、子どもはまた静かに寝てくれるのです。
親は自分の経験則でそれを知っています。
一方で、よしよしとすぐに抱き上げて揺すったら、まだ眠いけれど目を覚まして機嫌を損ねた子どもが再度眠りに落ちるまでに2~3駅は泣きわめく、なんて場合もあるかも知れないのです。
本当に社会や子どものためを思うなら、3分放置が正しい対策なのではないか、と私は思います。
逆にそれでも子どもを抱いて申し訳ない顔でよしよしとなだめ、周囲に頭を下げる、不憫な母親であることを要求するならば。
あなたはちゃんと自覚しなくてはいけないと思います。
社会のためでも、子どもの躾のためでもなく、ただ自分が良い気分になるためだけに、インスタントな感動ポルノが見たいのだと。
申し訳ないと謝罪をすれば、態度を示せば許してくれるとあなたは言います。
泣いた子どもを放置して、嫌な気持ちにさせたまま去った親のせいで子どもが嫌いになりました、と言うのです。
謝罪をすればあなたのモヤモヤも少しは晴らされることでしょう。
何やらほんのちょっと、社会に貢献したような、良い人間になった気すらするかもしれません。
でも本当のあなたはただ座っているだけです。
ただ座って、正しい出し物を見せろと見知らぬ親子にせがんでいるだけなのです。